第65話 臨場

文字数 2,957文字

その日、監視画像の確認で暇を潰すニコーラのデスクに、管理官とマックスが現れた。
「話がしたい。」
管理官がよく通る声を響かせると、マックスも小声で続いた。
「聞いたぞ。一人でこそこそやってるって。」
フリーの一件で間違いない。
三人は、話す場所を移した。

小会議室の扉を管理官が占めると、マックスが口を開いた。まだ、座ってもいない。
「オブライアンから何を聞いた?」
ニコーラは、小さく笑うと、椅子に腰を下ろした。
「何をって、話を聞いてる間に僕は倒れた。そこは聞いただろう。」
管理官とマックスは立ったままである。
ニコーラは管理官に視線の先を移した。
「本当です。時間があったので、リストに名前のあった彼のところに行きました。捜査を邪魔する気はなかったんですが…。」
首を傾げていた管理官は、何度か頷いた。
「君がそう言うんなら、そういう事かもしれない。いいよ、信じる。ペリーのパソコンの話は一回笑えたし。」
二人は、微笑みながら、椅子に腰を下ろした。喋るのは管理官。
「何より悪いのは、暇な時間だ。」
マックスが続いた。
「家で休んでりゃあいいだろう。年金は?申請はしたのか。」
ニコーラは笑った。
「いや。この年から一生釣りはない。」
喋るのは管理官。
「僕の仕事も似た様なもんだ。待ってるだけ。釣り仲間がいれば、変わらないぞ。」
「考えておきます。」
ニコーラが笑うと、管理官はマックスを一瞥し、話を続けた。
「ただ、その前に一仕事だ。君の暇を奪ってやる。分かるな。オブライアンが何か言ったろう。」
ニコーラは、マックスと目を合わせた。
喋るのは管理官。
「つまり、こうだ。今日の夜、ケリーを拘束する。フリーのたまり場の下見に連れ出して、そのまま、二人が取引に使っていた山小屋に向かう。プレッシャーをかけるんだ。」
ニコーラは口を挟んだ。
「山小屋に行くだけで、ケリーが喋りますか。」
「喋る。今は、丁度、武器のストックがある。マックスが知ってる。」
ニコーラが目をやると、マックスは静かに頷いた。
「この間、運び込んだところだ。ケリーは頭が回るから、減刑狙いで喋り出す。」
分からなくはない筋書である。喋るのは管理官。
「ただ、彼女はプライドが高い。ひょっとしたら、一秒でも刑務所に入るつもりはないかもしれない。つまり、逃亡の恐れと言うやつだな。」
ニコーラは、眉を上げ、二人の顔を見た。管理官の話は終わらない。
「そこで君の出番だ。ケリーを後部座席に乗せるから、君も一緒に後部座席に乗ってほしい。チャイルド・ロックをかけるけど、暴れられると面倒だ。」
ニコーラは小さく笑った。
「僕は怪我人ですよ。マックスの方が、…。」
「その松葉杖だ。ケリーが銃を出すより、君が杖で抑える方が絶対に早い。君にしか出来ない仕事だ。」
管理官の答えに力を添えたのはマックス。
「付き合えよ。最後になるかもしれない。」
マックスの寂しそうな目は予想外。
五秒考えたニコーラは、ゆっくりと頷き、管理官に右手を差し出した。

