第32話 秘密

文字数 9,648文字

N国N州。ラファエル・クレメンスは、クローン技術のパイオニアだった亡き父の研究を引継ぎ、業界の寵児として我が世の春を謳歌していた。
当時の彼の専門は、ブタを使った臓器の培養。自らの臓器のクローンに関する彼の研究成果は、世界に十分なインパクトを与えていたが、彼を別格と思わせたのはそれではない。
彼がおまけの様に披露した、人間の記憶を学習させたAIも、彼の万能を教えるのに十分だったが、それも別。
彼の助手を務める瓜二つの若者サミュエル・クレメンスが、彼のクローン人間であると言う噂が、実しやかに囁かれていたのである。
研究倫理を当たり前の様に脅かして見せると、ヒツジ達は動けなくなる。絶対である。

彼の研究が一線を超えたのは、出資者であるローデヴェイク・デ・グラーフのせいである。
ローデヴェイクは、父親から譲り受けた資本を元手に起業した医療・製薬事業を世界的に展開させた。ライフワークである人道支援活動も衆目を集め、既に世界の重要人物として名を馳せる事が出来たのには確かな理由がある。
彼と人との違いを挙げるなら、彼の目標を実現するための情熱は狂気に近い。
利益を度外視し、私財を投じて、体を壊しても昼夜を問わず全力を尽くす。
彼と生活をともにする限り、天才にならずにはいられない。そして、その天才が一致団結する。
人と同じままでいられる筈がないのである。

偉大なローデヴェイクと、彼がつくった天才ラファエル。
そんな二人の関係が、しかし、移り行く時間の中で、静かに変わろうとしていた。
それは必然。
人間である以上、死は免れない。
ローデヴェイクに、その時がやってきたのである。
冗談には聞こえない年齢の彼に、長年の主治医は、近い将来の彼の死因を知らせた。
巨万の富をもつ彼が、あらゆる名医から同じ宣告を受けるのに、大した時間は要らない。
医療では、最高水準であっても無理。
誰もが自分の命運を受け入れる努力を始める時であるが、ローデヴェイクは違った。
彼には頼みの綱が残っている。
クローン技術を駆使するラファエルである。

そこは、ローデヴェイクの客間。
ただただ、ホワイトの大理石の床が続く。壁もなく、遥か遠くに海が見える。
天井も柱もホワイトで、存在すら気にならない。そんな部屋に、編上げ椅子が都度の人数分置かれる。
機嫌のいい時の彼は、裸足になると、冷たい大理石の上で踊る。
誰もが一度は聞いたことがある話だが、そこに入れるのはごく一握り。
そんな特別な空間に、ラファエルは通された。
編み上げの椅子は二つだけ。一つに座るのはローデヴェイク。
微笑む彼は、空いた椅子を手で差した。
ラファエルのための椅子。客人は彼である。
緊張したラファエルは、椅子の感触を確かめながら、ゆっくりと腰を下ろした。
勿論、遠いブルーの海からも目が離せない。
小さく笑ったローデヴェイクは、静かに口を開いた。
「だいたい、分かるだろう。」
ローデヴェイクは、小さく顎を上げると、片肘をついて動きを止めた。シンキング・タイムである。
一方のラファエルは、答えを持っている。なぜなら、クローンの研究に私費を投じる理由は限られるから。ローデヴェイクほど高齢となれな、話の中身は決まっている。
ラファエルは姿勢を正した。何故なら、彼には言わなければならない事があるから。
「死を克服する方法は、可能性としてはあります。確かに、私なら出来るかもしれません。ただ、私に拘る必要もないかもしれません。」
ローデヴェイクは、瞳で話を促した。喋るのはラファエル。
「まず、あなたのクローンをつくって脳を移植した後、別の若いクローンの脳を少しずつ移植します。少しずつです。ゆっくりと記憶を移しながら、最後には脳を完全に若い脳と交換して、自我を連続させた状態にする。生まれ変われるのです。クローンは拒絶反応がないという点で、全滅してきた頭部の交換実験とは決定的な違いがあります。」
ローデヴェイクは、現実を知っている。
「リスクは?」
ラファエルは頷いた。当然、聞かれる質問である。
「まずは、記憶を移すための時間が必要です。あなたの今の脳がどれだけ持つか。加えて、移植する時に神経細胞が断絶するので、麻痺が残ります。否定はしませんが、今と同じ生き方とは言えません。」
ラファエルは、まだ、ローデヴェイクの懸念のすべてを口にしていない。
「君ならやるか。」
ラファエルにとって、一番大事な質問である。
「モラル・ハザードの極みです。試験管で流産するわけではありません。無事に培養できたクローンは、生まれ方に違いはあっても人間です。好きに刻んでいいとは、私には思えません。」
つまり、答えはノー。ラファエルは、方法だけを教えて、無理から逃げようとしたのである。
ローデヴェイクは、目を閉じると小さく笑った。
「ありがとう。大体、私の考えていた通りだ。いつか、この日が来るんじゃないかと思ってたんだ。気付いていたか。」
ローデヴェイクは常識の分かる男。思わぬ奇跡を前に、ラファエルの緊張が緩んでいく。
「はっきりとは。ただ、これだけ支援して頂けるからには、いつかはこういう事があると思っていました。」
ローデヴェイクは何度も頷いた。それは万人の夢。隠し通せる筈もないのである。
「つまり、最大の障壁は君かな。」
ラファエルは笑顔だけは浮かべたが、しかし、沈黙を守った。それが答えである。
二人の時間が暫く止まると、先に動き出したローデヴェイクはエスプレッソを二つ頼んだ。
クローンの話はそこまで。
二人は、香ばしい香りに包まれると、悲しい話に疲れた喉を癒しながら、遠い海を眺めた。

