第66話 想起

文字数 10,017文字

何も起きないこと以外に目的のない時間。
パープルは、頻繁にクルーザーの場所を変えた。安全と心の健康のためである。
その日のクルーザーが錨を降ろしたのは岩壁の傍。
砕ける波の飛沫を受けるアシカが堪らない。
可愛さを堪能した六人は、パープルを一人コクピットに残し、メイン・サロンに戻った。
遊ぶ生き物マテウスのため、ブレインの時間である。

テーブルを囲む彼らは、もう手元を見ないでもブレインで遊べる。慣れは嘘をつかないのである。
しかし、一緒にいる時間に慣れたのか、自分の番を終えたビクトリアが、エマとの間にあった小さな一線を越えた。それは、慣れは怖いということ。
「死んだあなたの恋人は、どんな人だったの?」
皆が、地雷と思って、避けてきた話題である。
アーサーは、悪気の見えないビクトリアを睨んだ後、隣りのエマに目をやった。
首を傾げた彼女は、目の前に揃うヘクトルとアーサーを見ると、軽く笑った。
「顔は二人に似てるわ。」
当たり前である。エマは、笑いながら自分の手札を切った。
次はマテウスの番。一人、真剣な彼は、考え抜いた末に、自分の手を進めた。
意外と軽い空気に、ヘクトルも手を進めながら口を開いた。
「性格は?」
「それは気になる。」
続いたのはアーサー。クローンの個体差は、彼らの最大の関心事なのである。
エマは微笑んだ。
「敢えて言うなら、アーサーに似てるわね。」
ヘクトルとビクトリアに微笑まれると、何となく照れたアーサーは手札を切り、ビクトリアの番であることを目で伝えた。
カードを見つめるビクトリアは、話を先に進める。
「二人はどうやって出会ったの?」
「またか。何でそう知りたがるんだ。」
アーサーが見せたのは気遣い。喋るのはヘクトル。
「僕達みたいに、サミュエルが変なことはしてないから普通さ。」
エマは、眉を潜めて笑った。
「サミュエルは何もしなかったみたいね。でも、ヨシュアのせいで変だったの。一回目は…。」
「一回目?」
アーサーとビクトリアが声を揃えると、ヘクトルは小さく微笑んだ。

一回目。
エマは、学生の頃、海水浴場でライフガードのボランティアをしていた。
彼女にとって、救命は生まれながらの使命なのである。
その日も、崇高な任務を胸に肌を焼いていたエマは、海辺のざわめきに混ざる聞き慣れない声に気付いた。
「助けてくれ!ヘイ!誰か!」
“溺れてる”
あちこちで聞こえだした同じフレーズが重なり、だんだんと大きくなっていく。
エマは双眼鏡を手にした。
皆の顔と指が向かう先は一つ。
かなり、沖の方だが、沈みそうな人影がある。どう見ても大人、青年だが、ふざけている様には見えない。
仕事の時間である。
エマは、警笛を鳴らすと、救命用具を手に、駆け出した。
勝負は数十秒である。
ライフガードは一人ではない。遠く離れた同じユニフォームのライフガードも、救命用の浮き輪を持ち出した。
レーザーの様に真っ直ぐ。浜辺に転がる体は飛び越える。最短距離を全力疾走である。
いよいよエマが海に入ろうとした時、しかし別の線が交わった。
ユニフォームを着ていないプラス・ワン。
不意に走り出した一人の男が、エマより先に海に飛込んだのである。髪の色はブルネット。
走る彼女が揺れる視界で判断する限り、救命用具を持っていない男のクロールは早い。
エマは、心の中のギアを上げた。
エマが持っているのは伸縮式の棒。溺れる者と距離をとるためである。
手足の自由を奪われると、ほぼすべての人間は溺れる。
ミスター・ブルネットは、新しい時限爆弾をセットしたのである。
エマは全力で泳いだ。
無事を願う気持ちが、ますます彼女のギアを上げていく。もうトップ・ギア。
間もなく、エマは海中から顔を上げた。
ターゲットまでの距離を把握するためである。
彼女の目の前に現れたのは、駄目なビジョン。
時すでに遅く、ミスター・ブルネットは、溺れる男の体を抱えていたのである。
振返った仲間は遥か後方。
自分一人で、男二人を助けることは出来ない。
絶望に顔を歪めた瞬間、エマの眼前でありえないことが起きた。
ミスター・ブルネットが、溺れていた男の肩を抱く様に抱え、ゆったりと泳ぎ始めたのである。
驚愕したエマは、ただ静かに立ち泳ぎを続けた。
優雅にすら見える男がエマに近付いてきたのは、間もなくのこと。
「大丈夫だ。間に合った。」
ミスター・ブルネットはエマに微笑んだ。溺れていた男と年は同じぐらい。
心が戻ってきたエマは、ルーティンを思い出した。悠長に喋っている場合ではない。
「急いで戻るの。ここからが勝負よ。」
遅れていた仲間のライフガードが浮き輪を差し出すと、溺れていた男の上半身は浮き輪に預けられた。しかし、彼は喋らない。危険な状態かもしれない。
三人は、浮き輪にかかるロープを手に、岸に向かって、全力で泳いだ。

