第33話 愛情

文字数 8,186文字

A国M州。五大湖のある自動車と観光の州に、ヒュドール本社はある。
同族経営のデ・グラーフ・グループを凌ぐ大企業であるヒュドールのボスは、アレクサンダー・ホワイト。
サミュエルの新しい支援者である。
それは、ラファエルのAIが導き出した答え。より正確には、ラファエルがそう仕向けていた答えである。
社長室で待っていたプレジデント・ホワイトは、秘書が開けた扉からブタがぎこちなく現れると目を剥き、サミュエルが同じ顔の男の子の一団を引きつれて後に続くと、声を上げて笑った。
「ようこそ、サミュエル・クレメンス。紹介の通りだな。」
サミュエルは、アレクサンダーの私用の携帯電話に直接電話をかけ、自らを売り込んだ。
すべて、ラファエルが準備していたことである。
「初めまして。座ってもいいですか。」
アレクサンダーは、ソファに飛び込む子供達を見ると笑顔で頷いた。彼の答えは関係ない様である。
アレクサンダーの前に残ったのは、サミュエルとラファエルだけ。
「好きにしていいが、ここで話せるといいな。あの子達と一緒だと話しづらい。」
プレジデントの控えめな提案を聞くと、サミュエルは傍らの椅子を動かし、アレクサンダーの正面に座った。
ラファエルはその傍らに腹ばい。ブタである。
「契約ですが、…。」
サミュエルが口を開くと、アレクサンダーは遮った。
「サインはする。但し、君と私の二人だけの契約書になる。意味は分かるね。」
当然、サミュエルにも分かっている。
クローンのサインの入った書類に、公的な価値はないのである。
五秒でサミュエルが頷くと、アレクサンダーは改めて微笑んだ。
「君は、やはりラファエルと同じ分野のプロパーだろう。」
サミュエルが話の続きを待つと、アレクサンダーは期待に応えた。
「まあ、じゃあ、カテゴリーは、アンチ・エイジングだろうな。」
受け入れるしかないサミュエルの目に疑問の色が混ざると、アレクサンダーは小さく笑った。
「いや、あくまでカテゴリーだ。詳細は君の自由でいい。考えて見ろ。どこの世界に、クローン人間の製造を認める会社がある。」
愉快そうに笑ったアレクサンダーは、不意にラファエルに目をやった。
「彼は、言葉は分かるのか。」
「おそらく。」
サミュエルが頷くと、アレクサンダーはラファエルに向かって語り掛けた。
「君の研究は素晴らしい。ただ、オブラートに包む必要がある。臓器でも派手すぎる。それこそ、君の問題。ブタの中で育てた脳を移植していいかとか。内臓にも記憶が宿るとか。下らない話が始まる。メディアが放っておかない。分かるだろう。私は十分に満たされてる。騒がれるぐらいなら、何もしない方がいい。細胞とか、そのレベルのクローンで、細胞の再生を助けて、老化を防止する。表向きはそのぐらいがいい。出来るか。」
静かにアレクサンダーを見つめていたラファエルは、サミュエルを見上げた。
アレクサンダーは、珍しそうにサミュエルの顔を覗き込んだ。
「君には、彼の言葉が分かるのか。」
「いえ。ただ、怒ってはいないです。」
サミュエルが即答すると、アレクサンダーは何度か頷いた。
「正直でいい。まあ、そのぐらいだな。悪くない。一度、企画書を見せてほしい。君達の生活費も見込んでくれていい。私のポケット・マネーの範囲なら考える。」
微笑んだサミュエルは、子供達を眺めた。
「ありがとうございます。差し当たっての費用は持ち出せたんですが、人数が人数なので、困っていたんです。」
アレクサンダーの笑顔は変わらない。
「心配しないでいいが、私に夢を見せてほしい。私は、君と話している時は、そういう気持ちだ。分かってほしい。逆に聞きたい。君には、何か条件はないのか。」
サミュエルは顔を引き締めた。
アレクサンダーが、表向き許せるのは細胞のクローンまで。厳しい世界なのである。
「開発を指示されれば、契約通りに進めます。但し、実験施設を自由に使わせて下さい。あと、そのための費用を契約に含めることを許して下さい。」
「内容による。」
アレクサンダーの答えは早い。
サミュエルは、誠実なアレクサンダーのために言葉を選んだ。
「私は、サミュエルに生を与えられた人間です。彼は私でありながら私の親でもあり、私の師です。しかも、彼を今の姿にしたのも私です。彼が何かを願うなら、私は拒めない。それを分かって下さい。」
アレクサンダーの目は、サミュエルの狂った言葉を楽しんでいる。
「彼の夢を叶えるのか。どんな夢だ。」
サミュエルは、顎を高く挙げた。
「彼のAIが答えた彼の願いです。私は、彼の両親のクローンをつくりたいんです。彼の家族を再現して、どこかで幸せな暮らしをさせてあげたい。ラファエルが生きているうちにです。」
ブタの寿命は短い。中身が人間だと、どうなのか。
その願いの困難を知るアレクサンダーは、サミュエルの脇で横たわるラファエルを見た。
ごく自然なブタに見えるラファエルの目から、気力は一切読み取れない。
アレクサンダーは、ゆっくりと笑い始めた。
単純にカオス。
真剣に考えている自分が、馬鹿馬鹿しくなったのである。
「分かった。チャンスはあげよう。但し、金額による。まずは、企画書を出してくれ。すべてはそれからだ。」
立上った二人は、固い握手を交わした。