集合の時刻は夜の十時。人と違い、仕事のないニコーラは、雑談とブラック・コーヒーで時間を潰した。
さすがに座り飽きた待合室のソファ。
ニコーラの前に現れたのは、捜査から帰ったケリーだった。
ゴミ溜めで泳ぎ疲れた他の警官とは違い、彼女のブロンドはこの時間でも美しい。
ケリーは、自分を見上げるニコーラの隣りにゆっくりと座った。
口を開いたのはケリー。
「ねえ。あなたは、本当に記憶をなくしたの。」
ニコーラが小さく笑うと、ケリーは言葉を続けた。
「いや、どのぐらい?今日の夜は大丈夫なの?」
連邦捜査官として当たり前の質問に、ニコーラは何度か頷いた。
「抜けてるのは、最近のだけだ。学校で習ったのは、多分、昔のことでいい筈だ。」
ケリーは優しく微笑んだ。二人は口下手ではない。
「動ける?また、倒れるんじゃない?」
「大体、コツが分かってきた。予兆はあるから、その時に言うよ。」
「そうじゃないわ。本当に行くの?別に無理しなくていいのよ。」
「仕事だから、頼まれれば行く。そのためにいるんだ。」
「あなたは、何も悪い事なんてしていないのに、そんなになって。」
「いや、僕は悪い事をしたかもしれない。記憶がないんだから。」
ケリーは口を閉じると、ニコーラの横顔を見つめた。
「聞いていい?」
ニコーラは、意外な前置きにケリーの顔に目を向けた。喋るのはケリー。
「もしも、私が悪い事をしてたら、どうする?」
しかし、それが前提である。
ニコーラは、ケリーの犯罪の証拠を手に入れた結果、拷問を受け、秘密を守る約束をした後、長年のよしみで命だけは許された。それがニコーラの頭で固まったシナリオ。
悪い事どころではない。
間もなく、ニコーラは、自分の時間が止まっていた事に気付いた。
「あなたが連邦捜査官でいたければ、来るといいわ。でも、釣りがしたければ、今、帰るの。まだ、間に合うわ。」
ケリーの謎の忠告に、ニコーラは苦笑した。自分がかけなければならないセリフだったかもしれない。
ニコーラは、長年連れ添ったバディを静かに見つめた。
「釣りはしたいけど、今じゃない。僕はもう少し連邦捜査官でいたい。」

予定時刻の五分前。駐車場に止まるセダンにもたれて待っていたのは管理官。
マックスは、もうハンドルを握っていた。
ニコーラとケリーの姿を見つけると、管理官は助手席に乗り込み、四人は予定通りの場所に腰を落ち着けた。
「それじゃあ、出発だ。ニコーラのリハビリがてらだ。」
車の中でも管理官の声はよく通る。
マックスは、小さく笑うと、アクセルを踏んだ。

月のない夜。車はしばらく走った州道を外れ、山道に入った。アスファルトはもうない。
これだけ揺れて、ケリーが気付かない筈がない。
ニコーラがケリーの表情を伺うと、ケリーは、前を見たまま、ニコーラの肘に手を添えた。
これも、過去になかった反応である。
口を開いたのは管理官。振り返った彼の目は、ケリーを捉えた。
「奴らの武器庫。今、うちの押収品がほとんどらしいな。」
「ええ。監査室の室長が変わって…。」
答えているのはケリー。
管理官と会話が成立しているが、違和感が止まらない。
ニコーラは静かに会話の行方を見守った。
マックスも黙っていない。
「あいつもいろいろやってるんだ。レートがあって…。」
ニコーラはこめかみに手を添えた。いつもの頭痛とは、また種類が違う。
三人の会話は、和やかに続いている。
ケリーの表情はいつも通りだが、バック・ミラーに映るマックスの顔は渋い。
理解できないのは、管理官の微笑み。
ニコーラは、現況を静かに整理した。
添えられていたケリーの手の存在感が、ゆっくりと大きくなっていく。
嵌められたのは自分。
フリーに手を出したことが、新しい暴力のきっかけになったのである。
きっと、ケリーとマックスは、今から自分が受ける仕打ちに同情している。
この二人が知る暴力は常識を逸している。ニコーラもよく知るところである。
確かな恐怖に、ニコーラは窓の外を見た。
彼は、逃げなければならないのである。
ニコーラは、静かにドアのレバーを引き、手応えがないことを知った。
管理官の言葉通り、チャイルド・ロックが掛けられていたのである。
軽い音が聞こえたのか、ケリーの手は、ニコーラの肘を軽く握った。
車はそのまま山道を走り、ニコーラの視界は暗闇に吸い込まれていった。
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