第31話 真相

文字数 8,614文字

聴取を終えたロレンツォは、アイクを一人取調室に残し、ヘクトル達の待つロビーに姿を現した。ロレンツォは、薄汚い会話で今日一日を捨てる気はない。一斉に視線が集まると、ロレンツォは大きく微笑んだ。
「ありがとう。大成功だ。」
ビクトリアが罵られたことしか知らない皆の気持ちを代弁したのはアーサー。
「何が成功なんだ。」
ロレンツォは改めて微笑んだ。
「ランチでも食べながら話そう。彼女へのお詫びもしたい。」
ロレンツォの視線の先にはいたのはビクトリア。ロレンツォは言葉を続けた。
「近くにいいシーフード・レストランがある。皆の血税で払うから、遠慮しないでいい。メインのロブスターは普通だけど、アミューズのサーモンのディップは旨い。」
アーサーは首を傾げた。
「この近くなら、あそこか。ベルゲン・キャットか。」
ロレンツォが頷くと、話は早かった。皆が羨む名店である。

豪華客船のボリュームに大きなネオンの看板。
おめでたい店構えに耐えると、五人の前に暗めのシックな空間が広がった。
時間が早かったせいか、貸し切りである。
VIP席で給仕に囲まれると、ロレンツォとアーサーは、メニューを読み上げ続けた。贅沢な昼である。
但し、何が運ばれて来ようと、ヘクトルは持参のシリアル・バーとミネラル・ウォーター。
二度、睡眠薬を盛られて以来、彼が外食することはないのである。
ロレンツォお薦めのディップとバゲットが運ばれ、皆の手が動き出すと、アーサーが口を開いた。
「それでバルドゥッチ捜査官は?」
ロレンツォは、バゲットにディップを塗りながら答えた。
「まだ、彼は見つからない。ひょっとして、監禁もこうだったのかと思うよ。」
口を挟んだのはヘクトル。
「いや、違うだろう。僕も何度か経験したけど、睡眠薬で間違いない。」
その線も疑っていないロレンツォは大きく頷くと、バゲットを口にした。
主賓の今日は、ビクトリアも黙っていない。
「あの男はどうなるの?」
アイクの事である。眉間に皺を寄せたロレンツォは、急いでバゲットを呑み込んだ。
「どうもならない。彼は何も悪いことはしてないから。」
アーサーは、ビクトリアの顔に浮かんだ不安の色を放っておかない。
「あれは危険なんじゃないのか。さっき、聞く限りじゃ、ストーカーだろう。大丈夫か。」
ヘクトルも続く。
「あいつは普通じゃなかった記憶があるよ。」
ロレンツォは何度か頷いた。
「多分、大丈夫だ。大人しくなった。」
頼んでもいないのに並んだアクアヴィットを眺めるロレンツォに、詳しい話を始める様子は見えない。何かをしたことは確かだが、聞かない方がよさそうである。
小さく笑ったアーサーは話の先を急いだ。
「じゃあ、監禁事件はどうなるんだ?君の事件だ。」
ロレンツォの答えは早い。
「ブラック・ドットの件の後、いくら調査しても、木の部屋はなかった。だから、アイクの証言は大きい。おそらく立件できると思う。内装なんて、あの会社ならいくらでも変えられる。話に無理はない。大丈夫だ。」
皆の顔が、静かに明るくなった。
当たり前だが、謎ばかりが増えるせいで、誰もが憂鬱な気分だったのである。
次に口を開いたのはスカーレット。彼女のストーリーは、ロレンツォのそれとは真逆である。
「まだ、分からないわ。ヒュドールから逃げたとしたって、ラファレウ…。」
「何?誰?」
口を挟んだのはアーサー。彼は黙っていられない性格。
しかし、笑ったのは、アーサー夫婦とロレンツォだけだった。それは何かが起きているから。
スカーレットが不安げにこめかみに手を添えると、ヘクトルは目を見開いた。
“始まる!”
