第29話 対敵

文字数 2,556文字

A国T州K郡。教師であるジョン・インガーソルは、三十歳を迎える年に実家を出た。父親の仕事は、自動車工場の整備士。絵に描いた様な中流家庭とのお別れである。
そんなジョンとアンジェリーナが出会ったのは三年前。地元の有力者が彼に紹介したのが、アンジェリーナ。異性への関心を固くなに否定してきたジョンは、しかし、彼女と出会うと、自分を映すコバルト・グリーンの瞳に心を躍らせた。一目ぼれである。
少しずつ、信頼を築き、愛を育もうと努めた時間は、彼の人生の宝である。
当時も思ったが、奪われてからは猶更。
それこそ、二年間監禁されても、彼がアンジェリーナを探し続けられた理由である。

そして今、ジョンがいるのはアイボリーの建物の前に広がる芝生。
強い日差しが照らす庭の芝生は、彼の疲れた心を映すかの様に、伸び放題である。
駐車場は無駄に広く、ひびだらけ。犯罪に手を染めていたとしても、決して、派手な生活はしていない。以前のジョンの生活に、毛の生えたぐらい。
教師として十分なキャリアのあるジョンに許された、食べるに困らない生活である。
人間関係の軋轢もあったが、人生はそんなもの。
アンジェリーナがいれば、別にどうだってよかったのである。
養子だと聞いた彼女だが、愛情をかけて、大切に育てられたことがよく分かった。
小さな優しさを素直に喜んでくれる、価値観の共有できる娘だった。
最初で最後のプレゼントはブラウス。そのブラウスを、彼女が初めて着てきた日、ジョンは監禁された。
本当に見たのは一度きりだったが、目を閉じた時に現れる彼女はほとんどいつもその恰好。皮肉にも、ジョンは突然の別れを自分で飾ったのである。
買ったばかりの髭剃りで髭を剃り、真新しい服に身を包んだのは、そんな記憶のせいかもしれない。ただ、再会の場を飾りたいのは、誰にでも湧く感情である。
車はないので、まだ、彼女はいない。どう転がるのかは分からないが、感情が爆発する瞬間は近い。
ジョンは、ただアンジェリーナを想い、その場で時間を潰した。

一度、姿を消した小鳥が戻ってきた頃、一台の車が、歩道に乗り上げ、駐車場に滑り込んだ。
例の車である。
助手席を覗き込んだジョンは、アンジェリーナを見つけた。間違いなく彼女。
当然、運転席には連れがいる。男である。
間もなく、ジョンの気持ちの整理がつくのを待つ筈もなく、アンジェリーナが車から降りてきた。微笑んでいるので、まずは一安心である。
ジョンは、小声で彼女の名前を呼んだ。男に気付かれない様に。彼女だけに聞こえる様に。難しい線である。
「アンジェリーナ。」
ジョンは笑顔で待ったが、反応がない。但し、どう見ても彼女である。
「アンジェリーナ。」
二度目の無視。ジョンのネガティブな推理が一気に膨らんだ。
彼女の本名は、アンジェリーナではない。それは、自分と彼女の生活に偽りが混ざっていたということ。彼女は、四人の男を監禁する組織に、何らかのかたちで関与していたのである。
アンジェリーナがジョンに気付いた時、男との対決は避けられない。
ジョンは自分を励ました。自分なら出来る。自分ならやれる。自分はやる。
気持ちを盛り上げたジョンは、腹に力を込めて、声を出した。
「アンジェリーナ、シャーロット、スカイラー、エミリー、アリシア!」
ジョンが知るすべての名前である。
常識的には、アイクの知るエミリー。
その名前を使い続けているなら、エミリーが本名かもしれないが、ジョン達が、それぞれ違う名前を知っている以上、男とアンジェリーナの関係は、かなりの確率で自分達のそれとは違う。
おそらく、男は本当のアンジェリーナの仲間。悪人である。
ジョンは、アンジェリーナに近付きながら言葉を続けた。
コービンやブレンダン、アイクでさえも、あの部屋でアンジェリーナのことを語ったのである。
仕事、趣味、生い立ち、交友関係。
彼女が隠していた本当の生活が、その中に混ざっているかもしれない。
あるいは、彼女のついたすべての嘘が並んでいるのかもしれない。
とにかく、確認するのである。彼女が、自分達が想った彼女であることを。
ジョンが祈る様に言葉を続けると、アンジェリーナは極端に顔を歪めた。
見たことのない表情だが、つくりや質感が彼女。
何より、ジョンの言葉が心に響いている。
アンジェリーナで間違いない。

目の端に移っていた運転席の男が近付いてきたのは、その時。
危険なアンジェリーナの男である。
二人の間に男が割って入ると、ジョンは先手を制した。
警棒で殴り倒す。
彼には備えがある。失敗する気はないのである。
一切の甘えのないジョンの一撃は、威勢のよかった男を地面に崩れ落ちさせた。
邪魔者が消えた。その筈である。
ジョンは、監禁中に幾度となく繰返した言葉を口にした。
「コバルト・グリーンの瞳、マルーン・ヘア、色の濃い眉、厚い唇、…。」
二年ぶりの再会である。
アンジェリーナの特徴を伝える言葉に、ジョンは心が高ぶるのを感じた。裏切られていても、構わないのかもしれない。
しかし、アンジェリーナの表情は、いよいよ理解不能に歪んだ。

苦しむジョンが見つけたのは、迷い込んできた男の子。
こんなに幼い子供を一人で放っておく親は問題である。
ジョンが周囲を見渡した瞬間、しかし、アンジェリーナはその子を抱いて走り出した。
分からないが、人質か何か。但し、そこまでアンジェリーナが腐っているとも思えない。
ジョンの中のイメージをすべて壊した彼女の背は、二年ぶりに再会した自分から遠ざかろうとしている。
こんな再会は、絶対に間違っている。
何が起きるとも思っていなかったが、こんなことが起きるのはおかしい。
絶望したジョンがすがる様な目で見つめる中、アンジェリーナは、車道に走り出た。
走っていくとばかり思った彼女は、しかし、別の動きを見せた。
横から来た車にぶつかり、勢いよく跳んだのである。
子供もろとも数メートル。
アンジェリーナから流れ出た血液が、路面の勾配にならい、側溝に向けてゆっくりと広がっていく。
ジョンは、しばらくアンジェリーナを見つめていたが、不意にその場を去った。
何を考えた訳でもない。本能である。
人の死から逃げるのは、ブレンダンの時に続いて二度目だった。
恋人を救う戦士として開花し始めていたジョンの人生は、突然の恋人の死によって、変わりつつあった。
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