第94話 説得

文字数 4,388文字

サミュエルから連絡を受けたエマは、ゴールデン・ブラウンのフル・サイズSUVでヘクトルの家を訪れた。サミュエルが言う通り、マテウスのことを気に病む彼女が、ヘクトルを拒む筈はないのである。
約束の時間だけは完全に無視したエマは、インターカムにヘクトルが出ると短い声を発した。
「カ・ブーン!」
小さく笑ったヘクトルは、玄関へ急いだ。
「久しぶり。」
扉の向こうで待っていたエマは、前よりは確実に日に焼けている。
「呼んだら来ると思わない事よ。」
笑顔のエマは、ヘクトルの横を通り過ぎ、マテウスのいないピウス家に入った。
待っていたのはスカーレット。時間通りに来ていた彼女が待った時間は長い。
大体の話をサミュエルから聞いているエマは、スカーレットに近付くと右手を差し出した。
「初めまして、エマ・ハリスよ。」
どんなに遅刻しても、満面の笑みで挨拶できるのがエマである。
スカーレットは、口元に微笑みを浮かべると、エマの手を軽く握った。
「スカーレット・アーキンよ。よろしく。」
エマを責めるつもりがないのは、サミュエルの紹介だから。彼女は、貰ったカードと同じぐらいの価値を持っている筈なのである。
ヘクトルがハーブ・ティーの香りで客間を包むと、エマは半笑いを浮かべた。彼女には、ヘクトルの趣味は謎過ぎるのである。
口を開くのはエマ。
「それで、ヘクトルもこの人と一緒にテロをするの?」
スカーレットの視線を感じると、ヘクトルは頷いた。
「テロとは思わないけど、彼女に協力する。スカーレットは、今、人間の命に関する最高の技術をもつ人間の一人だ。サミュエルも彼女に勝てないと言ってた。マテウスが回復するとしたら、きっかけは彼女だと思う。」
エマは顔をしかめた。
「何か、サミュエルから聞いた話と違うわね。そんな、いい話じゃなかった様な。」
説明したいスカーレットが口を開こうとすると、エマは小さく手を挙げた。喋るのは、やはりエマ。
「あなたが、何かの軍事プロジェクトが気に入らないから、報道で機密を流して潰したいんでしょう?」
エマは、スカーレットに喋る隙を与えない。
「いい?戦争がしたい人間はいないし、武器を使わない戦争はないし、人道的な武器はない。それが分からないんなら、私以下よ。」
エマが人差し指を頭の横でグルグル回す隙に、スカーレットは口を挟んだ。
「サミュエルは、あなたになんて言ったの?」
「ヘクトルがテロに巻込まれそうだから、助けてくれって。」
エマの即答に、ヘクトルは小さく肩をすくめた。ほぼ正しいが、受取り方が逆になる伝え方である。ただ、確かにそう言わないと、エマはここには来ない。
スカーレットは、何度か頷くと口を開いた。
「まず、テロとは何かね。」
スカーレットの退屈過ぎる一言目に、エマは声を重ねた。
「政治的な目的を達成するための暴力や脅迫行為。講義で習ったから百点の解答よ。気に入らないのは国の方針だから、政治的でしょう。電波ジャックするんなら、目標達成までに戦闘行為も出るわ。つまり、暴力。それに、メディアの力で国民の不安をあおるでしょう。これは、国にとっても国民にとっても脅迫だわ。」
スカーレットも知っての事である。エマに口を挟まれない様に、スカーレットは言葉を急いだ。
「国民が不安をもって終わると思うから、テロになるの。皆を信じるべきよ。解決できれば、それはこの国にとって、大きな一歩なの。戦い方も一つじゃない。人が傷つかない方法を考えればいいでしょう。つまり、テロじゃない。」
エマは、顔を横に振った。
「反論できるかは問題じゃないわ。誰かがそう呼べるかどうか。そうでしょう。」
スカーレットは攻める砦を変えた。
「じゃあ、もしあなたが全てを知っていたとして、無視できる?研究をやらせてるのは、何をしてるか分かってない人達。どんどん投資だけはするの。軍も連邦捜査局も警察もメディアも知ってるのに、箝口令を出して何もしない。誰に話したって同じ。皆、何となく思ってるの。社会はきれい事だけで回らない。戦争はやめるべきだけど無理だし、傷つく兵隊を思えば、そんな事は言ってられないって。」
「でも、そうでしょう」
スカーレットは、エマの言葉を聞き流した。喋るのはスカーレット。
「それは一人一人が何となく思ってることなの。自分は何も変えられないって。本当に漠然とね。ただ、もしも、皆が公の場でどうするべきか話した時、自分に発言する権利が与えられた時に、同じ様に言うかしら?皆、戦争をやめるべきだって、胸を張って言う筈よ。全ての暴力に反対だって。」
一度、何かを言いよどんだエマは、頭をリセットした。スカーレットは、エマが思っている以上に、考えを持っているのである。
「いい?言うわよ。それこそ、思い違いなの。人の命は尊いし、クローンだからって、非人道的なことは駄目。当たり前。でも、本当に命を大切に思う人は、皆、完全非暴力なの?」
スカーレットは、エマの言葉に耳を貸した。当然、反論がないとは思っていない。