間もなく海底に足が着くと、ミスター・ブルネットは溺れていた男を抱え上げ、砂浜を走った。
波を避け、男を寝かせると、エマ達の周囲に人だかりが出来た。
誰もが、幸せな時間に不意に訪れた命の危機に、胸を痛めているのである。
エマの見つめる中、ミスター・ブルネットは、男の鼻の下に指をやり、呼吸を確認した。
真剣な表情。呼吸をしていないと言うこと。
ミスター・ブルネットは、一度、エマと視線を合わせると、男に向き直った。
両手を合わせ、体重をかけて胸を押す。
倒れていた男は、噴水の様に水を高く噴き上げた。それは噴水の様。
エマの目は大きく見開いた。
男がもう一度胸を押すと、青年はもう一度水を噴き上げた。
二度目。余りにきれいな噴水は、心配する人の輪を、二秒で観衆に変えた。
常識的に、これはジョーク。大掛かりで、確かに質の悪いジョークである。
周囲から力のない笑い声が漏れ出すと、大きく開いていたエマの目に、ゆっくりと冷たい光が混ざった。
呼吸をしていなかった筈の男が起き上がり、周囲に手を振ると、しかし、観衆はとうとう声を出して笑い始めた。
ショーとして、それは確かに迫力があったのである。
周囲の反応に気をよくしたのか、ミスター・ブルネットは爽やかな笑顔をエマに見せた。
「助かって良かった。本当にどうなる事かと、…。」
エマは、最後まで話を聞かずに立ち上がった。流石に許せなかったのである。
仲間のライフガードは、浮き輪を奪う様に取り上げると、エマの後を追った。
ミスター・ブルネットは名前を口にしている様だったが、エマは耳を貸さなかった。

