第1話 序章

文字数 10,201文字

その目は全てを見ていた。
暗闇の中か、酒を飲む薄明かりの中か、うたたねから覚めた陽光の中かを問わず、全てを。
その時間は、ずうっとずうっと続いた。

Tranquillo 静かに———————————————————————

A国U州P市。弁護士のヘクトル・ピウスが、妻エミリー、三歳の息子マテウスとこの街に転居してきたのは、半年前のことである。
ヘクトルとエミリーが出会ったのはヘクトルが大学生の頃。それまでの人生に全く接点のなかった二人の共通項は、共に養子縁組ということ。ある種のコンプレックスのせいか、二人は、育児に適することで有名なこの街に住むという共通の夢をもち、遂には叶えたのである。
ヘクトルの瞳の色はセルリアン・ブルーで、髪の色はブルネット。
幼い頃の僅かな時間だけ、ブロンドだった彼は、同じ髪質のマテウスに過ぎた日の自分を重ね、心から愛している。当然、息子への愛情という点で、母であるエミリーがヘクトルに劣ることはない。
半地下の地下階と地上一階のアイボリーに塗られた木造の築五年の中古住宅は、彼らが選んだ住宅街の南端にある。
日当たりの良い庭の芝生は少し伸びているが、彼らが余所行きの生活を終え、ヘクトルが仕事、エミリーが育児に勤しんでいる証である。
前の街では要らなかったが、この街では車は欠かせない。どの家の駐車スペースも、十分すぎる程広い。
選んだ国産の小型SUVは車高が高く、視界はいい。初心者のエミリーが、稀にハンドルを握ることがある所以である。因みに、今は後部座席を占領するチャイルド・シートの決定権を譲る代わりに、ボディの色はヘクトルがアゲート・ブラックに決めた。
ヘクトルは弁護士である。キャリアこそ浅いが学歴がものを言い、現在の事務所とは年二十万ドルの契約を交わしている。加えて言うなら、彼は人柄の助けもあり、仕事でストレスを感じることは一切ない。上手くいく人間は、全てが上手くいく。そんなものである。
一方のエミリーは、大学にも進学していない。高校を卒業してから、母親が営む造園業の手伝いを始め、ヘクトルと出会い、結婚して、妊娠を機に辞めた。
転居前のアパートメント暮らしの頃は、マテウスの夜泣きと近隣への気遣いに苦しんだエミリーは、この地に移ってからは、日に日に健全な精神状態を取り戻した。
やがて、マタニティの部屋着も姿を消すと、子育ての全てにおいて、エミリーは幼い頃に夢見た理想の親になるために、全力を尽くした。
器用さは関係ない。努力は人の心に訴えるものである。
彼女の努力は、ヘクトルの尊敬とマテウスの信頼を生んだ。
誰が見ても、彼らは、明らかに幸せの絶頂にあったのである。

