第59話 切言

文字数 3,256文字

A国I州C市のコンドミニアム。贅を極めたその中の一室が、アーサーの自宅である。
エマがハンドルを握るキャンピング・カーが滑り込んだのは来客用駐車場。
コンシェルジュがインターカムを繋いだビクトリアは、ヘクトルを見ると、一行を家に招き入れた。
エレベーターの先で、扉を開けたのはアーサーである。
何故か先頭にいたエマの視界を独占した彼は、ヨシュアと同じ顔。
ヘクトルで慣れているエマは、冷めた目で口を開いた。
「カブーン。サミュエル・クレメンスのお使いよ。」
顎を引いたアーサーは、背後のヘクトルを探した。
「おお、そりゃあ、あれだ。ヘクトル!」
「急に済まない。久しぶり。」
笑顔のヘクトルに挨拶を変えそうとしたアーサーは、足元に衝撃を受けた。
しがみつくマテウスである。
マテウスを足に乗せたまま、アーサーは扉を開いた。
「まあ、入って。話は中で聞こう。」

自己紹介は簡単に。パープルのファミリー・ネームは、やはりヘイズになった。
ビクトリアが持ってきたモカが皆の前に並び、マテウスがお菓子の山に飛びつくと、ヘクトルが口を開いた。アーサーが信頼できるのは、彼だけなのである。
「このあいだのN州の首切り事件を覚えてるかい?」
アーサーは、一度手にしたコーヒー・カップをテーブルに置いた。
「随分、強烈だね。」
エマは、スマートフォンを取出すと、テーブルの上を滑らせた。
ヨシュアの写真を見せるのである。ヘクトルがいるお蔭で、ツー・ショットの写真は要らない。説明を添えるのはヘクトル。
「被害者は、その写真の彼だ。」
スマートフォンを覗き込んだアーサーとビクトリアは、一目で全てを知った。
「クローンか。誰が?何のために?」
アーサーの的確な疑問に、ヘクトルも的確に答えた。頭の回転の早さは、同じDNAの成せる業。
「やらせたのは、おそらくステファヌス・デ・グラーフ。ラファエルとサミュエルの研究に出資していた男の弟だ。」
アーサーは眉を潜めた。
「僕とは随分遠い気もするけど、あのステファヌス?」
それは、あのステファヌス。映画の中で、急に話しかけられた様な浮遊感が与えられる男。
ヘクトルがゆっくり頷くと、エマが口を挟んだ。
「あなたから遠くても、ステファヌスからすると、あなたはすぐに手が届く大勢の一人よ。」
アーサーは、ヘクトルとエマの顔を交互に眺めた。
「僕に手を出してどうする。何をしたいんだ。というか、ここに来たということは、僕も狙われてるのか。あのステファヌスに。」
エマは小さく頷いた。
「可能性は否定しないわ。」
いつになく口を開いたのはビクトリア。黙っていられる話題ではない。
「サミュエルの時みたいに、小さい間違いが積み重なっただけじゃないの?こっちの思い違いで、空騒ぎしてるだけなんじゃないの?」
アーサーは、顔を横に振った。ビクトリアにかける声色は優しい。
「何がどう積み重なっても、思い違いで首は切らないさ。理由がある筈だ。」
口を開いたのはヘクトル。
「僕達には狙われる理由がある。クローン技術だ。」
アーサーは、ヘクトルの言葉の矛盾に気付いた。
「それなら、サミュエルを狙うだろう。僕達を殺したって、何もならない。」
ビクトリアの不安は止まらない。
「捕まえて研究したいんだったら?」
頷いたアーサーは、エマを見つめた。
「首を切られた男の死体は?」
残酷な質問だが、アーサーはエマとヨシュアの関係を知らない。
「警察に回収されたわ。」
エマの答えに、パープルは静かに視線の先を移した。エマの表情はいつもと同じ。克服しているのである。
アーサーは、ソファに大きくもたれかかった。
「警察もグルかもしれない。こりゃあ、国家ぐるみの犯罪だな。」
大きすぎるストーリーを揶揄ったのかもしれない。
ヘクトルは、相変わらずのアーサーを制した。
「よせよ。誰も得をしない。」
エマは、アーサーとヘクトルを交互に眺めた。
クローンの個性が全く違うことに、何故だか安心したのである。
間もなく、話の舵を大きく切ったのはエマ。自分もそうだったが、放っておくと、想像は尽きないのである。
「私が頼まれたのは、ヘクトルを西海岸のサミュエルのクルーザーに連れて行って、彼の身の安全を守ること。それだけよ。」
頷いたパープルが、初めて口を開いた。
「最も確からしいのは、ステファヌスがサミュエルを手に入れようとしていることだ。そのために、彼はメッセージを送っている。おそらく、それがこの事件だ。」
アンダーソン夫婦の表情を観察しながら、パープルは言葉を続けた。
「ヘクトルには、マテウスがいる。サミュエルにとって、ヘクトルは特別な存在だ。ステファヌスがそれを知れば、ヘクトルを奪いに来る。それが、エマと僕がヘクトルを迎えに来た理由だ。」
自分の名前が呼ばれたマテウスは、一瞬、大きく反応したが、すぐにお菓子の山に戻った。
口を開いたのはアーサー。
「で、僕は?」
パープルの答えは早い。
「ヘクトルの希望だ。君達夫婦も心配だと言うから、連れに来た。」
アーサーは、パープルを指さした。
「それなら、分かる。」
アーサーが納得したのは確かである。微笑むエマと一度目を合わすと、パープルは静かに言葉を続けた。
「君の命が狙われてるかどうかは分からない。ただ、サミュエルがステファヌスの元に行かなければ、いずれ君達クローンが見せしめに殺される可能性は限りなく高い。」
アーサーには不要な説明である。
「でも、さっきも言ったけど、サミュエルにステファヌスのところに行ってもらうのが筋だろう。それが一番だ。」
パープルは、顔を横に振った。
「それは無理だ。彼は、デ・グラーフ兄弟の恐ろしさを知っている。死んでもステファヌスに近寄ることはない。」
頷くアーサーの頭に過ったのは、気になっていた例の事件。
「実は、このあいだ、S国に出張したんだ。でも、打合せのあったビルが爆破された。」
何も知らないビクトリアに見つめられるアーサーに、パープルは答えを教えた。
「あのビルは、破産したB銀行関連のサミュエルの資金を扱っていた会社のものだ。君を狙うために、あんな大掛かりな脅しをする必要はない。僕が思うに、あれはサミュエルへの警告の一つだ。現時点ではね。」
「あれが警告?」
驚いたアーサーは、間もなくもう一つの驚きに辿り着いた。
「ちょっと、待ってくれ。あれはサミュエルの仕事か。全部、彼の仕組んだことか。仕事の振りか。」
パープルは小さく笑った。
「どんな仕事もそんなもんだろう。」
ヘクトルは、意外と人生を知るパープルに微笑んだ。