数日後。
ラファエルは、改めて、ローデヴェイクに呼ばれた。
また、別の部屋。工事中なのか、殺風景な空間には、ブルー・シートが敷き詰められている。天井と壁にはビニル・シート。
模様替えにしては厳重過ぎるぐらい。
もう一つ、注意すべきは、その日、ラファエルを待っていたのが、ローデヴェイクだけではなかったということ。
最近見なかった年老いたボディー・ガード。本当に久しぶりである。
座っているのはローデヴェイクだけで、他に椅子はない。ラファエルの記憶に照らせば、この方がいつもの彼に近い。
周囲から目が離せないラファエルの前で口を開いたのはローデヴェイク。
「だいたい、分かるだろう。」
例の事しかない筈である。
寝床に入り、何度か電気を消したローデヴェイクは、我慢の限界を超えた。そうに違いない。
但し、ラファエルが口にできる答えは、永遠に変わらない。人間なら、絶対の答えである。
「私の答えは、お分かりになると思いますが。」
直立したラファエルが沈黙を保つと、目を閉じたローデヴェイクは俯いた。予想はしていた筈だが、感情が抑えられないのかもしれない。
やがて、何度か頷いたローデヴェイクは、隣りのボディー・ガードを手招きすると、耳打ちをした。
何を言ったかは聞こえないが、ボディー・ガードが差し出したのは銃。
ローデヴェイクなら、ラファエルの痕跡を完全に消すことはたやすい。このボディー・ガードが姿を見せたのも、一番信用できる男を選んだのなら理解できる。
ラファエルは、シートの意味を知った。
銃を両手で握ったローデヴェイクが口にしたのはお祈り。クリスチャンである。
銃口を見つめるラファエルは、自分が恐ろしいほど冷静なことに気付いた。
時々、呼ばれて緊張するぐらい。目の前のキングは、いつでもラファエルの人生を奪える。
日常と非日常の境は、皮肉なぐらい曖昧なのである。
きっと、死の淵にいるローデヴェイクには、今の状態も当前すぎるに違いない。
彼のお祈りは長く、銃を渡した男は首を垂れてじっと待った。
やがて、ローデヴェイクはお祈りを終えた。
顔を上げ、口を閉じたのでその筈である。
「ちょっと、待ってくだ…。」
ラファエルが、無駄な命乞いを始めると、ローデヴェイクは銃を持つ手を真っ直ぐ挙げ、銃を渡した男の頭を撃った。
「※□◎△×!!※□◎△×!!※□◎△×!!※□◎△×!!」
絶叫したのはラファエル。何か喋ったかもしれないが、意味は分からない。
音を立てて、シートに崩れ落ちた男は、勢いよく血をばらまいた。
心臓の力である。
叫び続けるラファエルの横で、ブルー・シートの上に、ゆっくりと血だまりが広がっていく。
すべて、ローデヴェイクの予定通り。その筈である。
「ラファ…。」
「※□◎△×!!※□◎△×!!※□◎△×!!」
ローデヴェイクが呼びかけようとすると、ラファエルは何度も絶叫した。
何を考えたわけではない。胸から込上げてくるのである。
静かにその様を眺めたローデヴェイクは、首を傾げると静かに口を開いた。
「分かる。よせ、ラファエル。」
「※□◎△×!!※□◎△×!!」
ローデヴェイクは、息の乱れるラファエルのために、言葉を続けた。
「彼も同意の上だ。」
「※□◎△×!!」
困惑するだけのラファエルを見つめると、ローデヴェイクは何度か頷いた。
「気持ちは分かる。分かるが、聞いてほしい。いいか。彼は私と同じ病気だった。私はどこに行っても死の宣告を受けた。当たり前だ。皆、名医だからね。ただ、受け入れがたい。だから、ある時、彼のサンプルを医者に渡してみたんだ。誰かが、私を陥れようとしてるんじゃないか。もしも、その診断結果も同じなら、私は嵌められている。悲しい事だが、生きられるなら、その方がまだいい。そうだろう。ところが、結果は、本当に今までと同じだった。死の宣告だ。怒った私はその医者を徹底的に責めたが、事実は違った。二人とも死ぬ運命にあったんだ。彼とは、人生の大部分を一緒に過ごしたが、さすがにおかしい。私の予想では、誰かが私に放射線を当てている。」
ローデヴェイクは、まだ心の帰ってこないラファエルを見つめながら話を続けた。
「君の答えが変わらないことは明白だった。足の指を切るのも、背中の皮を剥ぐのも簡単だ。ただ、そんな事をしたところで、君がとる行動は、時間稼ぎ、最悪の場合、実験の振り、あとは逃亡だ。当然、連れ戻すが、死を間近にすると、その時間さえ惜しい。そこで、彼と話し合った。彼は、君が何をしているかを分からせるために、残りの短い命を捧げると言ってくれた。」
ラファエルは、血を流し続ける男の方に静かに顔を向けた。やはり言葉はない。
「私は、今、彼の命を奪った様に見えるだろうが、考え方を変えれば、時間を戻したに過ぎない。君は知らないだろうが、彼は既に死んだ人間だった。見つけた時は子供だったが、もう幾つかの臓器を売られていた。彼はひどい生い立ちのために、自らの人生を放棄していたが、私と出会い、私に生かされ、私に尽くすことで、自分の生きる意味を見出した。毎日を感謝し続けた彼は、私の命を伸ばすことで、自分の様な幸せな人間を一人でも増やしたいと。本当にそう思ってくれたんだ。君のくだらない美意識は、私を見殺しにすることで、その貴重な機会を、社会から奪おうとしている。」
ラファエルの視線が戻ってくると、ローデヴェイクは目に力を込めた。
「私が最初に戦地から連れ帰った難民は、百人はいた。皆に称賛され、私は人道支援活動が止められなくなったが、あれは生き残った人数だ。私は途中で幾つかの判断を強いられた。皆を死に導こうとする馬鹿は追い出したし、私の判断で二手に分けた一方は全滅した。しかし、誰もそこまでは気にしない。今も私は、一年に数百人の命を救っている。命の重さには残念だが差がある。私の命は特別だ。死んだ彼も言ってくれた。この結論に間違いはない。」
ローデヴェイクの演説は終わらない。
「ラファエル。私に残された時間は少ない。誰だって、見返りのない人道支援活動など、やめてしまうだろう。税金が減る程度に余った金を払うだけだ。しかし、本当に不幸な者を救うためには、危険な地に足を運び、サイコロを振る必要がある。私の様に、ベッドで目を閉じると死んだ難民を見る様な男でないと、決して本気では動かない。私が死ねば全部終わりだ。無だ。本当に君は、私を見捨てて、これから先に助かる多くの命を道連れにしてでも、君が自由に出来るクローンを守りたいのか。」
ラファエルを見据えるローデヴェイクの目は朱を帯びた。
「恥も外聞もなく言う。私は土に埋めても、灰にしてもいけない人間。特別だ。君はやらなければいけない。そして、私は君を後悔させない。」
疲れ切ったラファエルは、しかし、微かに目を細めた。
やっと、心が整理できて来たのである。
小さく笑ったローデヴェイクは、静かに語りかけた。
「私にとって、時間より大切なものはないんだ。その怯えている時間さえもだ。作業が遅れていれば、また、死んでいた誰かをあるべき姿に戻す。もしも人を殺したくないなら、私を殺さないための最善の努力をしろ。これは命令だ。」
ローデヴェイクは、返事を待たずに姿を消し、ラファエルは、自分に拒否する権利がないことを改めて知った。

