第62話 宿願

文字数 4,463文字

アイク・ガーフィールドは、分かり易く金持ちになった。
連邦捜査局の追及から逃れたアイクの毎日は、自宅と職業安定所を行き来し、空いた時間は、公園で道行く人を眺めるだけ。誘拐される前と何も変わらない日々だった。
すべてが変わったのは、やはり何の予定もない穏やかな春の日の午後。
オレンジという名の男が訪ねてきて、五百万ドルの札束を、リビングの汚れた机の上に積んだのである。小切手ではなく、現金。
オレンジは、口数が少なかった。
「君がこれだけのお金がもらえる理由はただ一つ。君の選択肢もただ一つ。」
思わぬ大金に動きを止めたアイクを前にオレンジは席をたったのだから、その選択肢はアイクが金を受け取ることに他ならない。
そして、金がもらえる理由も一つしかない。
オレンジは監禁事件の関係者に違いないのだから、警察を呼ぶのが筋であるが、嫌いな警官の手柄を増やす気にもならないのがアイク。
アイクは、無駄な詮索をしなかった。
もう、足繁く通った職業安定所に行く必要はない。
アイクは、一生を暮らすだけの金を手に入れたのである。

何でも手に入るアイクが最初に求めたのは家である。
一軒家を購入できる金を持って、賃貸住宅に住み続けるのは不経済。徹底した合理主義の彼には、一日でも惜しい。
アイクは、その日のうちに不動産屋を訪ねた。駅前で、最初に目に付いた店である。
「いらっしゃいませ。」
満面の笑みで現れる店員は一人ではない。次から次へと、細かい担当の紹介と挨拶を繰返す。
店員総出の歓迎の演出だが、打合せブースに辿り着いたアイクは疲れ切っていた。
心のない彼には、たらい回しにしか感じられない。それがアイクである。
最後にアイクの前に現れた女性の名はアーバーグ。ナイル・ブルーのスーツに身を包んだコケージャンである。
「よろしく。あなたを担当するアーバーグよ。」
「アイク・ガーフィールドだ。頼むぞ、バイキング。」
アイクは、アーバーグの差し出した手を握らなかった。

「家を買うのは初めて?」
アーバーグのルーティンの始まりである。
「初めてと二回目で違うのか。」
「何も知らないと、私が全部説明しないといけないわ。」
「さぼるなよ。店員の義務を果たせ。」
「そうね。でも、無駄な話も嫌でしょう。」
「ああ、だから言ってる。無駄な話はやめて、リスト通りに全部説明しろ。」
「OK。OK。あなたはクレバーね。」
「知ってるから、話を進めろ。」
アーバーグのジャッジ。アイクは嫌な客である。
アーバーグは、アイクの指示通りにパソコンに条件を入力し、候補の売り家を四軒選び出した。
「あなたはラッキーね。これだけの条件で四軒なんて、なかなかないわ。」
鼻で笑ったのはアイク。
「そのセリフも、マニュアルに書いてあるのか。」
「ええ。私の頭の中のマニュアルに。喜ばれるのよ。」
思わぬ返事にアーバーグを見つめたアイクは、不意に席を立った。
「見に行こう。現物じゃないと、何も分からない。」
アイクは嫌な客だが、買う気のある客。
アーバーグは、とびっきりの笑顔でアイクをエスコートした。