その日は、春先の寒暖の差を気にしたエミリーの提案で、マテウスにかけるブランケットを買いに出る、いつも通りの幸せな一日。その筈だった。
帰宅して、三人が車から降り、エミリーとマテウスの背を見送ったヘクトルが、車にロックをかけた直後、そのイベントは始まった。
我が家の前に、見知らぬ男が立っていたのである。
新品特有の皺が目立つ服を着た男の視線は、明らかにエミリーに向けられていた。
「アンジェリーナ、シャーロット、スカイラー、エミリー、アリシア!」
男は、大きい声で何人かの女性の名前を叫んだ。エミリーの名前が入っているのは確かだが、普通ではない。
呼ばれたエミリーは、マテウスから男へと目を移した。目と目は合ったかもしれない。
男は、エミリーの顔を見ると、引き寄せられる様に足を進め、何かを喋り続けた。それは、ヘクトルまでは届かない程度の声。
エミリーが首を傾げた理由は分からない。
仕事柄、或る程度の覚悟のあるヘクトルは、駆け足で男とエミリーの間に入った。
振返ったエミリーの怪訝な表情がそうさせたのである。
ヘクトルの頭が、気の利いたセリフを探すのに二秒。
次の瞬間、男は手を振り上げた。
ヘクトルにその手が長く思えたのは、警棒を握っていたから。
男は、躊躇うことなく、鉄の塊をヘクトルの頭部に打ち付けた。
成す術もなく、鈍い音と共にヘクトルがその場に倒れると、男は、ただ、エミリーに向けて言葉を続けた。
「コバルト・グリーンの瞳、マルーン・ヘア、色の濃い眉、厚い唇、…。」
自分を見つめなければ出ない言葉と夫への容赦のない暴力。
彼女の頭に過った言葉。
“逃げなければならない。”
エミリーは、事態が分かる筈のないマテウスを抱き上げ、走り出した。
とにかく男のいない方向。男から遠ざかる方向。
道路である。
エミリーは、数歩と進まないうちに車道に達し、そして車に跳ねられた。
見晴らしの良い道路では、逆に僅かな距離で車道に飛出す人を予見するのは難しい。
車は、減速することなく、マテウスを抱いたエミリーの体を弾き飛ばした。
地面を滑るエミリーは、マテウスの体を離さない。母性本能である。
間もなく止まったエミリーから流れ出た血液は、路面の勾配にならい、側溝に向けてゆっくりと広がった。
男は、しばらくエミリーを見つめていたが、近付く事なく、思い出した様にその場を去った。
一方で、明らかな確率論で、事件に巻込まれたのは車を運転していた女。
人生の終わりを覚悟する時間を経て、車外に出た彼女は、倒れたエミリーとマテウスに近寄った。
顔を大きく横に振っていた彼女に、明るい表情が一瞬だけ戻ったのは、マテウスが無事だと分かったから。
女は、壊れてしまったエミリーのために救急車を呼んだが、それが無駄なことは誰の目にも明らかだった。
母親として花が開き始めていたエミリーの二十五年の人生は、誰の助けもなく、ヘクトルが気絶している間に終わってしまった。

Cantabile 歌うように—————————————————————

基調は木の洋室。
南面に窓のある外壁、北面に配膳用の子扉をもつ木の扉、東面に四人分の二段ベッドと納戸、西面に風呂、トイレとオーディオ・ラック。
床から天井まで連なる南面の窓のせいで、屋外の広い平原と森を嫌でも意識してしまう。
壁は、基本的に調度品で埋まっているが、空いた空間は、色合いの違う集成材のモザイク。
床面のフローリングはオールド・ローズ。樹種はブビンガだろう。
天井の集成材は階段状で、北に向けて階高が高くなっていく。区切られた隣りの空間が、今いる洋室と違う事は、想像に難くない。
数人用の大きな丸机と幾つかの一人掛けの椅子のデザインは一見奇抜で、分類するならモダニズム。椅子に関しては、少なくともクッションが最高に仕上っている。
勿論、住人もいる。三人の男達。皆が揃ってから、もう何か月かになる。
変化の一切ない、永遠に続きそうな、静かで穏やかな時間である。

