第72話 拉致

文字数 1,996文字

ジョンの家を出たアイクのセダンは、時速六十マイルで、真っ直ぐに自宅に向かった。
開け放した窓から入る風のせいで聞こえにくいが、鼻歌も途切れない。
アイクはいつになくご機嫌なのである。
きっと、エミリーの復讐を果たした様な、妙な達成感のせい。
アイクの中のエミリーにまつわるドラマが、今日、彼の勝利で終わった様に思えたのである。

自宅の前に車を止め、アイクが手にしたのはレミントンM870。
人通りがなくはないが、芝を横切るアイクに、声をかける者はいない。
何なら逃げていくが、すべてを手に入れたアイクは、何事も気にしないのである。

家に入ったアイクは、鍵と銃をソファに放り投げた。
それはいつも通り。
特に、何かする事があるわけではない。
彼が目指す先は、冷蔵庫である。
ジャーキーと瓶ビールが夕食。これもいつも通り。
アイクは、ソファに身を沈めるとテレビをつけ、ビールを口に運んだ。
シーズン12まで見進めた刑事ドラマが待っている。
誰にも邪魔されない、アイクだけの時間の始まりである。
やがて、アイクは、テレビを見ながら寝崩れた。
何も考えず、本能のままに快楽に落ちていく。彼の理想の眠り方。
ビール瓶が床に転がったら、クリーニングを頼めばいいのである。

熟睡だった。目の奥が満足している。
欠伸をしながら目を開いたアイクは、遥か遠くのベビー・ブルーの空を見た。
空である。
木の枝も何本か見える。草の匂いが瑞々しい。頭を動かせば土の匂いもする。何よりもその触感。
背中には湿気。
アイクは、限りなく、草の上に寝かされている可能性が高い。
眠りについたのは、確かに自分の家である。
アイクは、目を閉じ、何度か深呼吸をすると、改めて、目を開いた。
やはり、見えるのは空。
何事にも拘らないアイクは、少しだけ考えると、シンプルな結論に行き着いた。
また、やられた。
理由は分からないが、薬を盛られた。
二度目は屈辱である。
眉間に皺を浮かべたアイクは、暴れることなく、薬の効果が切れるのを、ただ静かに待った。

三十分だか、一時間だか。
試しに体を起こしてみると、アイクは、普通に起き上がることが出来た。
出来るものである。
周囲は鬱蒼と茂る木々だけ。改めて思うが、森で正解の筈である。
異質な存在が一つ。
それは、アイクの傍らのリュック。
カーキ色のそれは、アイクの胴体ぐらいの大きさ。
四つ這いで近寄ったアイクは、リュックを引き寄せ、下から現れた紙切れを手にした。
メモである。
「一週後にここへ。」
書かれていたのはそれだけ。日付もサインもない。
目を見開いたアイクは、リュックの紐をほどき、大きく口を開いた。
或る程度、予想はついたが、中には食糧がぎっしり詰まっていた。

アイクは、監禁されていた日々を思い出した。
同じ奴らの仕業なら、アイクは殺されない。
メモから考える限り、一週間以上、この地に置かれる可能性があるが、逆に、この食料は自分にとっての一週間分はあると考えていい。
アイクは、リュックの中を軽くかき回し、ジャーキーを見つけると小さく微笑んだ。
我が家の冷蔵庫のジャーキー。
改めて周囲を見回したアイクは、人の気配が微塵もないことを確認した。
満更でもなくなってきたアイクは、しかし、不意に眉間に皺を寄せた。
ビールがないのである。あるのはジャーキーだけ。
怒りが止まらない。
監禁のことを思えば、それは数か月、ジョンを思えば二年以上になる可能性がある。
いつか気付いた相手が、食料と一緒に一週間分のビールを降ろしたとしても、冷蔵庫はない。
冗談ではないのである。

アイクは、確かめる様に片膝を立てると、急がず、ゆっくりと立上った。
何処までも続く深い森。どちらを向いても、木の幹や枝が幾重にも折り込まれ、先が見えない。
しばらく動きを止めたアイクは、思い出した様にしゃがみ込むと、リュックのハーネスに腕を通した。
食料を持って移動するのである。
何日か歩けば、流石に景色が変わるかもしれない。
人間の足は、意外と馬鹿にならない。
そう思ったとき人は、アイクはもう歩き出していた。
しかし、戻るならここ。
仮に脱出に失敗しても、食糧だけは手に入れなければならない。
アイクは、傍らの木の枝を折った。
順番に折って、目印にするである。

行く当てのないアイクが進む方向は、今のまま、直進。
どんな森にも、果てがある。
その先は、それから考えればいい。
アイクは、何も考えずに、黙々と歩いた。

高い木々の間から垣間見える空は、徐々にローズ・レッドに染まっていく。
夕方である。
真っ直ぐ、真っ直ぐ。
どこまでも、どこまでも、アイクは歩いた。
やがて、日が暮れ、暗闇の世界が訪れると、とうとうアイクは足を止めた。
アイクの頭を埋め尽くしたのは、純粋な後悔。
歩き出すのではなく、野宿の準備をするのが正解だった筈である。
今からでは、火起こしも難しい。
一人ぼっちのアイクは、静かにその場にしゃがみ込むと、リュックにもたれたまま、暗闇を睨んだ。
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