きっと、あれが始まるのである。
意味がなくても、聞いてみるのがアーサー。
「何、大丈夫?」
ロレンツォもアクアヴィットを手放した。スカーレットの揺れ方は普通ではない。
「気分は?休んだ方がいいんじゃないか?」
アーサーは、流れでヘクトルの顔を見ると、不意に顎を大きく揺らした。
ヘクトルは知っている。アーサーも落ちる。
「アーサー!」
倒れそうなアーサーを抱え込んだのはビクトリア。
「何だ。どういうことだ。」
ロレンツォの声に緊張が混ざった。
皆の視線の外で、スカーレットが音を立てて、テーブルに倒れ込むと、大きく揺れたロレンツォは、呻き声を上げた。腕のやり場に困っている様にも見える。重そうである。
間もなく、ロレンツォは、酔っ払った様に椅子に身を任せた。目は半分開いている。
起きているのは、ヘクトルとビクトリアの二人だけ。喋るのはビクトリア。
「一体、何なの?」
体格的に、彼女が残っているのはおかしい。
きっと、ビクトリアは遠慮して、あまり食べていなかったのである。
ヘクトルは、エミリーのことを思い出したが、二人は絶対に別人である。
覚悟の出来ているヘクトルは、気を使ってばかりのビクトリアに静かに話しかけた。
「きっと、君も眠る。そうしたら、誰かが来る。絶対だ。」
ビクトリアもブタとエミリーの話を忘れているわけではない。
妄想に襲われるビクトリアのために、ヘクトルは言葉を選んだ。
「無理に吐かなくていいよ。きっと、君は大丈夫だ。怖がらずに、眠ったらいい。何も心配しないで。」
何度も小さく頷いたビクトリアは、アーサーを抱いたまま、目を瞑り、やがて、静かに寝息を立て始めた。
起きているのは、何も食べなかったヘクトル一人。
全員の食べ物に、薬が入っていたのである。

ヘクトルは、店の中を見回した。
給仕の姿がないばかりか、厨房から何の音も聞こえない。
きっと、店は空である。もしも、ヒュドールが本気なら、出来ないことではない。
相手が姿を見せないのが、ヘクトルが起きているせいなら、あるいは無駄な暴力を避けられるかもしれない。
悩めるヘクトルは、椅子に腰かけたまま、周囲に目を配り続けた。
やがて、倒れた皆の寝息が深くなり、誰かのイビキが混ざり始めた時、小さな変化が起きた。
目の端で、何かが動いたのである。
それは人の影。
間接照明にぼんやりと照らし出されたのは、眼鏡をかけたスーツ姿の男。
まずは中年。敢えて言うなら知的。一人である。
勿体ぶる感じはなく、真っ直ぐヘクトルの方に向かってくる。体格はヘクトルと同じぐらい。
間もなく、ヘクトルの前に立ち止まった男は、正面に座っていたロレンツォの椅子を引き、押しのけた。
ヘクトルが驚かなかったのは、そのぐらいのことはすると思ったから。
男は、表情を変えずに、今、自分がつくった椅子に腰を下ろした。
正面に座られて確信したが、男はかなりの確率でラファエル・クレメンス。
スカーレットに見せられた写真と全く同じ。そう、同じ。
完全に同じと言えない理由は、その見た目が数十年前の写真と全く同じだから。
それはありえない事なのである。

先に口を開いたのは、その男の方だった。
「手短かに済ませたい。私は、サミュエル。ラファエル・クレメンスのクローンだ。」
深くて、よく響くいい声。間違いなく、あの男である。
クローンに抵抗のないヘクトルは、静かに耳を傾けた。
「二度も言った。詮索するなと。」
眼鏡の奥の男の眼差しは厳しい。
「キャリーを泣かせて。パトリシアを怖がらせて。ビクトリアを危険に曝して。」
分かり易いフェミニズム。
ただ翻弄されてきたヘクトルには、到底、受け入れられない言いがかりである。
一瞬、ヘクトルの目に宿った不満を読み取ると、男は話を進めた。
「まあ、いい。君がテレビに顔を出したせいで、キーマンが集まった。あの時に、半分あきらめてはいた。人は知りたくなると、我慢できないものだ。」
サミュエルは、サーモンのディップに指を入れると口に運んだ。ナプキンで指先を拭くのも忘れない。几帳面かもしれない。
「だから、真相を教えよう。長くはかからない。」
ヘクトルの口が小さく開くと、サミュエルは優しく微笑み、静かに語り出した。
「ラファエルの両親は、自らの研究の出資者であるローデヴェイク・デ・グラーフの手によって、本当に悲しい死に方をした。そして、ラファエルは、自分の開発したクローン技術で、幸せだった自分の家族を再現しようとした。私は、ラファエルの夢を実現するために彼を支え、彼がそれを諦めると、彼に代ってすべてを捧げてきた。君達はそのためのクローン。それだけだ。」
