第114話 終章

文字数 3,758文字

ベビー・ブルーの空が微かに顔を覗かせる、幾重もの雲が覆う空。
湧きたつ様に群れを離れた一筋の雲が、背中に翼をもつ二人の子供をのせ、ゆっくりと地上に降り立った。
人の生きる視線に近付いた彼らは、ラファエロの描くクーピッドに近い。
揺れる雲に戯れる彼らは、時間を気にする訳でもなく、また、相手に聞かせるつもりがある訳でもなく、ただ言葉を続けた。
「ヘクトル。」
「ギリシャ神話。」
「トロイアの王子、最強の戦士ヘクトル。」
「彼の死は悲惨だった。知っている。」
「アキレス。」
「ヘクトルはアキレスの友と武具を奪った。」
「船のために戦った。」
「ヘクトルとアキレスは一騎打ちで戦った。」
「アキレスはすぐに城を攻めなかった。」
「友の埋葬がまだだった。」
「ヘクトルの死体は辱められた。」
「死体を引き取ったのは父親。」
「アキレスは自分の息子の死を思った。」
「ヘクトルの死は神々の対立を引起こした。」
「不滅の誉れがあるだろうか。」
一人の子供は、傍らの弓を手に取ると、黄金の矢を弦にあてがい、大きく引いた。
背中の翼が少しだけ羽ばたく。
特に軋むわけでもない弦は、子供が指を離すと、勢いよく飛び立ち、遥か遠くに消え去った。

「ギリシャ神話。」
「世界の起源。神。英雄。」
「オーケアノス。テーテュース。」
「ゼウス。ヘラ。」
「ポセイドン。ハーデース。」
「オリンポスの勝利。」
「ティーターンの開放。」
「グライアイは生まれながら老婆。」
「アポロン。ヘクトルとアポロン。」
「鉄。」
「白鳥。鷹。蝉。」
「アポロンの意思。」
「幻視。」
「悲劇。」
「神殿。」
「ソクラテス。」
「黄金の体。」
「汝自身を知れ。」
また一人の子供が弓を手にした。今度は鉛の矢。
子供は、背中の翼を大きく羽ばたかせると、矢を弦にあてがい、軽く引いた。
どこを狙っているのか、体の向きを大きく変えた子供が指を離すと、矢は音を立てて飛び立ち、やはり遥か遠くに消え去った。

二人は、雲の上から適当に矢を放った。
黄金の矢は愛情を芽生えさせる矢。
鉛の矢は愛情を拒絶させる矢。
それは、彼らにとって、ただの暇つぶし。

雲で遊ぶ彼らは、間もなく空気の動きを感じ取ると、視線を散らした。
雪の残る山の麓に広がる湖畔。
ビリジアンの森や曲がりくねる畦道。
ミント・グリーンの草原に、色合いを添える程度の花。
水底の砂の色を見せる透き通った小川と橋。
人の姿のない景色の中で、奇跡は音を立てて始まった。
大地を割って現れたのは人の体。
背中から現れたそれは、ゆっくりと、しかし確実に雲へと近付いていく。
背中には、しっとりと艶のあるアイボリーの翼。
伸びをする様に広げられた羽根は、二人の子供達の雲を越え、大きく羽ばたいた。
やがて、その体は直立した。
肌は透き通る様に白い。
揺れる髪は輝くばかりのブロンド、長い睫毛が飾る澄んだブルーの瞳は、二人の姿を映している。

大きな天使。
気の遠くなる程の刺繍が繰返されたコバルト・ブルーの衣。
羽根をよけて、大地へと流れる、穢れないシグナル・レッドのマント。
右手には、装飾のない大きなサーベル。戦うためのものである。
子供達は呟いた。
「アダムとイブの番人。」
「大天使。」
雲が流れ出したのは、子供達の意志。逃げるのである。

天使は、サーベルを握る右手を、音を立て、天高く振上げた。
表情は変わらない。
子供達の雲は、既に遠い。
しかし、ゆっくりと振下ろされた剣は、何故か雲に届き、かたちのないそれを綺麗に二つに裂いた。
残った雲にすがる子供達は、弓を手にした。
それが、彼らの常。
子供達は、弦に矢をあてがい、軽く引くと、天使の顔をめがけて射た。
天使は、すべての矢を受け入れたが、まもなく一本の矢が、天使の目を射抜いた。
天使は、ゆっくりと右手を振上げた。握られた剣が風を切って、天を指す。
太陽の光を浴びる剣は、挙げた時と同じ様に振下ろされ、漂っていた二つの雲を綺麗に消し去った。

二人の子供は、なすすべもなく、地面に叩きつけられた。
彼らの背中の翼は、飛ぶためのそれではない。
あまりに高いところから落ちた彼らは、固い大地の洗礼に苦しみ、痛みから逃れようと、羽根を散らして仰け反った。