二回目。
ボランティア帰りのエマは、仲間四人で立ち寄ったスポーツ・バーに、アーム・レスリングの台を見つけた。店は混み合っているが、一際高い場所にある台は、人目を引かずにいない。
四人が、アーム・レスリングのルールについて、議論を始めたのは当然。体に自信がなければ、こんなボランティアはしていないのである。
オーダーを終えた後も議論は続いたが、間もなく皆のプレートが並ぶと、さすがに話題は変わった。人の好奇心は、決して一か所に留まれないのである。
しかし、ただ一人、エマの頭だけは、アーム・レスリングに拘っていた。
丁度その頃、ベンチ・プレスの記録が伸び始めていた彼女は、その成果を何かで確認したかったのである。思うに、今以上の舞台は考えられない。
ステージ上に登る挑戦者は後を絶たないが、基本は男同士。タトゥーや髭が、アーム・レスリングが彼らのものだと教えている。
諦めたエマもプレートと向き合ったが、やがて訪れた、ピッチャーの追加を注文した瞬間。
体格の良い女性二人が対決していたことに気付くと、エマは我慢できなくなった。
「ちょっと、行ってくるわ。」
仲良しのサシャが答える前に、エマはステージに駆け上がっていた。
「ヘイ、チャンピオン。私に挑戦権はある?」
無視するのは難しいノリである。チャンピオンは余裕を見せた。
「人に物を頼む時はまず名乗れとか言わせる?」
「あなたが勝ったら教えてあげるとか言うかもよ。」
エマの笑顔に、チャンピオンは首を傾げた。
腕が丸太の様に太いチャンピオンには、ジョークに聞こえたかもしれない。
純粋に力を試したいエマは、笑顔のまま、グリップ・バーを握った。
チャンピオンが後に続いたのは、一瞬で済ませようと思ったから。
普通のレストランと変わらないざわめきの中、二人が手を組むと、サシャが声を上げた。
「頑張って、エマ!」
他のテーブルからも声援が上がると、店内の無数の目が、徐々にステージに集まり始めた。
二人の体格差が、鑑賞に値するレベルだったのである。因みに、エマは決して小さくない。
店内に不意に生まれた一体感は、それなりのアスリートが一度は経験するもの。
当然、それを知る二人は、どちらからともなく視線を逸らすと、一度、組んだ手を外した。
それは二人の気持ちが乱れたから。仕切り直さないと、気持ちが悪いのである。
サシャは、エマと視線があうと、もう一度声をかけた。
「小さい方に二十ドル。」
彼女の手にアンドリュー・ジャクソンはいない。当然、ジョークである。
続いた声援は、当然、逆。
「大きい方に二十ドル。」
「俺も大きい方。」
「俺もだ。」
「賭けにならねぇな。」
自由な声が続いたが、エマは気にしない。彼女に負けるつもりはないからである。
そうと知らないサシャが小さく後悔した時、奥のテーブルにいた一人の男が手を挙げた。
「僕は小さい方。三枚でいいか。本当に払う。」
男の手には、二十ドル札が何枚か握られているので、言葉の通り。
店内がゆっくりとその事実を知ると、男は言葉を続けた。
「どうしたよ。賭けるんだろう。早く出して。」
店内にどよめきと笑い声が起こると、店の雰囲気はまた違うものに変わった。
引けない雰囲気。
やがて、一人が二十ドル札を取出すと、次が続き始めた。
賭けが成立したのである。
囃し立てる声は、飛び交う札の枚数を増やした。ナプキンにサインを入れ、賭けを仕切ったのはサシャ。成り行きである。
ステージから眺めていたエマは、自分に賭けた男の正体にようやく気付いた。
正体と言っても、名前も知らない。海で会った、例の男。
ミスター・ブルネットである。
彼のテーブルには、他にも十人ぐらい。溺れる振りをした男もいる。
顔が一瞬強張ったエマは、チャンピオンに向き直した。
外野はあくまで外野。彼女は勝負に集中しなければならないのである。
エマは、待っていたチャンピオンに微笑むと、グリップ・バーを握った。
審判は店主とウェイトレス。見た目で判断する限り、親子である。
何なら、一番闘志が漲っているのは店主。二人が手を組むと、店主はその手を大きな手で包んだ。
「ストップ!」
店内が静まり返ると、店主は二人の顔を交互に見た。
リズムを刻む様に小さく揺れていたエマの動きが消え、チャンピオンが吸っていた息を止る。
空気が止まる時間。
店主は、二人の気持ちが最高に高まる瞬間を見つけた。
「ゴー!!」

「ウィナー!!」
店主が手首を握り、高く掲げたのはエマの腕。
秒殺である。
賭けが作り出した興奮が店内を埋め尽くす中、エマはチャンピオンと名前を教え合った。
彼女の名前はエリザベス。名は体を表さない。
隣りの大声から逃げるために耳を押さえたサシャは、自分の仕事を思い出すと声を上げた。
「リトル・エマに賭けた人!ナプキンを持って来て!」
ざわめきの中、テーブルに近付いてきたのは四人だけ。倍率はほぼ十倍である。
そのうちの一人はミスター・ブルネット。
笑顔でサシャを見ていたエマは、彼に気付くと声を上げた。
「その男は駄目よ!」
皆の視線は、一斉にエマに注がれた。
賭けのルールが途中で変わる事はあり得ない。負けた者でさえ、顔を歪めたのは、警察が気になったから。
エマが声を上げた理由はシンプルに二つ。
妙な男に金を奪われるのが気に入らないのが一つ。
ミスター・ブルネットの視線を感じると、エマは言葉を続けた。
「そのお金を賭けて、私と勝負して!」
付きまとっているかもしれない男に、自分の力を教えるのがもう一つ。メインはこちらである。
ミスター・ブルネットは、理解不能な展開に静まる店内を見渡した。賭けた本人に拒絶されると、危険人物扱いされたニュアンスは否めない。
「手を握れるぞ!変態!」
声を上げたのは、ミスター・ブルネットのテーブル。仲間である。
「行け!ストーカー!」
飾らない言葉に、店内はゆっくりと興奮を取り戻し始めた。
「変態!」
「変態!」
「変態!」
「変態!」
声援の中、ミスター・ブルネットは両手を挙げ、笑顔でステージに登った。
ステージに上がった彼は、改めて両手を挙げた。
歓声を浴びながら、笑顔のこぼれそうな彼は、エマに話しかけた。
「僕はヨシュア・コーエン。」
エマは視線を合せない。何故なら、叩きのめすのが目的だから。
「OK、ヨシュア。ご褒美は没収よ。」
苦笑したヨシュアは、客席に向かって声を上げた。
「ここにいるエマは、僕に勝つらしい。ただ、言っておく。僕はタフガイだ。僕に賭ければ、一杯飲めるぞ!」
自分の役割を知るサシャが立ち上がると、一度金を失くした客が押し寄せるのに、時間はかからなかった。