ローデヴェイクから新たな研究施設を与えられると、ラファエルは直ちにプロジェクトに着手した。サミュエルも一緒である。
医者ではない二人に出来ることは、クローン人間をつくる事だけ。
成果が必要なラファエルは、ローデヴェイクのクローンを大量につくったが、サミュエルにはそれが振りであることが分かった。
絶対的な問題。
それは、頭蓋骨を成人の脳を移植できる大きさに成長させる方法がないということ。
少なくとも十二歳程度の大きさ。十二年の加齢促進が必要なのである。
それは、未知の分野。
クローンの年齢をコントロールする。つまり、早く死に向かわせ、救うのである。
救うのはともかく、老化なら可能性はある。
勤勉なラファエルは、死産から、末端肥大の奇形児、老化した乳児、超短命の人間へと段階的に目標を変え、実験を繰り返した。
サミュエルが、ラファエルが変わってしまったことに気付いたのはこの頃。
若いサミュエルは、自分を傍観者とみなすことで精神の健全を保ったが、ラファエルは違った。
地獄を再現するのであれば、目の前の光景がそれ。
ラファエルがこうも苦しんだのは、老いを進めた後、命を救う方法が分からないから。
ただ、殺していたからである。
驚異的な生命力で、一年以上に渡り、命を長らえていたローデヴェイクは、ある日、不意に実験施設に姿を見せた。
前触れもなく、突然にである。
プロジェクトの遅滞を大いに悲しんで見せた彼は、ラファエルの前で、また一人、固い信頼で結ばれた死ぬべき人間を天に送った。
ローデヴェイクは、すべてを見通しているということ。
もう、本気であることを伝える必要はない。
無策に罰を与えると死ぬのはローデヴェイク。
その強烈なジレンマを前に、純粋な怒りと世界の危機を伝えたのである。