そんな部屋に、今、久しぶりに新しいイベントが起きようとしている。
一人の男アイク・ガーフィールドを、迎えるのである。
アイクは、まさに今、その洋室の前室で目覚めたところ。
目についた扉らしき部分が動かないと知ったアイクは、本能のままに数歩歩き、明らかな扉を見つけた。何故なら、押すと開いたから。
開いた先に広がったのが、この洋室である。空調は、少し涼しい程度。
先にいた三人は、丸机を囲み、好きな姿勢で椅子に座っていたが、アイクに気付くと、一斉に扉の方に視線を向けた。
特に驚くことではなかったのか、一人の男が静かに立ち上がった。
アイクと変わらない背丈、デニムシャツにコーデュロイのパンツ。年齢は三十歳前後で、皆に目をやってから一番に口を開くあたりは、リーダー然としている。
「君の気になることから始めよう。僕の名前はジョン・インガーソル。教師だ。」
自己紹介の始まりである。
隣りにいた少し腹の出た中年男が続く。似た調子である。
「コービン・キャッシュ。技師だ。」
三人目。若い小柄な男は控えめ。
「ブレンダン・スターです。会社員です。」
コービンは人懐こそうで、ブレンダンは一目でおしゃれ。
「アイク・ガーフィールド。俺も会社員だ。」
スウェットとデニムのアイクは、ブレンダンと視線を合わせて、自らを教えた。アイクは端正な顔立ちなので、第一印象で損をしたことはない。
ジョンは、手慣れた感じで説明を始めた。身振りは大きい。
「基本的なルールとして、僕達は盗撮されている。つまり、今から言うことは彼らに知られる。敢えて口に出すのは、予め言わなければ、決して分かり合えないからだ。」
異常である。
そんな事を急に言われても、言葉はない。アイクが黙って次の言葉を待つと、反応を求めるジョンは、それに応えた。
「少なくとも、僕達はある女性と交際を始めた途端に監禁されている。食事のあとに睡魔を感じると、この部屋の前室だったと思う。」
ジョンは、視線を合わせてきた。事実とは若干違うところもあるが、ジョンが眉を上げると、アイクは頷いた。
ジョンは、他の二人を見回し、顎を上げた。三人でタイミングを合わせたのである。
「コバルト・グリーンの瞳、マルーン・ヘア、色の濃い眉、厚い唇、小さい耳たぶ、酒に弱い。」
声が揃うのは煩わしい。顔を歪めたアイクの前で微笑んだジョンは、やはり異常な説明を続けた。
「女性の名前は、僕たちの知る限りはアンジェリーナ、シャーロット、スカイラー、アリシアだ。きっと、君の知る彼女の名前も違うだろう。」
それは他人と思うのが普通である。
但し、仮に受け入れるとすれば、アイクにとっての彼らの言う女性の名前はエミリー。
この三人との明らかな違いは、アイクはエミリーと交際までは出来なかったことである。
どうであれ、ジョンの説明は終わらない。
「腕に差はあるけど、皆の作品の共通点を見れば、きっと全て分かってもらえる。」
ジョンは、東の納戸に急ぐと、キャンバスを手に戻ってきた。
三枚。似顔絵である。
目鼻立ち、口の大きさと輪郭から、同一人物の可能性が高い。
もう驚かないが、エミリーに似ている。
特に、ジョンの絵は写真並みに上手い。間違えようがない。エミリーである。
彼らの言うことが本当に事実なら、大の男を何人も誘拐する異常な女性と、アイクが同じ時間を共有していたことになる。アイクにとって、それは事件である。
ジョンが音を立てて椅子に座ると、今度は、コービンが座ったまま話し始めた。見知らぬアイクの前だが、完全に寛いでいる。それが中年である。
「今までも、人数が増える度に、一度は脱走しようとしたんだ。見たら分かるけど、あの扉には鍵穴がない。この手の鍵は、J国やⅠ国にあった記憶があるけど、取敢えず僕らは開けられなかった。滅多に来ないけど、時々来る監視は武器を持ってないから、彼を人質にとるのが、脱出への一番の早道だ。」
ジョンが、手を振りながら説明を補足した。
「当然、今、話した以上、しばらく監視は来ないし、来ても武装してる。誰かが忘れる日が来るのを祈るだけだ。」
この時になって、アイクは気付いたが、狂った説明を続ける彼らに危機感は薄い。
ジョンは、かすかに苦悶に歪む、きれいなアイクの顔を見ながら、更に説明を続けた。
「言い忘れてたけど、窓ガラスは割れない。危ないから、変な努力はやめてほしい。一度、前室から外への脱出に成功したこともあるんだ。外には長い廊下が続いていて、扉がたくさんある。窓のある扉もあって、機材が大量にある部屋もある。その中に武器があれば、状況が変わる可能性があるとは思うよ。」
今度は、コービンの番。
「今の話を聞いて武器は処理されるだろうけど、それを前提に次の機会を待つしかない。」
勝手な決断が下された様である。状況が処理できないアイクがコービンをただ見つめていると、黙っていたブレンダンが口を開いた。
「オーディオが使えるから、それなりの娯楽はあります。それこそ絵だって描けます。」
彼の口調には癖がなく、アイクにとっては唯一の救いである。ブレンダンは言葉を続けた。
「食事も豪華です。ここのパン・コン・トマテのバリエーションは豊富ですよ。ジョンが二年はいるみたいですけど、昔、ここを出て行った人もいるんです。どう聞こえるか分かりませんが。」
アイクは、ただ、我が身を襲った不幸を呪った。

