第25話 空間

文字数 5,620文字

洋室の四人。
話し始めたのはジョンである。
「この間の話に答えがでた気がする。」
コービンは、いつも通りに受けて立った。
「聞こうか。」
食事の時以外に、四人が丸机に揃うのは何度目かの奇跡。
コーヒーを煎れたブレンダンが声をかけると、アイクが応じたのである。
並びは、ジョンにコービン、アイクにブレンダン。アイクがジョンを避けているせいだが、アイクだけが知る事実かもしれない。
ジョンは、その貴重な場で、お得意の空想をうれしそうに披露し始めた。
「この世の果て、空間のことだよ。」
コービンは、鼻で笑うと、コーヒーを口に運んだ。喋る気のない意思表示。あまりに壮大なテーマである。
確実に無理な挑戦に、ブレンダンも小さく笑った。
「粘りますね。」
アイクは、音を立てて椅子を動かしたが、半ば残るコーヒーを見ると、その場にとどまった。
ジョンは、まったく怯まない。自信の塊なのである。
「大体がだ。皆、自分達のいる広大な空間の正体を、いきなり考えるから分からなくなるんだ。」
一理ありそうな始まりに、コービンとブレンダンの視線はゆっくりとジョンに向かった。
「何かが出来る前は何もないんだから、最初に出来るものは、一瞬でも、ものすごく小さい状態を辿る。だから、最小の状態の空間がある。それは皆知ってるんだ。ただ、最初だけが特別と考える理由があるかい?」
ジョンに見つめられるとコービンは顔を横に振ったが、何を否定したのかは分からない。
ブレンダンは笑ったが、ジョンは自分の都合のいい様に受け取った。
「そう。ないんだ。それなら、その最小の空間が、今もそこらにあると考えるべきなんだよ。」
「だから、どういうこと?」
コービンが声を上げたのは、黙っていては駄目だと思ったからで違いない。
ジョンは、しっかりと頷くと言葉を続けた。
「その空間を特別と考えないためには、大きさの違う空間がたくさんあって、それぞれが互いに絡み合ってると考える必要がある。空間自体はたくさんあって、現象ごとに一対一の関係をもつんだ。空間の界面で考えると、僕らの世界には紐の形が見えてくるかもしれない。ただ、個々の空間は周囲とエネルギーでバランスをとるから、人の認識する能力より小さい単位でバランスがとれてたら、エネルギーは0だと認識される。所謂、無の状態になるから、僕達には本当の最小の空間が認識できなくて、真理を見つけられないんだ。」
コービンの質問は早い。
「そのバランスというのは、時間の話で言ってた最小単位のエネルギーの作用・反作用とかのこと?」
「おそらくはそうだ。」
空想が過ぎるが、コービンは小さく笑うと質問を続けた。
「で、空間の形は?」
「本当の形は分からなくて、観察や計算で見えてくるのが紐なのかもしれない。メビウスの輪みたいにねじれてると面白いけど。ただ、完全な安定には最初と最後が必要になるから、少なくとも不安定なのは確かだ。振動と言うのは簡単だけど、人間の計算で言うと、体積がプラスとマイナスの空間が入れ替わるぐらいのことが起きててもいい。」
コービンが動きを止めると、ブレンダンは小さく笑った。アイクには、決して耐えられない時間である。
喋るのは、勝ち誇るジョン。
「僕達の存在は、空間と時間の関係性によって、僕達の見る尺度だけで認識されているにすぎないんだよ。本当の全体を見ることが出来れば、おそらくは全体でもエネルギーの収支はとれてて、常に見かけは無の状態なんだ。常に無だけど、最小単位に着目すれば、常に新しい時間が始まってる。皆がイメージする始まりの状態だ。」
コービンが笑いながら言葉を続けた。
「まあね。前から俺も分からない。ビッグバンは、無の状態から何かが起きて始まったって言うけど、無が終わるんなら、無の始まりが気になる。その前の無の終わりもだ。」
響いたのは舌打ち。
アイクである。
この部屋だけの新しい理論の誕生に、アイクの苛立ちが極まったのである。
不安な三人の誰の視線も、アイクの視線と交わることはない。積極的な無関心である。
ジョンは、努めて笑顔を浮かべると、話を続けた。
「この世の果ての存在を実証しようとしても、実証を試みる自分という存在が基本になるから、それと対応する空間の存在が認識されて、無を観察することは絶対に出来ないんだ。空間の存在が前提の世界だと、全ての時間は戻らなくなるし、最初と最後のことで悩むことになる。」
コービンの顔にも笑顔が戻った。
「つまり、空間には無と有の二重構造があるから、果てという概念自体が無意味ということだな。君の解釈なら、時間も常に始まって終わってるし。つまり、時間の最初や空間の果てが説明できなかったのは、その定義が間違えてたってこと。そうだろう。」
この瞬間のジョンの笑顔は、彼の心の底からの笑顔。
ジョンは、嬉しそうに言葉を重ねた。
「解析なら出来るかもしれない。多分、マイナス1の三乗根とか、そういう世界の関係性を議論する必要があるとは思うけど。」
コービンは、勝手に合格点を与えた。
「まあ、式にするのは間違えだろうけど。適当でも、空想としては面白いレベルだ。」
すべてに頷き続けたブレンダンは、不機嫌そうなアイクに微笑んだ。
「どうですか?この間の疑問は解決しましたか?」
アイクは、気に入らなくはないブレンダンを睨むと、僅かな躊躇いを見せてから口を開いた。
「俺は…。俺は、そんなことを聞いたんじゃあない。俺達がいるこの妙な空間は何なんだと言ったんだ。本当に説明しようとするとは思わなかったがな。」
しかし、ジョンにはアイクの意図は通じない。全く、波長が合わないのである。
「それなら、正しくはこうだ。つまり、僕達が認識する古い概念の空間は、空間の関係性が、偶然、異常に緻密になった場所じゃないかと思うんだ。三乗、つまり累乗の偶然がほんの数回重なれば、他との違いは圧倒的になって、物の見え方を全く変えてしまうだろう。僕達は、その異常な空間のルールで全てを考えるから、何も分からないんだ。それこそが、この空間が妙に思える理由さ。」
完璧な勘違いにコービンとブレンダンが声を上げて笑うと、アイクは、きれいな顔を赤く染めた。発した声は大きい。
「何なんだ、あんたは!」
三人は驚いて目を丸くしたが、アイクは気にせずに怒鳴り続けた。
「そんなこと言って何になるんだ。解析なら出来るかもじゃなくて、してから人に言えよ。下らない。」
拳を握ったアイクは、震えながら机を叩いた。
「なんなんだ。なんなんだ。これは。〇〇〇〇!〇〇〇〇!〇〇〇〇!」
アイクの様子に微かな狂気を見つけたコービンとブレンダンが椅子を立つと、アイクは素早く二人を睨んだ。
「お前らも何だ!お前らが付き合うせいで、この〇〇〇〇の馬鹿話がいつまでも終わらないんだ!」
アイクは、とうとう言ってしまった。
直接、言ってしまえば、もう戻れない。
アイクをなだめようとしたコービンとブレンダンは、優しい気持ちが消えたのか、静かに腰を下ろした。
四人の空間は、完全に壊れたのである。