短い。あまりにも短い。更に言えば、ヘクトル達の推理は、かすってもいなかった。
サミュエルの話は終わらない。
「何組もクローン人間をつくるなど、酷いと思うかもしれないだろうが、そうでもない。断っておくが、私達は、出産に相当する大きさまで細胞を体外で培養する。母親は不要。これは重要だ。巨大化も気にならない。当然、流産もない。つまり、人間として、それほど酷いことはしていない。」
サミュエルは、ヘクトルの顔に浮かんだ疑問符を笑った。
「同じ人間を何人もつくることを、人格を無視している様に思ったなら、遠くにおけば関係ない。人は育つ環境で変わる。私も最初は気にしたが、それは小さいことだ。」
ヘクトルが声を出さないのは、予想以上に自分に準備がないから。
何かを聞くにしても、今はその時ではない。つまり、喋るのはサミュエル。
「その上で、人の人生には限りがある。当然、人の気持ちをコントロールすることも出来ない。私が生きているうちに、確実に目的を達成するには、アダムとイブが一組だけでは不安要素が多過ぎた。だから、何組もつくった。時には、支援もした。君達が誘拐事件と呼んでいる騒ぎもその一つだ。彼らは巻込まれただけで、クローン技術には何も関係ない。巻込んだのは私だ。これは面白い話だ。」
理解しきれていないヘクトルを見ると、サミュエルは、姿勢を正した。声は、今まで以上に深く、優しい。
「ただね。何をどうしようが、私達の支援など、君とエミリー、つまりはラファエルの両親の気持ちには一切及ばない。君達の気持ちには、何ら嘘はない。それは言っておく。」
やはり、理解できないヘクトルは黙るしかない。
時間の止まったヘクトルを見つめる時間が長くなると、サミュエルは眉を高く上げた。
「君達の気持ちと言えば、ジョン・インガーソルとの訴訟。あれは止めた方がいい。」
それは、ヘクトルの琴線。
「何故?」
ヘクトルの口から初めて声が漏れると、サミュエルの顔に笑顔が戻ってきた。
「やっと、喋った。いい事だ。折角だから、ちゃんと話し合おう。そのために、私は出てきたんだ。」
サミュエルの顔には自信が満ち溢れている。
「ジョンとエミリーのこと。あれは不幸な事故だ。もう気付いてるだろう。ジョンは悪くない。あそこまで彼を追込んだのは私だ。彼の立場なら、誰もがああなった。君は私の忠告を無視しても構わないが、結論だけ言うと、どんなに頑張っても、君が裁判で勝つことはない。何故なら、私がジョンを全力で応援するからだ。」
ヘクトルは、目の前の理不尽の塊を睨んだ。心の中は、また別。
死んだエミリーの姿が、フラッシュバックしているのである。
声をかけようとも思わないぐらい壊れてしまったエミリー。
ヘクトルもその場にいたのに、助けられなかったエミリー。
愛するマテウスの目の前で、死んでしまったエミリー。
ジョンが悪くなかったなど、到底ありえない。
あの男は、ヘクトルを殴り倒し、怖がるエミリーを追い回し、道路に追いやった。
絶対に許すことは出来ない。
ヘクトルが生業とする法の名のもとに、ジョンを裁く。
それだけが、彼がエミリーのために出来る唯一の償いなのである。
サミュエルは、怒れるヘクトルの瞳を放っておかない。
「ヘクトル。よく考えてほしい。君達夫婦は、何十億人と人間がいる中で出会い、結婚し、息子まで辿り着いた。マテウスはラファエルだ。クローンは何組も準備したが、家族を築けたのは君達夫婦だけだ。あそこに至るまでに、私がどれだけ苦労したか。短い時間だったが、君達は本当に幸せそうだった。見ている私も大いに泣き、笑った。勿論、いい意味でね。結果は失敗に終わったが、今後に大いに期待が持てた。君達は素晴らしい。もう十分に奇跡を起こした。感謝しかない。」
サミュエルは、アーサー夫婦を指差した。
「アーサーとビクトリア。彼らには子供が出来ない。アーサーには、まだその認識がないだろうが、私は知っている。ビクトリアの秘密だ。金銭的な支援ぐらいはするつもりだが、本来の目的から言うと、彼らは終わっている。」
ヘクトルは汚い言葉を選んだ。人間が怒るべき時である。
「最初から、子供のクローンもつくって、家族ごっこをさせれば良かったのに。」
サミュエルは首を傾げた。
