第86話 疲弊

文字数 3,770文字

A国U州P市。ヘクトルの自宅から車で三十分程の場所にあるコの字形の総合病院。
その二階の南端にあるのが、マテウスの眠る個室。駐車場から、よく見える部屋である。
車を降り、エントランスに向かって歩きながら、その部屋を見つめ、奇跡を祈るのが、ヘクトルの日課。そして、普通に生きる限り、決して目にしないのが奇跡である。
一度は職を離れたヘクトルだが、ステファヌスとの一件は、彼の弁護士としての価値をワン・ランク上げた。復職したヘクトルは、高額の医療費を気にしないで済む生活を手に入れたのである。
そして、マテウスの世話。寝返りは全自動ベッド、おむつ交換と食事は看護師の仕事。
時折、僅かに目を開けることもあるが、瞳が動くことはなく、気の毒なので閉じてやる。
ヘクトルの仕事は、その程度だった。
付き添う時間の殆どは、マテウスに絵本を読んで聞かせる。脳に刺激を与えると、何かが起きるかもしれない。微かな期待である。
マテウスの枕元は、何度かの模様替えの末、今は彼の好きだったおもちゃで溢れかえっている。
一番いい場所を占めるのはブレイン。
マテウスが不意に目覚めて、ヘクトルに勝負を挑んでくる日を想像すると、病室にいる時間が少し楽しくなる。それが理由である。

妻が死に、たった一人の子供は目覚めない。正直、これ以上ない惨状である。
エミリーが死んだ時は首を痛め、頭も重くなった。常に感じる鼻血のにおいや耳の中の液体の音は、リンカーンとカレブのことを少年時代に不意にからかわれて以来の経験だった。
しかし、今回は違う。マテウスが生きている以上、傷ついている場合ではない。
気を張り、自分を奮い立たせなければならない。
ただ、何かのきっかけがあると、すべてが崩れ落ちるかもしれない。
ヘクトルの心は、そんな状態だったのである。