その日のラファエルは、すっきりとした表情でサミュエルをデスクに招いた。
過ぎた時間だけが違う二人が向かい合って座ると、ラファエルは小さく笑った。
いつも二人で実験を進めているが、この状況は珍しい。照れたのかもしれない。
先に口を開いたのはラファエル。
「君に頼みたいことがある。」
笑顔を返したサミュエルに、ラファエルは言葉を続けた。
「私の脳を、あの子に移植してほしい。」
ラファエルが指さした先にいたのはブタ。自らの臓器培養の研究に用いてきたブタである。
理解できないサミュエルに、喋り続けるのはラファエル。
「逃げても無駄だ。物理的に逃げきれない。私は知っている。絶対に見つかるんだ。顔を変えても無理だ。DNAで足がつく。彼は、私が逃げれば、生かしておかない。それは、彼を殺そうとしたのも同じなんだから。ただ、私は嫌だ。私は死にたくない。分かるだろう。」
ラファエルの声は穏やかだが、話は限りなく悲しい。
「彼に諦めてもらうしかない。それには、ジョークが必要だ。勿論、私が全てを捨てたと伝えなければならない。何故なら、彼は死ぬんだから。」
サミュエルが小さく頷き始めると、ラファエルは追う様に頷いた。
「大丈夫だ。拒絶反応が起きる可能性は限りなく低い。もう調べてある。」
ラファエルは、サミュエルの手を取った。
「君なら出来る。君は私だ。」
「でも、…。」
ラファエルは、サミュエルに断られるつもりはない。
「大丈夫だ。私の思考パターンをAIに読み込ませてある。動画を解析しながらやれば、私が横にいるのと同じ。問題なく移植できる筈だ。」
サミュエルが沈黙を選ぶと、ラファエルは言葉に力を込めた。
「やってくれないと、私は死ぬ事になる。もう、これ以上、クローンを殺す気になれない。」
そういうものだと思っていたサミュエルが驚きの目を向けると、ラファエルは顔を横に振った。
「済まない。私のせいだ。ただ、私達がしているのは、そのぐらいの事なんだ。分かってほしい。逃げるにはこれしかない。こういうものなんだ。」
サミュエルの頭脳は明晰である。
間もなく、ベストのない選択肢から、サミュエルはベターを受け入れ、ラファエルの望みを叶えた。
ブタの姿のラファエルの誕生である。
ラファエルの動きは、麻痺のあるブタ。
不自由でも、ラファエルの心がそこにあると分かる程度に人の指示にも従う。
転生である。
すべてを知るローデヴェイクは、ラファエルの手術が始まった時は、地球の反対側にいた。
しかし、ブタである。
ローデヴェイクは自らの運命に怒り、泣いたが、やがて笑い、すべてを許した。
嫌いではないジョークとして受け入れる度量を、彼は持っていたのである。