Pesante 重々しく———————————————————————

A国C州A市の倉庫街。
海に向かい、川の字に何列も並ぶ倉庫には、シャッターと出入扉以外に開口はない。
常に潮風を受けるせいで、サッシュの縁や階段の手摺りの錆びが目立ち、過ぎた時間が実際よりも長く感じられる。
そんな倉庫街の一角に停車したクロスオーバーSUVを春の陽射しが温め、結果、窓を大きく開けさせた。色はクリスタル・ブラック・パール。
ハンドルを握るのは、連邦捜査官のロレンツォ・デイビーズ。助手席で休むのはバディのニコーラ・バルドゥッチ。
フル・オーダーのスーツに身を包み、知的な面持ちの彼らが並ぶと、道行く人の目を奪ってしまう点は、彼らの一つの課題である。
フル・オーダーの仕立て屋はロレンツォがニコーラに紹介したのだが、ロレンツォのステッチの丁寧に入ったフランネル生地のスーツと違い、ニコーラが好む光沢のあるパンジー・カラーの小さめの生地は、常に皆の批評の的である。
二人がここにいる理由。それは、誘拐された成人男性が数か月前に解放され、この倉庫についてコメントしたから。
男性は市警察の取調べのあと精神病院に入院したので、発言は証拠と見做されなかったが、ロレンツォの耳には入った。それが実力と言うものである。
二人がここに足を運んだのは、一度や二度ではない。手がかりが得られたことはないが、素数の日は、取敢えず来るのが彼ら。ロレンツォの趣味である。その日だけ何が変わるわけでもないが、要は倉庫に踏込む何かのきっかけを求めているのである。