サミュエルが、アレクサンダーから望み通りの予算を手にしたのは、それから間もなくのこと。彼らは、とうとう静かな生活を手に入れたのである。
ローデヴェイクのクローン達には、それなりの学習環境も与えられた。
アレクサンダーは、その価値を知る男である。
幼いながらも、努力が使命であることを自覚した彼らは、理想的な環境の元、勉学と肉体の鍛錬に励んだ。成長と共に、自らの存在に時に悩んだ彼らは、しかし、共に語らい、かけがえのない若い日々を大切に過ごした。
サミュエルが、ラファエルの食事にココナッツの香料を混ぜる様になったのはこの頃。
雄ブタ特有の臭いを消すためである。
それは、ラファエルが健康になり、サミュエルがそれに気付く精神状態になったということ。
サミュエルは、口の利けないラファエルに、自らの失礼を何度も詫びた。

サミュエルとアレクサンダーの関係は、順風満帆に思えたが、挑戦する者は、常に勝者でいられるわけではない。敗者の正義が罪であることは、歴史が教える事実である。
その日のサミュエルは、久しぶりに社長室に呼び出された。
今から、彼の犯した罪が裁かれる。裁くのは、アレクサンダーただ一人である。
「話は聞いた。やったらしいな。」
サミュエルは、慎重に言葉を選んだ。
「加齢促進実験の初回サンプルをつくりました。」
「結果は?」
アレクサンダーの問いかけは早いが、サミュエルの答えも早い。
「加齢に成功しました。現段階で老化は止まっています。」
アレクサンダーは首を傾げた。
「私が聞いてるのとは少し違う様だ。詳しく話してほしい。今、彼女はどんな状況だ。」
初回サンプルは、ラファエルの母親のクローンである。
サミュエルは、静かに説明を始めた。
「身体的な年齢は三十歳程度です。二十歳前後で止めたかったのですが、調整が上手くいきませんでした。但し、薬剤の調合と成長曲線の関係は得られています。過去の実験では、死産や奇形が殆どで、加齢に成功した場合も反応を止められませんでした。大きな進歩です。」
アレクサンダーは、眉間に皺を寄せた。
「ローデヴェイクは、そんなことを許したのか。」
サミュエルが頷くと、アレクサンダーは言葉を続けた。
「それで、その彼女は今どこにいる。」
「研究室です。」
「会えないか。」
「会っても、話せません。実年齢は、一歳にもなっていませんし、何の教育も受けていません。意志疎通は不可能です。」
アレクサンダーは、眉間の皺を猶更深くした。
「それだけ?」
「それだけとは、どういう意味でしょうか。」
サミュエルが卒なく応えると、アレクサンダーは声を荒げた。
「私の聞いた話と違う!本当のことを話せ!」
首を傾げたサミュエルは、不思議そうに口を開いた。
「敢えて言うなら、四肢は自由に動きません。赤ちゃんは寝がえりもできませんし、現時点で大きな問題ではありません。」
「まだ、あるだろう。」
アレクサンダーが言葉を被せると、サミュエルも被せた。
「瞳孔は開いています。加齢を止める技術に課題があるのは確かです。」
「そうだろう!それで君はいいのか!」
「勿論、彼女の健康を回復するための措置は、今後も検討します。但し、加齢に成功したことは事実です。ハードルの高さを考えると、今の病状を回復するハードルは、今までの努力より遥かに低い。私はそう考えています。」