遠くに海が見える大理石の部屋。
ローデヴェイクのお気に入りの部屋に、サミュエルが初めて招かれたのは、それから間もなくのこと。
ローデヴェイクは、編み上げの椅子で固まるサミュエルを見ると、小さく笑った。それは、誰もが辿る道。
「あのブタはどうだ。」
ラファエルの事以外を聞く筈はない。
「順調です。」
サミュエルが、特に説明することもなく答えると、ローデヴェイクは小さく頷いた。
大事なことである。
「君がやったんだろう。医者の資格でもあるのか。」
サミュエルの表情は明るい。彼には隠す事等ないのである。
「博士のAIがあります。ある程度の知識があれば、まず失敗しません。」
サミュエルに嘘がないことを確信したローデヴェイクは、話を急いだ。
「君が手を動かせば、ラファエルが生きてるのと同じ。そういう事だな。」
サミュエルが首を傾げたのは誠意の証である。
ローデヴェイクの話は終わらない。
「それなら、話は早い。サミュエルのミッションは知っているだろう。君ならどうする。」
サミュエルには準備がある。何故なら、彼はラファエルのクローンなのだから。
「相性のいい脳死状態の人間がいれば、一時的な延命は出来ると思います。」
ローデヴェイクが、顔に皺を増やすと、サミュエルは笑顔で言葉を続けた。
「最初から、完全に生まれ変わろうとするから駄目なんです。脳が移植に耐えられるぐらい健全なら、まずは体だけ変えるんです。ハードルは遥かに低い。」
黙り込んだローデヴェイクは、やがて、二人だけのその部屋で暫く拍手を続けた。

それから数日たって、脳移植の日。方法は知らないが、ローデヴェイクはドナーを準備してみせた。そういう事である。
偉大なローデヴェイクは、手術のために半裸でありながら、威厳を保った。
「サミュエル。」
小さな声でサミュエルを呼び寄せた彼は、手術台の上でサミュエルと額を合わせた。
額と額。サミュエルと違い、年老いたローデヴェイクの皮は乾いている。
体温だけではない。息づかいも感じる。
ローデヴェイクは、今から、他の器と入れ替える脳を意識させているのである。
やがて、気が済んだのか、額を離したローデヴェイクは、麻酔医に小さく手を挙げた。
全身麻酔の合図である。
時間はかかったが、強烈な個性をもつ彼が眠りにつくと、その場の皆が、彼の存在感をはっきりと認識した。