その意味で、今日は彼らにとって幸運な一日になった。変化が訪れたのである。
現れたのは、シルバーの四トン・トラック。ディーゼル・エンジンの軽いカタカタという音が、倉庫の前で鳴り響く。
ロレンツォは、流れる様に、トラックの進路にSUVを回した。慣れたものである。
フロント・ガラス越しに見えるトラックの運転席には、背の高そうなコケージャンの男が座っている。男も三十前後。二人と同年代である。ホワイト・シャツの襟元をはだけて、こちらを見ているが、敢えて言うなら、無表情である。
車から降りたロレンツォとニコーラは、IDを掲げた。
「連邦捜査官のロレンツォ・デイビーズです。彼はニコーラ・バルドゥッチ。」
口調は丁寧だが、エンジン音を超える声量が必要である。
手間を省きたいロレンツォが扉を軽くたたくと、男はパワー・ウインドウを下げた。
「IDを見せてもらえませんか。」
連邦捜査官として、当然の要求である。
男は、助手席に手を伸ばし、ダッシュ・ボードを開けた。そこまでは日常のありふれた光景。
そして、そこからは、連邦捜査官のレアな光景。
男は、スターム・ルガーLC9を取出すと、銃口をロレンツォに向け、ロレンツォは銃身を握って掴み取ると、逆に男に向かって構えた。
小休止である。
扉を開けたニコーラは、男を引き摺り出した。手荒い扱いも許される展開である。
地面に尻をついた男は、手足は長い。
LC9をジャケットにしまい、手錠を出したロレンツォは、男に後ろ手に手錠をかけると立たせた。
男は、二人より頭一つは大きい。
ニコーラが、電話で管理官に応援を要請する間に、ロレンツォは男のボディ・チェックを進めた。膨らんだポケットにあったのはキー・ホルダー。取敢えず、没収である。
ロレンツォは、一通りの流れ作業を終えると、男をSUVの後部座席に押込んだ。数えきれないほど、繰返してきたプロセスであるが、男は抵抗しない方である。
ニコーラの電話が終わると、二人は、目当ての倉庫に足を向けた。
狭い階段を上がり、シグ・ザウエルP220を取り出す。
本番である。
視線で互いの気持ちを計ると、ロレンツォは、空いた手でノブを回した。
鍵はかかっていない。
錆びのせいか、見た目以上に重く感じる扉を開けると、倉庫の中は暗闇。埃とオイルの生暖かい臭いが鼻をつく。
スティック・ライトで照らした室内には、人影は勿論、人が隠れることが出来そうな場所もない。
ロレンツォとニコーラは、ライトを壁面に当てた。小窓のない扉が幾つか。普通なら、この辺りには、事務室や機材置き場がある。
総当たりである。
扉を開く金属音が、幾度となく暗闇に響き渡る。しかし、その一度として、部屋から光が漏れ出すことはなく、二人は、都度、何もない事務用机と椅子、書類ラック、清掃道具や空の冷蔵庫を見つけた。
人が生活していたのは、遠い昔の様である。
やがて、倉庫の奥に行き着き、ブレーカーを見つけると、ロレンツォは迷わず復旧した。
入口まで戻り、スイッチを入れると、倉庫はゆっくりと明るくなっていく。
本当に何もない空間を見渡した二人の視線は、自然と床のある場所に落ち着いた。
コンクリートの床面に、鋼製の錆びた扉が一つ現れたのである。
明らかに下にピットがある。
近くにいたニコーラは、靴で扉を数回蹴った。
「連邦捜査官だ。誰かいるか。」
存在を知られている以上、無駄な争いを避けるために、自分達が誰か伝えるのは必要なことである。
ロレンツォが脇に来ると、ニコーラは、扉の持ち手に指をかけた。ここに何もなければ、この倉庫は外れである。
ツーハンド・ホールドでP220を構えたのはロレンツォ。万全である。
ニコーラは、力を込めて扉を引き上げた。扉はストッパーまで開き切り、反動で二度、三度と弾む。
ニコーラは、重い金属音が響き渡る中、素早く回り込むとピットの中に銃を向けた。
二人の銃口の先。ピットの中には、男が一人いた。
両手を挙げた彼の顔は、ニコーラの方に向いている。
取敢えず、降伏の意志は明白であるが、ニコーラは、小さく声を出した。
二人の目の前の男の顔が、トラックを運転していた男と同じだったのである。
男には手錠をかけたし、この男とはシャツの色が違う。
つまり、そういう事である。
ロレンツォとニコーラは、気の毒な双子の生立ちを憐れみ、顔を見合わせた。
「出ろ。」
ニコーラが銃口でピットから出る様に促すと、男は従った。従順である。
「両手を頭の後ろに回せ。跪け。腹ばいになれ。手を下げて、後ろに回せ。」
ニコーラは、決まり文句を口にしながら、ロレンツォに手錠を渡した。銃を持っているわけではないが、危険人物の仲間であることは確かである。
妙な既視感にとらわれたロレンツォは、微笑みながら男の左手に手錠をかけた。右手に回すのに、いつもなら、そう時間はかからない。
しかし、小さな変化が起きたその日は、いつもとは展開が違った。
屋外で銃声が響いたのである。
車の警告音が鳴ったのは、その直後。車が銃で撃たれたと考えるのが常識。
ロレンツォは、男を引き摺ると、残る手錠を扉の持ち手にかけた。ニコーラはもう駆け出している。
ニコーラが出入扉を出た途端、目の前を過ったのはキーを奪った筈のトラック。
SUVの後部座席の窓ガラスは割れ、男はいない。
ロレンツォが追いつくと、二人は警告音が鳴るSUVに乗込んだ。ハンドルを握るのはロレンツォ。勿論、トラックを追うのである。
速度を上げると分かるが、この道のアスファルト舗装は凹凸が大きい。
揺れるトラックは、通りを高速で走ると、突き当たりで左に曲がった。倉庫は、川の字状に何列も並んでいるので、パターンはある程度限られる。
ロレンツォは、助手席で管理官に連絡を入れるニコーラを振りながら、ハンドルを大きく左にきった。ドリフト気味のSUVのフロントに、隣りの通りに入ったトラックが映る。
ロレンツォは、アクセルを踏み込んだ。直進で負ける様な車は選んでいない。
間もなく、二台の距離が詰まると、次の突き当たりが近付いた。
ゴムの擦れる音と共に、後輪を滑らせて左折。
二度目のロレンツォは、狙ってドリフトすると、隣りの通りに綺麗にフロントを向けた。
トラックの姿がなかったのは、相手は馬鹿ではないということ。
「バック!バック!バック!バック!」
警告音と張り合う様にニコーラが叫ぶ通りに、ロレンツォはバックし、元の道に戻った。トラックは、更に隣りの通路を走っている。差は大きく、何よりもその先に門が見える。
焦る二人の遥か遠く、トラックは、そのまま公道に出た。
ロレンツォは、アクセルを強く踏み込んだ。限界を引き出すのである。
倉庫街と公道の違い。それは、制限速度の有無、信号の有無。そして、一般車両の有無である。基本的に、公道の方が流れは遅くなるということ。
予想通り、トラックは、ロレンツォ達の視界から消えることは出来なかった。
なかなか近づけもしないが、既に壊れたSUVを走らせるロレンツォには思い切りがある。
警告音を鳴らし、ガード・レールを擦りながら進むSUVは、公道でも確実に速い。
進路を頻繁に変えるトラックと狂ったSUVは、通りの空気を一変させた。
不幸な被害者が、出るべくして出たのは、まもなくのこと。
前を走っていたバイクが、二台を避けるためにバランスを崩したのである。
バイクは、大きく蛇行すると、火花を散らして、転倒した。放り出された運転手が路面を滑っていく。
「〇〇〇〇。」
呟いたロレンツォは、バック・ミラーでバイクを見送ると、トラックとの間に残る車を見た。この状況で、普通に走り続けられる理由が謎である。
「ヘイ。」
嫌な予感に襲われたニコーラが声をかけると、ロレンツォは小さく笑った。やる気である。
クラクションを鳴らしながら、前の車を煽ると、次々に車が斜めに逸れていく。道は切り開くものである。
ロレンツォは、倉庫街と同じ様にアクセルを踏み込んだ。トラックまでの距離は近い。
逃げられないと分かったのか、トラックが逆に減速して、距離を詰めると、ロレンツォは覚悟を決めた。先の事は知らない。
ロレンツォは、狙いを定めると、トラックのリアに横からSUVを当てた。後は、物理の法則のままである。
荷台が軽く揺れ、八の字状の揺らぎが一瞬で大きくなると、トラックは横転した。
ロレンツォの予想と違い、トラックは、摩擦で派手に火花を上げながら車道を滑った。
「△△△△。」
「××××の息子。」
二人は悪態をついたが、とにかくカー・チェイスは終わりである。
警告音が鳴り響く中、ロレンツォとニコーラは、車を降り、地に足をつけた。
トラックから撒かれた荷物が道路を占領している。一瞥する限り、荷物は実験機器である。
元来た道を大きく戻ったニコーラは、発煙筒を焚いた。
何度、深呼吸しても、手が震えるロレンツォは、周囲を見渡した。
ニコーラの通報によるものかは分からないが、救急車両と警察車両のサイレンが、SUVの警告音に混じり始めている。
ロレンツォとニコーラは、シグ・ザウエルP220を構えて、横転した車を目指した。
邪魔の入らないうちに、やるべきことをやらなくてはならない。
二人が覗き込んだ先には、やはり男が二人いた。
助手席の一人は、シート・ベルトをしていなかったのか、明らかにおかしな角度で倒れている。顔は見えないが、手錠をしているので、さっきの男である。
運転席の男は、手錠の男と同じホワイト・シャツ。顔面から血を流し、細目で二人を見つめている。
男の顔を見たロレンツォとニコーラは、男に釣られて、目を細めた。
その日、手錠をかけた二人と、同じ顔をしていたのである。
ロレンツォは、念のため、手錠の男の頭の角度を変え、顔を確認した。何度見ても、同じ。
同じ顔の男が三人である。

