第38話 記憶

文字数 1,848文字

意識を取り戻したニコーラ・バルドゥッチは、煉瓦が囲む袋小路で倒れている自分を見つけた。
体が重く、節々が痛い。何よりも痛むのは左足の先。止めどないとはこの事。
軋む首を上げて眺めた左足は裸足。小指に巻いてある包袋には血が滲んでいる。
取敢えず、嫌な予感しかしない。
頭が地面から離れたせいで、ニコーラはもう一つの違和感に気付いた。
大事なこと。確認せずにはいられない。
両腕は共に痛むが、左足程ではない。
間もなく、ゆっくりと頭を目指した彼の右手が触れたのは液体。
予想のついているニコーラは、静かに手を顔の前に移し、それが血であることを確認した。
おそらく、ニコーラの後頭部は、血に浸っている。
痛みに照らすと、血は彼のもので間違いない。
普通に事件である。
ニコーラは、上半身をゆっくりと起こした。腰がきしむ音が腹から聞こえる。
服が血だらけなのも冗談級。スーツでないのは、せめてもの救い。新調したばかりである。
ただ、やはり最悪。最悪である。
ニコーラは、自己嫌悪に陥った。
静かに、血の溜まる路面を見つめたニコーラは、不意に小さく呟いた。
「最悪だ。」
別に、声を出してみたかったわけではない。
今までのすべてを上回る最悪に、ニコーラは気付いたのである。
記憶がない。
取敢えず、今、辿ろうとした直近の記憶がないのである。

ニコーラは辺りを見渡した。袋小路はそれ以上でも以下でもなく、開けた通りにも人影はない。
いつもスマートフォンを入れるのは、ズボンのポケット。
ニコーラは、改めて錆びついてきた腕を無理に動かすと、スマートフォンを見つけた。
この記憶は正しいので、やはりなくなったのは直近の記憶。
どこかで聞いた様な話である。
ニコーラは、スマートフォンをタップすると、管理官を選んだ。
上司への報告は絶対である。
管理官が出るまでにツー・コール。彼は、いつでも緊張感を保っている。
「もしもし、管理官ですか。」
ニコーラの痛々しい声は、電話の向こうにも何かを感じさせた様である。
「バルドゥッチ。どうした。何があった。」
当たり前かもしれない質問に、ニコーラは小さく笑った。
電話をかけてみたが、何があったかは説明できないのである。
取敢えず、今の状態だけを伝えたニコーラに、管理官はボスとしての優しさを見せた。
「分かった。まずはパトカーと救急車を向かわせる。場所を教えるんだ。絶対に、そこを動くな。いいな。」
「動けませんよ。」
ニコーラが言葉を被せると、管理官は笑った。
「いい事だ。あとで病院に誰か行かせる。まずはしっかり休むんだな。年金が出ても、逃げるなよ。犯人を捕まえるんだから。」

しばらくして到着した救命士は、担架の上でお決まりの質問をすると、壊れかけたニコーラを医者の前に届けた。
主治医はローズ先生。付き合いは長い。
「全身を打撲してるね。痣が幾つも重なってる。切れてるのは頭と左足の小指。記憶喪失の原因は、頭を切った時に打ったからかもしれない。少し他と違う。一過性だといいが、様子見だな。小指は、第一関節から先がないね。」
ニコーラは口を挟んだ。見ての通りだが、黙っていられない。
「包帯は?」
「君が巻いたのかもしれないし、他の誰かかもしれない。これだけじゃあ、何とも。ただ、頭の傷よりは確実に前だろう。」
頷くしかないニコーラを眺めると、先生は言葉を続けた。
「MRIでは、脳に出血はなかった。骨折がないのは奇跡だね。抗生物質と鎮痛剤。あとは外用薬で経過観察かな。」
ニコーラは、ローズ先生を見つめた。
「命に影響は…。」
「しないね。」
即答である。人間は、悲しいぐらいに頑丈に出来ている。
一応聞いただけのニコーラは、痛みを耐えて、静かに立ち上がった。

行先は待合室。
譲られた椅子で処方箋を待つ間、しかし、ニコーラは自分の頭に新たな変化を見つけた。
それは、先生に言わなければならないレベル。
激しい頭痛ではない。それはずっと。
視界が揺れたのである。自分が動いたのではない。人影の様なものが激しく揺れている。
目の前の人ではなさそうである。
動きは早く、輪郭も分からない。人のかたちに見えるが、人の動きではない。
ニコーラは、目を凝らしながら、自分に言い聞かせた。
きっと、今は脳が壊れているだけ。
怪我が治れば大丈夫。何と言うことはない。
大丈夫。大丈夫。大丈夫。
平衡感覚を失ったニコーラは、自分の体が崩れ落ちていくのを感じた。
意識が薄れていく。
頭がおかしい自分は、何を信じればいいのか。
自分が見るこの世界は、本当に見たままなのか。
悩めるニコーラの視界は、真っ暗になった。
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