招かれざる客がヘクトルを訪ねたのは、疲れきった彼がいつもの様にマテウスに絵本を読み聞かせていた時である。
扉を滑らせて、個室に入ってきたのはスカーレット。
ちょっとした仕草に服の質感、髪の毛の曲線の緊張感や化粧の濃淡。
アッパー・クラスを熟知するヘクトルには、あらゆる余裕が伝わる。
「久しぶりね。」
スカーレットの自信に満ちた微笑みを見ると、ヘクトルは思わず腰を浮かせた。
「ああ、久しぶり。」
スカーレットは、ヘクトルの一番繊細な問題を放っておかない。
静かにベッドに近付いたスカーレットは、マテウスの顔を見つめた。口を開いたのはスカーレット。
「ずっとなの?大変ね。」
「いや、僕はそうでも。」
「マテウスの方よ。」
「ああ、そうだね。彼は、頑張ってる。うん、凄いよ。ありがとう。」
俯いたヘクトルは、椅子に腰を下ろすと、微かに微笑みを見せた。
「今日は何かな。マテウスの見舞い?」
スカーレットは、ヘクトルの顔に視線の先を戻した。
「申し訳ないけど、他のことよ。ごめんなさい。こっちの都合だけで。」
「謝らなくてもいいさ。マテウスに会ってくれて、それだけで十分だよ。」
「そう?そう言ってもらえるとうれしいけど。でも、ちょっとだけ、談話室で話せる?人に聞かせたくない話なの。」
ヘクトルは、マテウスの顔を見た。反応がある筈はないが、スカーレットが気にしたのが不思議だったのである。
「いや、ここでいいよ。大丈夫。ここの方が、きっと人に聞かれる心配がない。」
スカーレットは、悲しい目でヘクトルを見た後、空いている椅子に腰を下ろした。
口を開いたのはスカーレット。
「クローン技術のこと。忘れてないでしょう。」
「さすがにね。それが何?」
「私、今、その研究を国でやってるの。」
「それは、…。」
二人の近況報告は長くなった。
事実、最後に会って以来、二人には、あまりに多くの事が起きたのである。
スカーレットが暗に教え続けたのは、自分が国にとって、特別な存在になりつつあること。
全てに敏感なヘクトルは結論を急いだ。
前にスカーレットが訪ねてきたのは、ラファエルを探すため。
今回も、きっと、それに匹敵するぐらいの難題を持ってきたに決まっているのである。
「それで、用件は何?」
スカーレットは、首を傾げた。
「クローンを開発するメリットは何だと思う?」
「何だよ、急に。」
「すぐに答えられないなら、私が言うわ。永遠の命と無限の軍隊。世界中が欲しがるものよ。じゃあ、次。それを実現するために、研究者が越えなきゃいけない最大の課題は?」
「まあ、研究倫理とか、そういうのかな。」
「そうね。超えるために、いろいろやるわ。何人かの死刑囚から遺伝子をとって、いろんな臓器をつくるの。それを寄せ集めて、AIを載せる。人間じゃないって、言い張るの。」
「そりゃあ、そういうものかもしれない。凄いね。」
「凄くないわ。」
スカーレットは、厳しい目でヘクトルを見た。喋るのはスカーレット。
「いい?今のは言い方だけの話。他人の臓器を寄せ集めようとすると、神経を繋げないといけないでしょう。麻痺がある兵隊は戦えない。」
「そういうもんなんだ。知らなかったよ。」
「そう。誰も気にしないわ。じゃあ、どうするか。基本になる部分は、一人の人間からつくるの。一人じゃないって言うためだけに、他のクローンの臓器を移すの。脳だって、AIを載せるって言うけど、基本の部分は人間の脳よ。」
ヘクトルが黙ると、スカーレットは言葉を続けた。
「いい?倫理の問題は解決してない。でも、国は人型ロボットぐらいのノリで、ゴー・サインだけを出してるの。私達の研究は進んでないのに、工場の準備だけは進んでる。」
「僕はどう言っていいのか。」
「どうも言ってほしくないわ。多分、新しい発見はないから。私は馬鹿じゃないの。」
喋るのは、やはりスカーレット。
「いい?必要なのは皆の議論よ。このまま駄目。皆で、何が問題か知って、ちゃんと議論しなきゃ。そうじゃないと、私は死ぬまで後悔する。だって、どう考えてもおかしいもの。人が死なないために、クローンを切り刻むなんて、間違ってる。それは、あなたやアーサーよ。何もしないで、いつかそれが私のせいになるのは嫌。あり得ないわ。」
ヘクトルは、スカーレットのシビアな世界を垣間見ると、何度か頷いた。
「それは大変だけど。でも、僕はどうしたらいいのかな。」
スカーレットは、ヘクトルの目を覗き込んだ。
「サミュエル・クレメンス。彼の助けが欲しいの。」
「それを僕に言われても。」
「いいえ、あなたよ。私が彼に助けてもらうには、あなたが必要なの。」
スカーレットは真剣に頼んでいる。
ぎりぎりの神経で、日々の生活をやっとの思いで送るヘクトルに頼っているのである。
ヘクトルは、込上げる笑いで肩を小さく揺らすと、椅子に深くもたれた。
口を開いたのは、天を仰いだヘクトル。
「僕は、確かに間違えたんだよ。サミュエルは言ってた。ステファヌスは、僕の予想を超えたことをしてくるって。それを僕は気にせずに、聞いた秘密をそのまま皆に話した。そこから、どれだけ話が広がるかなんて、考えもしなかった。」
スカーレットは小さく頷いた。ヘクトルの話は終わらない。
「でも、世の中には普通じゃない奴がいるんだ。近付いたら、どうしようもないことをする奴が。街をVXガスや津波で襲うなんて、考えられなかった。サミュエルだって、僕に害を加えないことが分かってるだけで、狂ってる。今も僕を見てるかもしれない。近付いちゃ駄目なんだ。神の領域だ。来れば、逃げるのが正解だ。わざわざ自分から近付くなんて。」
スカーレットは、慈愛に満ちた表情を浮かべたが、ヘクトルは見ていない。
やがて、ゆっくりと頭を起こしたヘクトルは、空を睨むと、自らの結論を出した。
「ない。やっぱりない。」
スカーレットは諦めない。
「もし、あなたが望めば、ひょっとしたらサミュエルがマテウスを治してくれるかもしれない。そう思ったことは?」
ヘクトルは顔を横に振った。
「彼はいつも見てるんだ。治す気があれば、機会はあった。彼が僕を特別だと思う理由は、マテウスだけなんだ。」
「それは、あなたの考えでしょう。実際に頼めば、治してくれるかもしれない。苦しむのも、助けを求めるのも、あなたに任せてるのかもしれないわ。あくまで、もしもの話だけど。ただ、もしも本当にそうだったらどうするの?」
疲れたヘクトルは、抵抗する言葉をなくした。
それは、スカーレットの待っていたもの。
「考えて、ヘクトル。今、あなたが眠ってるだけだと思ってるマテウスに、すべてが聞こえてるとしたらどう?」
ヘクトルの動きが止まると、スカーレットは言葉で追い打ちをかけた。
「サミュエルは、皆の希望よ。マテウスにとってもそう。マテウスには、サミュエルに頼る権利があるわ。あなたは、それをマテウスの目の前で放棄すると…。」
ヘクトルは言葉を被せた。
「やめてくれ、酷過ぎる。」
「あなたが先にそう言ったの。」
「君が誘導したんだ。」
「あなたが頷くと思ったからよ。」
ヘクトルは口を開こうとして躊躇うと、顔を横に振った。やはり口を開いたのはヘクトル。
「僕は馬鹿かもしれない。」
スカーレットは静かに頷いた。
「馬鹿かもね。それならどうするの?間違った答えのまま、私を追い返して、動けないマテウスを絶望させるの?私なら、そんな酷いことはしないわ。」
やがて、耐えきれなくなったヘクトルは、決して譲る気のないスカーレットに従う道を選んだ。
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