「気が強いな。思ったより、攻撃的だ。ただ、考えるんだ。君も私と同じクローンだ。君なら、知らない女性や子供と一緒にされて、いきなり家族になれるか。それも一生だ。無理だろう。男女の仲はまた別だ。生殖本能も強い。ただ、家族の愛は、真実の愛でないと。ラファエルへの愛は本物でないといけない。彼が可哀そうだし、君もそう。そうだろう。」
尤もらしい詭弁にヘクトルは黙れない。
「その愛を再現するために、何十年間も観察されて、結婚する相手も決められる。そんなことが許されるのか?」
サミュエルは答えを持っている。
「君の本当の親が私だったと思えばいい。少し過保護だ。人に見られて悪い事は、しなければいい。それに、君は、エミリーと結婚させて悪かったと、私に謝られたら納得するのか?」
言葉を探すヘクトルを見据えると、サミュエルは話を急いだ。喋らせる気はないのである。
「年老いたエミリーを覚えているか?」
忘れる筈がない。夢と現実の境界が曖昧になり、一瞬だが、エミリーが本当は生きている様な錯覚もした。
「最初は、クローンの老化を早め、ラファエルの記憶をすり込んで、彼の家族をそのまま再現しようとした。君も口に出した通りにだ。でも、これは駄目だった。加齢技術はラファエルもやったが、その時はもっと酷かった。私も立会ったが、思い出したくもない。彼女は、私が、加齢の途中で老化を止めた最初で最後のクローンだ。老化を止めるのに成功したが、代わりに一切の動きが止まってしまってね。」
サミュエルは、声の調子を変えた。少し明るいのは、彼にとってジョークだから。
「私はクイーンと呼んでいる。いつも椅子に座って、それらしいだろう。」
ヘクトルの眉間に皺が入ると、サミュエルも同じ表情を選んだ。
「彼女を見せたのは、単に君を怖がらせるためだ。怖かったろう。私の日常だがね。」
微動だにしないヘクトルに、サミュエルは小さく顎を上げた。
「話すことは以上だ。もう知りたいこともないだろう。これで納得してほしい。」
無理な話である。ここで黙ると、すべてが終わってしまう。
気の焦るヘクトルは、急いで言葉を絞り出した。
「ラファエルはどうしたんだ。今の話では、君は異常に彼に献身的だ。君は彼の手足の様なものなんだろう。」
サミュエルは小さく笑うと、人差し指でヘクトルを差した。
「君は既にラファエルに会っている。」
ヘクトルは、もう誰とどこで会っていようが驚かない。
「顔を変えて、僕の傍にいるのか?」
サミュエルが小さく顔を横に振ると、ヘクトルは次の球を投げた。
「リンカーンか、カレブのどちらか?」
話の流れとしては、いい線の筈である。
しかし、サミュエルは笑いながら顔を横に振った。
真剣な眼差しでヘクトルを睨んだサミュエルは、五秒後に口を開いた。
「実は私だ。」
悪いジョークである。
ヘクトルは、テーブルをひっくり返そうとしたが、据付のテーブルは動かない。
興奮したヘクトルは、怒りのやり場を失うと、天板を一度強く叩いた。
「冗談だ。」
サミュエルは、軽く笑って、言葉を続けた。
「思い出せ。キュートな彼を。」
興奮に目を見開いたままのヘクトルは、しかし、頭の中でサミュエルの言葉の通り、キュートな男を探した。考える限り、一人もいない。
ヘクトルの瞳が揺れると、サミュエルは小さく笑った。
「コチニール・レッドの部屋でクイーンといたブタ。あれが、ラファエルだ。ココナッツ・フレーバーで臭くない、最高にチャーミングなブタだ。」
ヘクトルの顔にどれだけ皺が増えようと、サミュエルには関係ない。なぜなら事実だから。
「オスのブタは臭う日がある。あまりに気の毒だから、食べ物に香料を混ぜた。ココナッツ・フレーバー。私には紳士に見えるが、人によっては食欲をそそられるかもしれない。これは冗談ではない。」
きっと、これは冗談の様で、冗談ではない話。下らない冗談は前置きとして必然。
そういうことである。
サミュエルは、ヘクトルの顔を見つめると、自らの言葉の力を注意深く見定めた。
「その表情からすると、まだ、納得していないな。それでは駄目だ。何でも聞いてくれていい。それが大事だ。」
サミュエルは、椅子に背を任せた。本当に、幾らでも付き合う気の様である。
まだ、ブタの話を信じられないヘクトルは、それでも話を進めることにした。分からないことが多すぎるのである。
「ニコーラは?」
サミュエルは頷いた。