アレクサンダーは質問を止めた。
サミュエルが、心の底から自分を正しいと思っているのが、怖かったのである。
椅子に背を任せたアレクサンダーは、静かに天井を見上げた。
サミュエルは、法の及ばない人間。サンプルと呼ばれるクローンもそう。
アレクサンダーは、加害者も被害者も法的にこの世に存在しない犯罪を、たった一人で私的に裁かなければならないのである。
勿論、答えは幾つか準備している。それは、サミュエルの答えによって、変えるつもりだったから。
数十秒後。アレクサンダーは、一つの答えを選んだ。他の誰にも異を唱えられない、絶対の判決である。
「まず、私と君の関係は、契約書で成立つ関係だ。君の行為が、私との契約に照らして是か非か。それだけだ。君は、一時的だとしても、クローン人間を植物状態にしている。私の答えは否だ。許さない。私の金で同じ事が起きる可能性をゼロにするための再発防止を検討してほしい。」
サミュエルは口を開こうとしたが、アレクサンダーは言葉を被せた。
「あと、君の再生医療の研究だが、今の所、成果は計画通りだ。それは知っている。君には何の落ち度もないし、私はそれに関与できない。ただだ。今回の一件は、私の感覚的には君の怠慢に映る。もしも、契約以上の成果を上げるために全力を傾けていれば、こんな事は起きなかった。私は、未来を創造する経営者としての権利を行使する。君に直接どうこうする訳じゃない。メディカル・リサーチ社を買う。クローン技術を使ったアンチ・エイジング分野の老舗だ。買ってから、彼らにも君と同じノルマを課す。天才対会社だ。いい勝負だろう。次期以降の契約は、その結果次第だ。」
アレクサンダーは一息で言ってのけたが、ラファエルの夢を奪い、サミュエル達の将来を不安に陥れることに他ならない。
「ちょっと、待って下さい。一体、何がそんなに…。」
サミュエルがすがると、アレクサンダーは悲しい瞳を見せた。
「自分のやったことがおかしいと分からないんだろう。それが一番の問題だ。」
サミュエルが口を閉じると、アレクサンダーは何度か頷いた。
「君は優秀だ。よく考えてほしい。今までの君の生活がそうさせたなら、一度、すべてを捨てて、平和な生活を送ってみてほしい。優しい気持ちになるだけでもいい。そうすれば、こんなことは二度と起きない。絶対だ。」
サミュエルが沈黙を選ぶと、アレクサンダーは、また一つ、二人のためだけの契約書をつくった。

アレクサンダーに対する敬意をもつサミュエルは、同時にラファエルの夢も裏切ることが出来ない。
考えた彼は、ラファエルの両親のクローンを何体かつくると、各地に散らした。
結婚適齢期まで二十年近い。途方もない期間であるが、一から育て、二体を結び付ける他に道はない。
当然、放っておいて、上手くいく筈がない。ローデヴェイクのクローンを彼らの側に置き、その日常を詳細に管理するのである。
時に二人を邪魔する者を遠ざけ、それすら叶わない者は監禁した。
ジョンやコービン、ブレンダンにアイクは、その犠牲者である。但し、暴力は使わない。あくまでも、サミュエルは番人。
膨大な時間と労力を費やした結果、奇跡的に永遠の愛を実らせたのが、ヘクトルとエミリー、アーサーとビクトリアなのである。