店内に笑顔を振りまいていたヨシュアの視線が戻ってくると、エマは、顎でグリップ・バーを差した。
繰返すが、彼女の目的は一つだけなのである。
グリップ・バーを握った二人は、店主に誘われるまま、台上で手を組んだ。
「痛ててて。」
体を捩じって逃げたのはヨシュア。
視線が気に入らなかったエマが捻ったのである。歓声に笑い声が混ざったのは、その夜の雰囲気。賭けで昂っていても、温もりは残っている。
そして、仕切り直し。
二人の手を組ませた状態で、何かを悟った店主は、エマに微笑んだ。
「ゴー!!」

「ウィナー!!」
店主が手首を握り、高く掲げたのはエマ。
やはり秒殺である。
改めて、金の力がつくり上げた興奮が、店中を沸かせ、エマは何度も拳を上げた。
ヤジに笑顔で答えるヨシュアに、エマは小さく囁いた。
「もしも、私をつけ回したら、腕で知恵の輪をつくれるって教えてあげるわ。」
粉砕骨折である。
ヨシュアが大きく眉を上げたのは、警告が正しく伝わった証し。
エマは、満面の笑みを浮かべると、ヨシュアの背中を力一杯叩いた。
ステージから転がる様に降りたヨシュアは、テーブルの仲間の元に戻ると、喝さいを浴びた。
「やるな。」
「すごいな。」
「変態。」
ヨシュアがエマを狙っていることは確実である。
満更でもないヨシュアに呆れたエマを、サシャ達も温かく迎えた。

三回目。
ボランティアの最終日。
エマは、サシャと二人で、海辺のレストランにランチを食べに来ていた。
前から目を付けていたのである。
白塗りの店舗から大きくせり出したテラスには、エイジングしたコッツウォルズ・ストーン。
スカイ・ブルーのテーブルに、二脚ずつ添えられたホワイトのロビー・チェア。
若者が気に入らない理由はない。
但し、ツボは、時々、流れてくる小舟に乗ったバンドの演奏。
メンバーは老人。
年老いた彼らが、どんなリクエストにも応えて演奏するのがユーモラスで、人の心を掴んで離さないのである。
そんな人気の店。二人が座ったのは、奇跡の海辺の特等席。サシャが引き当てた幸運である。
二人が選んだのは、黒胡椒の効いた卵黄だけのカルボナーラ。生クリームはなし。
店の看板メニューである。
エマが、カリカリに焼いた最後のパンチェッタを口に運び終えた時、先に食事を終えていたサシャが、不意に立上った。
言葉はない。
小さな驚きに、動きを目で追ったエマは、サシャを見上げ、そして、目の端に映った人影に振返った。
そこにいたのはミスター・ブルネット。ヨシュアである。
口を開いたのはサシャ。
「偶然かも。」
笑顔の彼女は、ヨシュアに手を挙げると、エマを指さし、その場を去った。