「ブラック・ドットか。あれは怖い。私は何も知らない。あれは事故だ。言っておくが、安全を保障できないから、近付かないことだ。」
「あんな危険なもの。誰も近寄れない様にしておけば良かったのに。」
声を荒げたヘクトルに、サミュエルは逆に驚いた。
「立入禁止のテープがあった筈だ。私はすぐに張った。」
ヘクトルの頭に浮かんだあの日のエントランスはテープだらけ。切ったのはロレンツォなので、サミュエルは正しい。
謝る気のないヘクトルは、次の質問を選んだ。
「クローン技術は、何であなただけ成功するんだ。」
サミュエルの答えは早い。
「技術を構築したのは、ラファエルだ。私は、そのデータを使っているに過ぎない。」
ヘクトルが首を傾げると、サミュエルは説明を加えた。
「知ってもどうしようもないから言うが、要はたくさんつくった。そして、成功した条件の線を引いた。あとは、その通りにつくるだけだ。失敗する奴らは、線を引くためのデータがとれないんだ。ラファエルが数奇の運命を辿った中絶の支持者でなければ、ありえなかったろう。ただ、この事実を知ったところで、普通の人間には高い壁が幾つもある。誰もつくれないし、何も変わらない。」
確かな答えである。ヘクトルの質問は終わらない。
「何年も監禁された男達は?」
「然るべき補償をする。彼らの一生分の収入は補償できる。」
ヘクトルは、サミュエルの罪悪感のない口調が許せない。
「あなたは、第二、第三のジョン・インガーソルをつくっているんじゃないのか?」
「確かに。対応を急ごう。」
あまりに事務的。
きっと、サミュエルは慣れているのである。腐る程、クローンをつくり、似た様な不幸を繰返している。ラファエルの実験の話の時点で、気付くべきだったかもしれない。
「いや、一体…。僕とエミリーと同じクローンは、何人つくられたんだ?」
サミュエルは、ヘクトルが自分の世界に近付きつつあることを知ると、小さく微笑んだ。
「今、生きている数ではなくて、つくった数が知りたいのか?何を知りたい?もし、私が最初に思ったことを聞いたなら、知ってどうする?長い旅になるぞ。」
疲れたヘクトルが口を開こうとすると、サミュエルは、思い出した様に人差し指を口にあてた。目を閉じて、少しの沈黙。
サミュエルは、きっと何かを考えているのである。
言われるままにヘクトルが沈黙を守ると、不意に目を開けたサミュエルは、嬉しそうに微笑んだ。
「分かった。おそらく、一つ一つの答えで波長が合うのは期待できない。一つ提案だ。私と君で秘密を共有しよう。それが早い。」
サミュエルは、身を乗り出すと両肘を机についた。ここまでの話だけで、十分に圧を醸し出している。
気持ちで負けないためにヘクトルが足を組むと、サミュエルは小さく頷いた。
「言っておく。私はここまでに多くを語った様で語っていない。それが、君の心にわだかまりをつくっている。否定は止めてほしい。納得できていないことは認めるだろう。私がすべてを語らなかったのは、ある人物の罪について話す必要を生じるからだ。守るべき人。偉大なデ・グラーフ兄弟の罪を。」
サミュエルは、ヘクトルの目を見据えたまま、言葉を続けた。
「ローデヴェイクは既に死んだ。だが、その資産を継いだ弟のステファヌスがいる。親子ほど年が離れているが兄弟。大富豪だ。新聞でも目にするだろう。」
ローデヴェイクと違って、ステファヌス・デ・グラーフの名は、確かに幾度となく、目にしたことがある。N国出身の大富豪で、新聞だけでなく、ビジネス誌も頻繁に彼の特集を組んでいる。建設、環境保護から医療、軍事産業まで事業は多岐にわたるのだから、当たり前である。彼を語る記事は、常に華やかで美しく、心地いい。皆の夢を実現する男。それがステファヌス・デ・グラーフである。
「君はおそらく、私の話す秘密を皆に話したくなるだろうが、ステファヌスの耳は地獄耳だ。彼が知れば、君の常識を明らかに超えたことをしてくる。」
サミュエルは、ヘクトルに更に顔を近付けた。
「何度も言う。秘密だ。今、私が話しているのは、これ以上、人を死なせないためだ。だから、一度で納得して、すべてを忘れ、この件に二度と関わろうと思わないでほしい。」
ヘクトルが、それを本格的な脅しだと意識した時、サミュエルは勝手に話を始めた。
「では、もう少しだけ話そう。昔話。ロング・ロング・アゴーだ。」
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