「法律がなぜあるか。生活の秩序を守るためよ。だけど、それは、法律で禁じないと、皆の困ることを平気でする人間が、絶対にいるってことよね。法が出来る前の掟を変な村だけずっと続けてるのか、法をつくった側が腐ってたのか分からないけど、法を破って捕まる人間で、刑務所は溢れかえってるわ。じゃあ、そういう、絶対に何処にでもいる悪人に完全非暴力でどこまで対抗できるか。地球上は武器で一杯よ。銃やナイフがなくても、棒や石、鍋だって武器になるし。法を守る人間はどう対処するの?彼らは完全非暴力で、殴られても傷つけられても、分かってもらえるまで説得するの?それは違うわ。法を守る人間は、相手がやる気をなくすぐらいの力を持って、絶対に安全な高い場所から正義を説くの。それが正解。この関係を国と国の関係に当てはめるだけよ。当然、世界のルールをつくる時に、世界中の全部の国の文化や歴史に無理の出ない結論なんてないわ。だから、ならず者国家は自然に出るし、絶対に法を犯すけど。つまり、戦争は避けられないし、そんな世界の安全を守るためには、あらゆる面で絶対優位を維持することが重要なの。軍事機密を漏らすなんて、正気とは思えないの。了解?」
それは、揺るぎないエマの正義。当たり前すぎる言葉に、スカーレットは苛立った。
「なんで説明されたのかが、よく分からないわ。私の頭は、地球の自転よりは速い速度で回ってるの。初めて新聞を読んだ日ぐらいのことを言わないで。」
小さく顎を上げて微笑んだエマに向かって、スカーレットは言葉を続けた。
「第一に、クローンが必要な白兵戦が続く様な状況で、軍事行動に出るべきじゃないわ。軍事行動で体制を崩せば、皆が新政府を支援する様な戦争以外は認められない。第二に、仮に不幸なテロリストを産んだ場合、どの地方で何人が死ぬのか。クローンを軍事利用して、彼らを止められるとして、何人の命を救えるのか。それに、仮にクローンの命が人間の命より軽いとしても、そのために、何人のクローンの脳を予め刻むのか。予めよ。作戦に具体性がないと、漠然とクローン技術に手を出しちゃいけないの。これも絶対。第三に、クローン技術を模倣する後進国で起きる地獄に、誰が責任をもつのか。実験は試行錯誤で進められるの。軍事利用を看過するのは、イコール、クローンの大量殺戮よ。」
考えた事のない話に、エマは少しだけ時間をとると、口を開いた。
「それは、あなたが物を見るレベルを変えただけで、本質は変わらないわ。ずるいのよ。詳しそうに、小さいことを言ってるだけ。答えはシンプル。いい戦争も悪い戦争もないし、全てのテロは止めるために全力を尽くすの。実験の失敗は、敵国の脅威を排除したと思えばいいの。実際問題として、世界には戦争があるのよ。その前提で考えれば、全部理解できる筈でしょ。」
正しい言葉の筈である。
譲る気のないスカーレットは、奥の手を出した。
「実験に失敗するクローンが、ヨシュアだとしても?」
不意に神経を鷲掴みにされたエマは、沈黙を選んだ。
口を挟んだのは、スカーレットの残酷さを知るヘクトル。
「僕に言わせてほしい。つまり、こういう議論が尽きないということだよ。皆が公の場で議論する必要がある。実用化した後じゃ遅い。それが彼女の考えで、僕もそれに共感した。」
スカーレットは言葉を重ねた。彼女にとって、エマが言葉を失った今が好機なのである。
「目を逸らさないで。人だと分からない様に、ばらばらにしてるだけ。ワザとよ。ヨシュアの腕。ヨシュアの足。ヨシュアの頭をばらばらに作って、繋げるの。人工知能を載せられる様に脳も削る。ヨシュアと同じ脳を。あなたなら許せる?」
エマの頭に浮かんだのは、ヨシュアの首が切られた日。忘れられない日である。
視線の先を散らしたエマの目は、ヘクトルの顔に止まった。
それは、フラッシュバックが暴力になる瞬間。
不安な気持ちで揺れるエマを、動悸と頭痛が襲う。
そんな小さな変化を見逃さないのが、スカーレットである。
「あなたは凄く自信があるみたいだけど、失敗したことはないの?マテウスは?あの子はどうなった?」
ヘクトルが首を傾げる横で、エマは落ちた。
涙がこぼれたのである。
エマの鼻をすする音だけが聞こえる部屋で、ヘクトルは静かに口を開いた。
「聞いてほしい。僕はエミリーを失って、マテウスのためにも、何も出来ないでいる。頑張ったけど、どうにもならない。もう疲れてしまって、別にあきらめてもいい様な気がする日もあるんだ。ただ、自分で言うのも何だけど、それじゃあ、マテウスと僕が可哀そうすぎる。あんまりだ。僕はこんな辛い目にばかり遭う人間じゃなくて、幸福な生活に戻れる人間だって思いたい。チャンスがあれば、全力でそれを証明したい。スカーレットの行動は、本当に神様が僕にくれた最後のチャンスだと思う。神様なんていないけど、本当にそう思うんだ。神様じゃなくても、とんでもなくすごい誰かが何処かで見てて、僕の願いを叶えてくれるかもしれない。マテウスを助けてくれるかもしれない。」
ヘクトルは、最後の言葉はスカーレットを見ながら発した。おそらく、その神はスカーレットである。
エマが涙のこぼれる目でヘクトルを見ると、ヘクトルは小さく頷いた。喋るのはヘクトル。
「君を紹介してくれたのはサミュエルだ。ここに来させるために、嘘もついたと思う。確かに、君に僕達を助ける理由はないかもしれない。でも、前も君は僕達を助けてくれた。今度も頼みたい。誰も傷つけないで、問題を解決する方法を一緒に考えてほしい。スカーレットを助けて、その先に元気なマテウスが待ってると信じさせてほしい。」
涙が止まらないエマは、やはり沈黙を守った。
彼女の目の前にいるのはヘクトルだが、ヨシュア。
エマの気持ちは、確かに揺れているのである。
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