Alla Marcia 行進曲風に————————————————————

連邦捜査局地方支部局。
吹抜けの大空間で行われる同局の会議は、通常、開放的な雰囲気で進む。
しかし、今回の会議は違った。
正規の出席者は、管理官とロレンツォ、ニコーラを含む捜査官十名程度だが、野次馬の多さがその雰囲気を変えたのである。
ダーク・スーツがブラックの肌に映える管理官からの伝達事項は以下の通りである。
・逮捕された三人は、一言も供述をしていない。
・逮捕された三人のDNAは完全に一致した。
・トラックの積み荷は医療機器であり、納品書や製造番号がなかった。
・医療機器は、クローン技術の論文で紹介されたものを多数含んでいた。
・倉庫の持ち主は、大手IT企業ヒュドールの系列会社だった。
・ヒュドールの社長であるアレクサンダー・ホワイトは、この一年以上、公衆の面前に姿を現していない。
・ヒュドールの系列には、アンチ・エイジングを扱うメディカル・リサーチ社がある。
・医療倫理に反した実験が行われたことが誘拐事件と関係する可能性が高い。

管理官は、ヒュドールの関連施設を監視下に置くことを宣言すると、対象施設の担当を割当てた。
解散と共に皆が喋り出したのは、黙っていられなかったから。
「クローン人間がいる前提の捜査らしい。」
「どうやってつくった?」
「ウィキを調べろ。」
「ヒツジやブタは体細胞の核移植だ。」
「つくりたい放題だ。」
「母親は必要だ。」
「失敗もあるだろう。」
「ブタは、数百匹はつくったらしい。」
「C国じゃあ、サルのクローンがいる。」
「金があったら、やるかもな。」
幾つもの声が重なると、ざわめきが生まれる。
はっきりと聞き取れたのは、クローンという言葉を発する幾つもの声。それが、共通のキーワード。
イベントの始まりである。
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