ヨシュアは、眉間に皺を寄せるエマの隣りに静かに腰を下ろした。
先手はエマ。変な空気に飲まれる気はないのである。
「偶然?」
ヨシュアが微笑むと、四人の歌手を乗せた小舟が、二人の前に流れてきた。例の奴である。
「これも偶然?」
余りのタイミングにエマの眉間の皺が深くなると、ヨシュアは、微笑んだまま、立ち上がり、バンドに金を渡した。
老人達がギターを抱える位置は高い。
間もなく、皺だらけの顔にとびっきりの笑顔を浮かべる彼らは、エマの知らない歌を歌い始めた。
声が震えているせいかもしれない。エマは、六十年代のオールディーズを感じた。
ヨシュアは謎過ぎるが、バンド自体は確かにエマが見たかったもの。
エマは小さく微笑み、リズムをとった。折角だから、楽しむのである。
隣りに座るヨシュアは、そんなエマを見ると、改めて微笑んだ。
やがて、老人達の歌は、クライマックスに辿り着いた。
「ベイビー!アイ・ラブ・ユー!カモン!ベイビー!」
老人達はひたすら繰返した。
聞いてはいたが、絶妙な微妙さ。
カモンと言われても、彼らの元に行くとは決して思えない。
人の気持ちを大切にしたいエマは、遂には耐えられなくなり、下を向いた。
笑いが止まらない。
きっと、これが彼らの魅力である。
曲が終わると、ヨシュアは立ち上がり、大きな拍手をした。
エマも、笑い過ぎて滲んだ涙を小指で拭ってから、拍手をした。
まもなく、船は動き出し、二人は、小さくなっていく老人達を見つめた。口を開いたのはヨシュア。
「ラモーンズの名曲だ。」
まさかのパンク・バンドである。エマは二度笑った。
まさに、そのタイミングで来たのは、花の籠を持った女の子。すべてはヨシュアの予定通りかもしれない。
「また、偶然?」
もう、エマの眉間に皺はない。
ヨシュアが金を渡すと、女の子はホワイト・バイオレットを手に取り、エマに差出した。
「ありがとう。」
笑顔のエマは、花を一度は受取ったが、すぐに女の子の胸元に差した。
「花言葉は、無邪気な恋よ。」
それは、エマが花をもらうのに慣れているということ。モテなくはないのである。
立上ったエマは、女の子の背中を押しながら店を出た。支払いはなし。
ヨシュアの怒涛の攻勢から逃げたのである。
ヨシュアは、エマの後姿を見失わない様に、ウェイターを大きな声で呼んだ。

海岸を一人で歩いていたエマに、ヨシュアが走って追いついたのはそれから間もなく。
足を止めないエマは、前を向いたまま、口を開いた。
「また、偶然?」
ヨシュアに今までの余裕はない。
「偶然なわけないだろう。僕は何も食べてないのに、金だけ払うのか?」
エマは小さく笑った。これで互角である。
「歌にお花よ。あの席が取れたのもあなたじゃない?誰だって、お金を使いたいと思うわ。」
ヨシュアは、自嘲気味に笑うと、小さく頷いた。
エマは、財布から金を取り出した。奢ってもらう理由はないのである。
「お金は払うわ。」
謎の躊躇いを見せたヨシュアは、胸元からチケットを取出した。
「何これ?」
エマの素直な言葉を、ヨシュアは笑顔で受け止めた。
「次に渡すつもりだった。動物サーカスのチケットだ。」
エマは小さく笑った。
「どういう事?」
「さっきまでのは僕が勝手にやったことだ。君に金を払う理由はないだろう。」
「ご飯は食べたし、歌も聞いたわ。」
「そう言うだろう。だからだ。このチケットを買ってくれ。」
「貰うのと一緒だけど、貰ったら、使わなきゃ勿体ないわ。」
「じゃあ、使えばいい。」
「いくら?」
「一枚なら、丁度釣り合う。」
「いつまで?」
「今日が最後だ。海が閉まる。君のボランティアも今日が最後だろう。」
「でも、何?一人で?」
「今なら僕がいる。」
ヨシュアは引かない。
周囲にチラつくカップルを見渡したエマは、やがてチケットを受け取った。

海岸から少し入った広場には、大きなストロベリー・カラーのテントが張られていた。
遠目に見えたバルーンが、遥か頭上で揺れている。
大きな看板には、二頭のゾウが鼻でハートをつくる絵。
明らかな恋愛モードである。
エマは、ヨシュアを指差して声を出して笑った。

二人の席はS席の中央。ベスト・ポジションである。
動物のショーは可愛い。臭いさえ気にしなければ。
イヌにサル。クマにロバ。臭っても可愛いショーは終わらない。
やがて、四頭のゾウが出てくると、エマは指笛を鳴らした。
看板のあれをやるのかと思うと、気持ちが昂ったのである。
間もなく、大きな異変が起きた。
四頭のうち二頭が、列を乱したのである。決して、エマの指笛のせいではない。

話に口を挟んだのはビクトリア。
「大丈夫だった?」
エマは優しいビクトリアに微笑んだ。
「ここにいるわ。」
「でも、何故?」
ビクトリアが質問を重ねると、船内のスピーカーからパープルの声が響いた。
「僕がやった。ヨシュアの様子がおかしいと思ったから調べたら、エマに夢中だったんだ。」
監視されていた自覚のある皆は、天を仰いだ。終わった話でも、不快感は否めない。
パープルは、少し笑うと話を続けた。
「ヨシュア達の作戦会議は、実に彼らしかった。用意周到で、僕達もなかなか邪魔できなかった。唯一、手が出せたのがサーカスだ。あの規模なら、ヨシュアには何も出来ない。あの日は、ゾウで騒ぎを起こして、みっともないヨシュアを見せれば、二人は終わる筈だったんだ。」
呆れたエマに、パープルは駄目を押した。
「因みに、今、エマは三回目と言ったが、僕の知る限り五回目だ。」
パープルの方が詳しい、エマとヨシュアの話は、まだ終わらない。