二人が乗り込んだのは、G国製のシルバーのセダン。後部座席のアイクは、車中で絶え間なく続いたアーバーグの説明をすべて聞き流した。
まもなく着いた一軒目。
家の前で車から降りると、アイクは、建物の外観を見渡した。
全面のガラス・カーテン・ウォールと庇しか目に入らない平屋。
特に違和感はない。
芝の上を歩く間も、アーバーグの説明を聞き流したアイクは、扉の鍵を開けた彼女の脇をすり抜け、家に入った。
アイクの結論は早い。
“この家に決めた”
アイクがこの家を気に入った理由。
元々は展示室である。安いのが一番、据え付けの家電と家具があるのが二番、間取りがいいのが三番。
アイクの基準は、明確なのである。
アイクは、それでも、ベッドの軟らかさを確かめ、バスとトイレを覗いてから、アーバーグの名を呼んだ。付いて回る彼女の説明は、すべて無視である。
「ここを買う。」
すべてを無視されたアーバーグは、アイクの顔を覗き込んだ。
「本当に?」
「ああ、なんで嘘を言うんだ。」
「いや、でももう少しちゃんと…。」
「ちゃんとかどうかは俺が決める。間違いない。俺の欲しいものは揃ってる。」
「ご近所とか…。」
「駅までの距離はさっき見たろ。店もある。」
「ご家族とか…。」
「それは俺の問題だ。俺は、ここに来るときに、家族を忘れてきたと思うのか。狂ってるな。」
アーバーグは、分かり易く目を回したが、通じるアイクではない。
喋るのはアイク。
「今日からここに住みたい。金は現金で払う。」
アーバーグには、もうジェスチャーは残っていない。
「OK。お客様。まずは契約書を…。」
「サインのいる場所だけを教えろ。」
アーバーグは、彼女の頭の中のマニュアル通りに微笑んだが、このシチュエーションには決して合っていなかった。アイクは、規格外なのである。

契約を済ませたアイクは、二つだけ条件を出した。
一つは、アイクの自宅に連れていくこと。
一つは、車のディーラーに連れていくこと。
アイクにとって、アーバーグは足なのである。

間もなく家に着いたアイクは、札束を入れたスーツ・ケースだけを持って、車に戻ってきた。
「お引越しの業者も紹介できますよ。」
アーバーグは義務を果たすのである。口を開いたのは、アーバーグよりは窓の外が気になるアイク。
「全部、買い替えるからいい。出直しだ。」
引きつる笑顔の消せないアーバーグは、アイクの指示通り、車のディーラーに向かった。
二人が今まさに乗っている車と同じメーカーのディーラーである。

目的地まで、大した時間はかからない。
アイクは、新居の契約書とスーツ・ケースを持って、店内に消えた。
アイクが笑顔で戻ってきたのは十分後。口を開いたのは、車に乗り込んだばかりのアイク。
「言い忘れてたが、もう一つだけ頼みがある。」
「喜んで。」
勤勉なアーバーグが笑顔を向けると、アイクも笑顔を返した。
「俺の家に送ってくれ。」
「忘れ物ですか?」
アイクは、一瞬で笑顔を消した。
「俺の家だ。さっき、買った。他にどこがある。」
アーバーグは、静かにアクセルを踏んだ。
バック・ミラーのアイクの顔は明るい。アーバーグは、それでもコミュニケーションを選んだ。それが彼女のマニュアルである。
「ご機嫌ですね。」
「ああ、そうだ。家に車だ。人生の目標が二つも一日で手に入った。」
アーバーグは大袈裟な笑顔を見せた。
「素敵ですね。そんなことがあるもんなんですね。」
「あるもんって、俺がそうしたんだ。偶然みたいに言うなよ。」
「ええ、そうです。全部、あなたの努力の結果です。」
アイクは、満更でもない顔をすると、窓の外に目をやった。
喋るのはアーバーグ。
「車はどんな車種にしたんですか。きっと、素敵な車なんでしょうね。」
アイクはアーバーグの後頭部を見つめた。
「素敵って。いや、これと同じだ。」
「同じ?」
「ああ。乗り心地は悪くない。気に入ったんだ。」
「色は?」
「同じだ。別に気にならない。店にあったしな。」
顎の上がったアーバーグは、何度か頷いた。
「気に入ってもらえて、嬉しいわ。」
アイクは、彼女の記憶の中で一番不気味な客になった。