死を前にすると、金持ちは無理を承知で分かり切ったことを聞いてみる。
アレクサンダーの場合は、妻の死の宣告がそのきっかけだった。
五十代半ばで、妻子と半分の資産を捨てて再婚したジョディ。
幼馴染の彼女は、年老いたアレクサンダーにとって人生のすべて。絶対的な存在だった。
病状を知ったアレクサンダーの落胆はあまりに酷く、やがてジョディは愛犬を連れ、保養地に移り住んだ。それは、二人の平穏な一日のため。提案したのはジョディである。
人生の意味を知るアレクサンダーは、花と直筆の手紙を毎日送り続けたが、それだけではいられない。
彼には、サミュエルがいる。
万が一彼を頼るなら、今なのである。

社長室のソファで寛ぐことを許されたサミュエルは、自分に出来ることを静かに口にした。
「ジョディのクローンをつくるなら、何の問題もなく対応できます。」
それは、ローデヴェイクの悲劇を繰り返さないための最善の答えである。
しかし、アレクサンダーは、すべての人間がそうである様に、ジョディが唯一無比の存在であることを知っている。
「まずは、二度と言わないでほしい。彼女を冒涜する発言だ。いいね。」
アレクサンダーが諭す様に言うと、サミュエルは次の言葉を待った。喋るのはアレクサンダー。
「例えばだが、時間を戻して、彼女の病気の原因を断てないか。」
サミュエルは、緩む表情を隠すために顔を伏せたが、アレクサンダーの言葉は止まらない。
「じゃあ、こうだ。彼女の周りだけ、時間を止める。寝ている間とか、起きてる間なら、十秒のうち一秒とか。気付かない程度。それだけでも、随分、違うだろう。」
現時点で絶対不可能。将来、出来る様になるとしても、サミュエルは専門外。
アレクサンダーは、サミュエルに夢を求めているのである。
それなりの本気を感じたサミュエルは、アレクサンダーの期待に応える言葉を探した。
「本当に奥様と死ぬまで一緒に居たいなら、社長の死を早めるのが簡単です。」
アレクサンダーの憮然とした表情に、サミュエルは言葉を急いだ。
「要は、社長にとっての見かけの時間の早さが変わればいいのです。まず、高速で動く部屋をつくり、昼夜のサイクルも人工日光で調整します。」
アレクサンダーの目に光が戻ると、サミュエルは微笑んだ。
「そこに、申し訳ありませんが、プレジデントに入って頂きます。若干の薬物は投与します。脳の分析能を活性化して、筋力を高めるためです。つまり、早回しの世界であなたが、普通に生活する。体感時間は変わりません。絶対に死ぬ人間を生かすのではなく、生きられる人間の生き方を変えるのです。」
アレクサンダーは、現実の問題を口にした。
「彼女に触れられないのか?」
サミュエルは笑顔で答えた。
「いつでも、別室に居る彼女を見ることは出来ます。ハブをかませば、時間差は出ますが、電話で会話もできます。当然、日を決めて、機材を止め、薬物を抜けば、普通に会話し、触れ合うこともできます。」
アレクサンダーが宙を睨んで黙り込むと、サミュエルは不意に寂しくなった。
彼は受け入れてしまうかもしれない。
薬を投与して、早回しの生活を送れば、高齢の彼の寿命も縮んでしまう。
説明しなくても、分かる筈である。
サミュエルは、アレクサンダーの望みの難しさを教えた。
「今のプランは、根本的に何も解決していません。あなたの心だけの問題です。ただ、折角だから、一つ、チャレンジをさせて下さい。」
首を傾げるアレクサンダーの前で、喋り続けるのがサミュエル。
「ハチソン効果です。静電起電機とテスラ・コイルを使って、反重力を起こします。仮にあなたの周りだけ重力が軽減できれば、重力の差の分、時間の進み方が変わります。ジョディの寿命が、相対的に数秒延びるかもしれません。」
アレクサンダーは、動きを止めたまま、次の言葉を待ち、それがないと知ると、静かに笑い始めた。彼の笑いは止まらず、やがてサミュエルが釣られると、二人は声を出して笑い合った。
アレクサンダーは、何度も頷いた。サミュエルの心が伝わったのである。
サミュエルは、プランを追加した。
「人から見えなければ、何も恥ずかしいことはありません。そういうことをしている事実さえ知られたくなければ、可視光を調整するスクリーンもあります。」
改めて笑ったアレクサンダーは、小さく手を挙げると考え込んだ。
決断の時の様である。
間もなく、アレクサンダーは、誰に言うでもなく呟いた。
「変だ。聞いたことがない。」
断られるのが、一番簡単である。サミュエルは、本来、自らが望む手法を口にした。
「ホログラムで良ければすぐにつくらせますし、彼女の人生を称える動画もつくれます。」
アレクサンダーは顔を横に振った。彼が悩んでいるのは、そんなレベルの話ではない。
アレクサンダーは、サミュエルに優しい目を見せた。
「不要だ。つまり、心中だね。穏やかな。」
言葉だけの問題かもしれないが、それは正しい。サミュエルが静かに頷くと、アレクサンダーは手を差し出し、二人は固い握手を交わした。
契約成立である。