ゾウの鳴き声は、身近に聞くと猛獣のそれである。
不意に喋り出したピエロは、同じ言葉を繰返していた。
「静かに。落ち着いて、その場にいて下さい。」
しかし、S席の恐怖は尋常ではない。
誰の言うことも聞かずに席を立つのも、リッチ・マンの習性。半分以上が空席になると、流石のヨシュアも腰を上げた。
「行こう。ここにいると危ない。」
ヨシュアの声の震えに気付いたエマは、小さく笑った。
「プロの言う通りにするのが一番よ。」
エマの瞳を見つめたヨシュアは、静かに腰を下ろした。
やがて、心の落ち着けない観客がテントから去り、静けさが訪れると、騒いでいたゾウも落ち着きを取り戻した。
「見て。ピエロの言ってた通り。」
エマが笑顔を見せると、ヨシュアも微笑みを返した。
ヨシュアは、自分が身の危険を顧みず、エマを信頼したことを意識した。
それでも、騒いだ二頭がステージの袖に連れ去られると、一度、席を離れた観客が徐々にだが戻ってきた。すべてが元通りとはいかないが、ショーの再開である。
残りの二頭が大きく鼻を伸ばしたのは、エマとヨシュアの元。
二人を見ていたピエロの判断かもしれない。
人間とゾウの体格差は歴然。加えて、騒ぎの直後である。怖くないと言うのは嘘がある。
しかし、エマは、ゾウの鼻のあたり方が優しい事にすぐに気付いた。怯えているとすれば、ゾウの方。絶対である。
エマは、長い鼻に追われるままに、ゾウの背中の鞍に移った。ヨシュアを見ないのがエマ。
苦笑したヨシュアは、エマを追う様に、もう一頭のゾウの背に登った。
ゾウの背に乗る二人。腰の引けるヨシュアと、笑顔で両手を挙げるエマ。
ここからである。
エマが期待に胸を膨らませたのは、あれを待っているから。
二頭のゾウは、ステージの中央に向かってゆっくりと歩き出した。
向きを変えるのも、ゆっくり。背中の鞍は大きく揺れる。
やがて、二頭は顔を寄せ合い、鼻でハートをつくった。
テントの色はストロベリー。
客席に座っていた観客には、看板通りのハートに見えた筈である。
生演奏と大量の紙テープが、どこか懐かしい。
ピエロが煽るままに広がる拍手を浴びながら、エマはハートの先のヨシュアを見た。
ゾウの背の鞍で時々バランスを崩すヨシュアは、どこか愛らしく見えた。

エマの話が終わり、口を開いたのはアーサー。
「ヨシュアのどこが僕に似てるんだ。ちょっと、しつこくないか。」
エマは首を傾げて微笑んだ。
「しつこい〇〇〇〇は、大勢いるわ。でも、ヨシュアは違ったの。」
「〇☆×◇!!」
エマの言葉に大声を被せたのはマテウス。エマは、知らない間にブレインで負けていたのである。気付いたのはマテウス一人。
マテウスは、両手を握り締め、跳ね続けた。
笑顔のままマテウスを眺めていたエマは、思い出した様に口を開いた。
「あと、ヨシュアは間抜けだったけど…。」
エマは、不意に涙ぐみ、言葉をつまらせた。
それは、ヨシュアのことを尋ねた時点で想像していた展開である。
いつも明るいエマの涙に皆が俯き、静かな時間が流れた。
マテウスが静けさに気付いた頃、口を開いたのはヘクトル。
同じ経験をしたヘクトルには喋る資格がある。
「僕もエミリーが死んだ後にいろいろ考えたんだ。ただ、結婚式で、神父が必ず言うだろう。死が二人を分かつまでって。それは最初から決まってるんだ。心の準備がないと驚くけど、それは絶対さ。ヨシュアと君は、生きる時間が少し違っただけなんだ。」
エマは、とうとう両手で顔を覆った。完全に逆効果である。
マテウスは、泣き続けるエマを見つめると、彼女の背中にそっと手を添えた。
ブレインに負けて泣いているのではないことを、彼は知らない。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み