やがて、辿り着いたアイクの新居。
アーバーグは、誰が見ても綺麗だが不気味なアイクのために、後部座席のドアを開いた。
やはり満更でもないのがアイク。
アーバーグは、マニュアル通りの笑顔で別れを告げると、すばやく車に乗込んだ。
車を走らせるより先に、分かり易くロックをする。嫌味のつもりである。
気持ちが伝わったか確認するために振り返ったアーバーグは、既に家に向かって歩いているアイクの背中を見た。

アイクは、ベッドの上でスーツ・ケースを開いた。
車を買った時のおつりの小銭は、底に沈んでいる。
アイクは、札束を避け、小銭を拾うと、ポケットにねじ込んだ。ポケットに丁度いい枚数である。
しかし、その日のアイクは、そのまま動きを止めた。
一人だけのシンキング・タイムはアイクの日常。
やがて、アイクは、札束から百ドル札を何枚か抜き取ると、二つに折り、ズボンの後ろポケットに少しだけ丁寧に差し込んだ。
アイクの行き先は、まだ見ぬ夜の街。目的は、喉の渇きを癒すことである。

新居に移ったアイクは、日々、街に金を配って空腹を満たした。プロセスに感動を求めないアイクの金の使い方は全自動。便器に流す様なものである。
そんなアイクに次の変化が訪れたのは、不安のない毎日に飽き始めた頃。
念願の車が届いたのである。
ビールを飲みながら寝ていたアイクは、玄関のチャイムで目を覚ました。
車が来ると知っているアイクは、ビール瓶を片手に玄関に出た。瓶を手放さなかったのは本能である。

家まで車を運転してきたのは、ブロンドがキュートなディーラー。
アイクは、彼が名前を名乗ろうとすると、言葉を被せた。
「いいから、やることを済ませよう。早い方がいい。」
一瞬、時間の止まったディーラーは、小さく首を傾げると、説明に入った。
当然、アイクに聞く気はない。温いビールを時折口に運びながら、ただ、その様を眺めるだけである。
やかましいステラーズ・ジェイを睨みながら、アイクが何回かゲップをした頃、ディーラーは長い説明を終えた。
「説明は以上になりますが、何か分からない事はありませんか。気になる事とか、何でも仰って頂いて結構ですよ。」
目を瞑ったアイクは、ゆっくりと顔を横に振った。
やがて目を開いたアイクは、何かを待っていたディーラーを見据えると、片手で追払うジェスチャーをした。

ディーラーを帰し、ソファに戻ったアイクは、両手を握りしめた。
彼は、彼にとっての全てを手に入れたのである。
家に車。
家に車。
仕事もないのに、家に車。
アイクは、自分の腿を何度も拳で叩いた。それは生きている実感。
しかし、何事にも拘らない彼の頭を、一抹の不安がよぎった。
監禁である。
監禁されると、家と車から引き離される。
アイクには、失うものが出来たのである。

アイクは、新車に乗り込むと、街の銃器店に急いだ。
向かうのは、前に何度か揶揄ったことのある店。
店員は二人いるが、その日いたのは、腹の出方の気に入らない方の店員。アイクの狙っていた男である。
「ヘイ、ブッチャー。」
店に入った途端に声を上げたアイクを見ると、店員は顔を背けた。
それだけでアイクは満面の笑みを浮かべた。
「銃がいる。一番いいのだ。」
店員は、大切なお金のために努力を惜しまなかった。
結果、アイクが手に入れたのはレミントンM870。
警察が装備する散弾銃である。
延々と続くオプション・パーツの説明を聞いていたアイクは、一番近くにあったウイング・マスターを選んだ。理由は何でもいいから。
弾丸は、手持ちの金のままにバッグに詰めた。
それがアイクである。

身の安全もひっくるめて、すべてを手に入れたアイクは、家に入るとソファに体を沈めた。
綺麗な顔を誰に見せるわけでもない。
配達される食べ物と酒を胃に流し込み、散弾銃を抱えて、テレビを見るだけの生活。
何者にも干渉されない、アイクの想う完全な生活である。
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