アレクサンダーは、自分の死に方さえ、自分で選ぶ。
ジョディは悲しんだが、自分と死ぬために滑稽な金の使い方をするアレクサンダーが愛おしく、いつしか受入れた。
施設がつくられたのは、ヒュドール・リサーチ&エンジニアリングの実験棟の一つ。
突貫工事である。
冗談の様な施設が、人知れず完成すると、アレクサンダーは、サミュエルに、二人だけのための契約書をまた一つ渡した。
“社会に役立つ研究に使うことを前提に、サミュエル・クレメンスはアレクサンダー・ホワイトの全資産を自由に使うことが出来る”
夢の様な申し出である。
二人がサインを交し、また、固い握手を交わした次の日。
アレクサンダーは、謎の施設の中へ消えた。
当然、入ったままではない。
時には施設から出て、ジョディと逢った。
電話では頻繁に話した。
それは、今までと変わらない時間。
サミュエルは、その全てを支えた。施設の操作は、彼にしか分からないのである。
いつしか、アレクサンダーは、余命数か月だった妻と、数年間に渡って暮らす感覚を得ることに成功していた。
すべては、彼の強靭な精神力の賜物である。

そして、また一つ、運命の日が訪れる。
監禁していた四人のうちの一人ブレンダンが、監視カメラを見守るサミュエルの目の前で、頭部を強打したのである。
サミュエルの基本方針は暴力の排除。あくまでも、サミュエルは、アダムとイブの番人である。彼らが気付いているかどうかは知らないが、与えていた食事はアレクサンダーと同じ。
それは人類最高峰の生活。誰かが死ぬこと等、もっての他なのである。
サミュエルは、何の計画もなく、とにかくブレンダンを救いに向かった。
あの時、木の部屋に入ったのは、サミュエルである。

その日が運命の日になったのは、もう一つの奇跡が重なったから。
サミュエルが部屋を出たほんの僅かの間に、ジョディが倒れたのである。
イベントがどちらか一つだけなら、二人とも助かり、何も起きなかったかもしれない。
二つだから、運命が動いたのである。
ジョディの元に向かいたいアレクサンダーはサミュエルを呼んだが、サミュエルはブレンダンの救命を選んでいる。
アレクサンダーの体感時間は長い。
いつしか、アレクサンダーは装置を壊してでも、外に出る方法を探した。
重力に耐える施設は頑丈である。
彼が壊せたのは、施設の内側のごく一部。
鉄の塊の中に、反重力を発生させるために置かれた起電機とコイルだけ。
アレクサンダーとジョディの残された時間を、ほんの数秒変えるために付け加えられたその装置は、アレクサンダーの執拗な破壊工作の末、微かなほころびを見せた。
本当に小さな、小さなほころび。
アレクサンダーは、そのほころびに希望を見つけたが、部屋全体の圧力を操る装置のほころびは別の意味を持った。
コンマ一秒で爆発。
無音の世界がアレクサンダーを包み、揺れた空気は、施設そのものと競り合った。
間もなく、かたちを失った施設は、爆音と共に弾け飛び、実験棟をゴミ溜めに変えた。
爆心は、反重力の発生装置の近辺。
そこに残っていたのは、小さな点だけ。
点滅するブラック・ドットである。
それは、地球上に生命体が誕生するのと同じ程の偶然、奇跡に等しかったかもしれないが、確かに起きてしまった。
あとは、ヘクトル達が知っている通りである。
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