そんなアイクの矛先が、この部屋のすべてに向けられ、何分かが過ぎると、日頃、口数の少ないアイクの喉は、なるべくして掠れ始めた。
アイクの意に反して生まれた言葉の合間に、口を開いたのはジョン。
「気に入らなかったなら謝るよ。済まない。気を付ける。ただ、これからもこの四人で共同生活を続けなきゃいけないんだ。僕にじゃなくていい。他の二人には謝ってくれないか。」
ジョンの紳士的な態度は、アイクの怒る理由を認めていない証である。
アイクは、掠れた声を震わせた。
「謝罪?そりゃあ、お前の好きな共同生活に戻るんなら、そうだろう!ただ、俺は違う!」
アイクは、小さな声で呟いた。それは漏れてしまった心の声。アイクは孤独なのである。
「こいつが二度としゃべる気を起こさないことが大事なんだ。」
アイクは、とうとう立ち上がった。揺らした机に、コーヒーがこぼれる。
アイクは殴る気だ。アイクを含む全員がそう感じた。
神はサイコロを振らないが、確たる理由もなく、アイクはブレンダンの脇を通り過ぎようとした。あるいは、ブレンダンを気に入っていたせいかもしれない。
向かう先はジョンである。
察したブレンダンは、腰を上げると、アイクの体を抑えようとした。暴力が何も解決しないのは、どんな状況でも変わらない。
しかし、そんな常識に突き動かされたブレンダンの小さな体は、アイクに大きく弾かれた。
バランスか、タイミング。あるいはその両方のせい。
どこを庇うでもないブレンダンは、成す術もなく、床に倒れ、頭を打ち付けた。衝撃が集まったのは、後頭部。音は鈍い。
アイクの顔から怒りの色が引くのに合わせる様に、ルビー・レッドの液体が床に広がっていく。ブレンダンの血である。
動いたのはコービン。
ブレンダンに駆寄った彼は、膝をついて、傷口を見た。
程度は分からないが、コービンはシャツを脱ぎ、傷口にあてた。止血である。
「ヘイ、ブレンダン!」
耳元で呼びかけても、ブレンダンは反応しない。
遅れて近付いたジョンもブレンダンの脇に屈んだ。腕を伸ばした先は首筋。脈の確認である。
ジョンは、コービンを軽く押して、居場所をつくると、ブレンダンの胸を両手で押し始めた。
人工呼吸。ブレンダンは、息をしていないのである。
何もしなかったのはアイクだけ。この空間でずっと孤独だった、彼一人である。