アーサーが人生を振り返るのに必要な時間は、皆が考える以上に長かった。
沈黙を破ったのはアーサー本人。
「つまり、現時点で自分は狙われていないのに、身を隠すわけだ。無期限で。マフィアの裁判の証人よりも、先が見えない。」
そうは言っても、アーサーは受け入れ始めているかもしれない。あと一押しである。
パープルは、アーサーの心を軽く揺らした。
「クローンはたくさんいるが、僕達が絶対に救うのはヘクトルだけだ。ただ、君が一緒に来たいのなら、かまわない。無理強いはしない。」
反応したのはヘクトル。
「おそらく、サミュエルをおびき出すためにクローンを殺すなら、ビクトリアも同じ条件だ。逃げた方がいい。」
ヘクトルは、エミリーに見えるビクトリアを見殺しに出来ないのである。
エマもパープルも、話の分からないマテウスも、静かにアーサーを見つめた。
ビクトリアは、アーサーの手を優しく握って待っている。
すべてを夫に委ねるのが、ビクトリア。ヘクトルにとってのエミリー。
アダムにとってのイブなのである。

誰を見るでもなかったアーサーの視線は、やがてヘクトルに注がれた。
「分かった。付いて行こう。」
自分だけではない。妻の身の安全も背負うアーサーは、今の優雅な生活を捨てるしかないのである。
ヘクトルがゆっくりと大きく頷くと、アーサーは言葉を続けた。
「ただ、仕事先に迷惑をかけられない。事務所に一回顔を出してもいいかな。」
答えたのはエマ。
「ノー・プロブレム。」
エマの謎の自信に、パープルは小さく笑った。
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