静かに眺めていた天使は、ゆっくりと足を上げた。
大きな足である。
やがて、その影で子供達を覆った足は、まっすぐに大地に降り、子供達を踏んだ。
やがて、天使が動かしたのは左手。
コバルト・ブルーの袖を揺らして、ゆっくりと上がったそれは、天使の目元で止まると、刺さったままの矢を握った。
躊躇いなく、天使が目から矢を抜く。
流れ出したのは、彼の血。
溶けた蝋の様に滑らかな塊が、ゆっくりと天使の頬を伝っていく。
何かを失った筈の傷跡はみるみる広がり、周囲の全てを包んだ。

Calmato 静かに———————————————————————

それは、サミュエルがつくったホログラムの一つ。
ブレンダンがアイクに教え、ジョンがロレンツォに語った、天使達の戦いである。
監禁した男達は、いつか解放すれば、警察に証言をする。
言葉の信ぴょう性を奪うためのそれは、途方もないのが望ましい。
その意味で、サミュエルは、このホログラムを本当に気に入っていた。
それが大天使ミカエルと伝わったかは分からないが、ジョンもブレンダンもコービンも、本当に声を上げて騒いだ。
ミカエルの登場。
子供達の最期。
全てを血で覆う傷。
床を這い、聞いた事のない声を上げて逃げる彼ら。
サミュエルは、よくその時のことを思い出して笑う。

サミュエルがいたのは、ヒュドール・リサーチ&エンジニアリングの中庭のベンチ。
傍らにいるのは、ラファエルとクイーンだけ。
定時をすぎた研究施設に、灯りは見えない。
目の前にあるのは焚火台。
薪をくべて、火を焚く。この施設のすべての権限をもつ彼だけに許される遊びである。
サミュエルが着けた火は、間もなく組上げた薪の頂きで大きな炎に変わった。
静かな暗がりの中、三人の姿だけが、揺れる炎に照らし出された。

ラファエルの微笑みはますます豊かになってきたが、クイーンは変わらない。
ラファエルはヘクトルの姿、つまり、ラファエルの父であるアダムの姿。
クイーンはラファエルの母であるイブの姿。
サミュエルは、ラファエルの姿。
時の流れは出鱈目だが、ラファエルの家族が揃っていた。

アダムとイブを最初に創造した時、サミュエルはそれに気付いていた。
家族の関係が狂っても良ければ、それでラファエルの願いは叶う。
サミュエルが、アダムとイブと幸せに過ごせばいい。それだけである。
サミュエルがそこで諦めなかったのは、ラファエルの姿をした自分の骨を、親の姿をした彼らに拾わせる気にはならなかったから。
ラファエルが求めているのは幸せ。
サミュエルは、理想を追求したのである。
しかし、長年苦楽を共にしたラファエルが、ココナッツ・フレーバーのブタからヘクトルの姿に生まれ変わると、サミュエルの価値観は変わった。
彼らが過ごした時間は、本当に長い。
たとえ人工的につくられた命でも、絆は深く、本当の家族よりも家族らしい。
障害があろうが、何だろうが。
動かないクイーンも、きっと閉じ込められた体の中で、何かを感じている筈である。
すべては乗り越えるもので、彼らの絆には何の関係もないのである。

親は、目も見えず、言葉も話せず、歩くことすら出来ない小さな生き物を育て上げ、やがて老い、育った過程を遡る様にすべてを失い、その子供に看取られながら死んでいく。
一生を思えば、親と子供の関係は一つではない。
一緒にいるのが家族。
サミュエルが思う限り、きっとラファエルの夢は叶えられたのである。
オレンジもゴールドも、誰一人として、サミュエルの心の変化に気付いていない。
ただ、サミュエルがヘクトル達を見守るのをやめた理由は、それ以外にないのである。

そんなことよりも、サミュエルはブラック・ドットの問題を解決しなければいけない。
ひょっとしたら、時空がねじれているのか。
それとも、ただのエネルギー体なのか。
さっぱり分からない。
おそらく、自分達の存在するこの空間の正体に迫る様な答えが待っている。
鍵になるのは、きっとラファエル。笑顔を炎に照らされる彼である。
計測する限り、決して歩けない筈の彼が、四葉のクローバーを見つけたかもしれない。
疑問は尽きないが、それがラファエル。サミュエルの産みの親である。
彼がいつか見せる奇跡だけが、何も分からないサミュエルの希望。
その時は、きっとクイーンも動ける様になる。
方法は分からないが、そんな気がする。
この世には、分からないことが多過ぎる。
何故、誰もがこうも分からないことをそのままにして生きられるのか。
サミュエルには、何もかもがさっぱり分からないのである。

その時、涼しい夜風が、吹き抜けた。
焚火台の周りには確かに三人いるが、風を肌に感じて、見つめる景色を変えたのは、サミュエルだけだった。
乾いた音を立て、火の粉を散らすと、炭になった薪が静かに崩れ落ちた。
傍らの薪をくべると、火は小さくなったが、サミュエルの目の前で静かに勢いを取り戻した。
炎はまた燃え上がる。
サミュエルは、踊る炎をじっと見つめた。
彼はただただ、炎を見つめた。
暗闇に包まれるサミュエルは、温まる頬だけで、時間が過ぎるのを感じた。

Fine 終わり———————————————————————
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み