サミュエルは、AIの指示通りに手術に入った。
メスを入れ、露出した頭蓋骨にドリルを入れて、開頭。分かっていれば、大して複雑な作業ではない。予定時間も秒単位で守れるのがサミュエル。
すべてが万全に思えた。
しかし、何にでも始まりがある。
手術の開始から一時間後。
ローデヴェイクの終焉の儀式は、大地震と同じぐらい唐突に始まった。
それは予想外の事態。
武装した集団、ローデヴェイクの弟ステファヌス達が、手術室になだれ込んだのである。
ホワイトの麻のジャケットとパンツ。ホワイト・シャツの胸をはだけ、足元は裸足に革靴。
いつも格好である。
ブロンドで長身のステファヌスは、爽やかに指示を下した。
「それ以上、何もしなくていい。」
ローデヴェイクの意志に明らかに反する命令であるが、小競り合いもない。
非暴力主義のサミュエルは手を止めて待ったが、ローデヴェイクの取り巻きが集まると、すべてを悟った。
皆が、ステファヌスに分かり易く恭順したのである。
ローデヴェイクは時に法の一線を越えることがあったが、その全てが彼の築いた組織の秩序を保つために必要な措置だった。
しかし、ラファエルを動かすために犯した二度の殺人が、周囲の心を彼から完全に離した。彼への忠誠心は、破滅的なまでの自意識と傲慢の前に、崩れ去ったのである。

生命維持装置を切ると、開頭された偉大なローデヴェイクは、皆に見守られる中、出血多量で死んだ。
それは、生死の境を問わない葬式の様で、泣く者もいた。
あの情熱的なローデヴェイク。
精神的に完全にラファエルとサミュエルを支配したローデヴェイクは、日常を共に過ごした仲間のうち誰一人からの助けを得ることもなく、この世を去った。
事実はそれだけである。

その日の夕方。ステファヌスは、ローデヴェイクの大理石の客間にサミュエルを呼び、二人だけでエスプレッソを飲んだ。
先に口を開いたのは、サミュエル。彼にも少しは情があるが、ローデヴェイクの非情に疑問があったことは確かである。
「どう言っていいか分かりません。ただ、何故、今日だったのですか?」
ステファヌスは、心の底から愉快そうに笑った。
「正しい質問だ。兄は酷いからね。信じられるかな。兄弟喧嘩で、弟の体に爆薬を埋込む人間がいるなんて。もっとも、何か入っているのは確かだが、真偽の確認はこれからだ。」
サミュエルは、胸のすく思いがした。
ステファヌスも同じ。彼自身、今日初めて解放されたのである。
ローデヴェイクなら、やりかねない。
ステファヌスが今日を選んだ理由。
彼は、ローデヴェイクが絶対に反撃できないタイミングをずっと待っていたのである。
ステファヌスは、そんな苦労を微塵も見せず、優しく口を開いた。
「ラファエルは?」
サミュエルは顔を横に振った。
「だろうな。でないと、君が執刀していない。」
直後に、ステファヌスが沈黙を生んだのは、彼の心がここにないから。
ローデヴェイクの遺産の処理は、膨大な時間を要する。
一時間の対応の遅れが、世界経済に影響を及ぼす規模なのである。
首を傾げたステファヌスは、確かめる様に口を開いた。
「ラファエルのAIがあるんだろう。」
「ええ。」
サミュエルが即答すると、ステファヌスは言葉を続けた。
「それに兄のクローンも。」
「大勢。」
「一体でいい。」
サミュエルは、小さく頷いた。
「ええ、勿論。」
ローデヴェイクは、スマートフォンを取出すと、エントランスに人を寄越す様に伝えた。
「行け。その二つを連れに渡す様に。」
ノーはない言い方だが、確認しなければならないことがある。サミュエルは、静かに口を開いた。
「残りのローデヴェイクのクローンはどうしましょう。」
口を閉じ、夕日が照らす海を眺めたステファヌスの視線がサミュエルに戻ってきたのは、二十秒後。
「私には、兄は一人しかいなかった。後にも先にも。以上だ。」
彼は、兄のクローンを大量に残すことを拒絶したのである。

その後、ローデヴェイクの資産は、資金、不動産から人道支援事業まで、余すところなく、ステファヌスのものとなり、サミュエルとブタの姿のラファエルは、晴れて自由の身になった。
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