次の事件が起きたのは数分後。
それは、意識のある三人の常識が一瞬で崩れ落ちる様なイベント。
アイクが来て以来、ずっと閉ざされていた扉が、何の前触れもなく開いたのである。
三人は、理解できない音に区々に振り返り、スーツ姿の男を見つけた。眼鏡が知的。手に鞄を持つ人間を見るのも久しぶりである。
ジョンとコービンは、二度、三度と振り返ったが、ブレンダンの救助は止められない。
アイクだけが、男の動きを目で追い、鞄に書かれた文字がAEDであることを理解した。
男は、真っ直ぐブレンダンに近寄ると、ジョンの肩を軽く叩いた。
交代の合図である。
鞄を開くと、AEDの準備。手慣れている。
「離れて。」
男に言われるまま、コービンもブレンダンから離れた。
三人は、男とブレンダンを囲む様に立つと、作業の行方を静かに見守った。
ブレンダンが助かるまで、傍にいなくてはならない。
そういう呪縛に、彼らは捕らわれていたのである。
ブレンダンの小柄な体が、AEDで大きく揺れる瞬間、三人の体も釣られて動く。
四人は、心のどこかが繋がっているのかもしれない。
途中、男の携帯電話が鳴ったが、男は無視した。
ブレンダンを助けたい。その一心だけで、何なら何も聞こえていないかもしれない。
男は、ただひたすらに、ブレンダンの救助を続けた。

三人の魔法を解けたのは、更に何分か経過した時だった。
部屋の外で、爆音が響いたのである。理由は誰にも分からない。
男は扉を一瞥しただけで、手は休めない。それでも、爆音で心のバランスが変わったのか、小さい声が漏れ始めた。
「帰ってこい。帰ってこい。」
懸命な救助活動を見つめていたジョンは、男と同じぐらい小さい声で呟いた。
「今かもしれない。」
反応したのは、肌着姿のコービン。
考えれば、分かる。扉は開いているのである。
きっと、ジョンも逃げたいが、自分だけでは怖い。誰かが動けば、自分も続く。
そう言っているのである。
少しだけ悩んだコービンは、ブレンダンから目を逸らした。
決断の時である。
コービンは、当たり前の様に、開いたままの扉から部屋を出た。
もう、気持ちを抑えることは出来ない。
ジョンもアイクも、争う様に部屋を後にした。
眼鏡の男は三人を呼んだが、待つわけがなかった。

前室の廊下を出ると、また、長い廊下がある。そこまでは、かつての経験で分かっている。
誰もいない廊下の先を見渡したコービンは、扉が開いている部屋を見つけた。
かなりの確率で、爆音の理由はそこにある。
しかし、すべての扉が開かないことも知るコービンは、とにかく扉の開いているその部屋を目指した。
遅れて、廊下に駆け出し、コービンの背中を見つけたアイクとジョンも、道を知る筈のない彼に続いた。

コービンが迷い込んだ部屋の天井は、今まで暮らしていた洋室よりも遥かに高かった。
広さも十分。家一軒が、そのまま入りそうである。
壁際には、ゴミが散乱している。家具もあるかもしれない。
その先のシャッターは大きく歪み、外の光が差込んでいる。
振返ったコービンは、扉の蝶番が壊れていることに気付いた。
この部屋で爆発が起きたことは、想像に難くない。
コービンが部屋の状況を理解する間に、アイクとジョンも部屋に走り込んだ。
ついて来た二人はコービンの顔を見たが、コービンは目を逸らした。
コービンが感じた錯覚。
二人が追いついたなら、次は眼鏡の男が来る。
助かるためには、この二人が来ないぐらい遠くに逃げなければならない。
不安に駆られたコービンは、勢いよく走り出した。
床を蹴る音が、吹抜けの空間に響き渡る。
それは、数メートルだったろうか。
走り出したコービンは、不意に姿を消した。
影もかたちもなく。
ジョンとアイクは、何もないその場所から強い風を受け、髪を軽くなびかせた。
消え方は、気持ちとしては、吸込まれる様だったかもしれないが、あくまでも気持ち。
とにかく、一瞬のことだった。

人間が消える。
ジョンとアイクだけではない。そんな光景は、世界中の誰一人として見たことがない。
ジョンは、コービンが消えた場所に、ゆっくりと近付いた。
目を凝らしながら、摺り足で進む。恐怖のせいである。
間もなく、ジョンは何かを見つけた。そう。何か。
一ミリメートルもない。ちらつきながら宙に浮かぶ点。
ブラック・ドットである。

ジョンを眺めていたアイクは、摺り足で動くジョンの遅さで時間の流れを思い出した。
周囲を見渡したアイクは、散らかる壁沿いを選んで歩き、歪んだシャッターにたどり着くと、隙間から、光の世界に走り出した。
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