第92話 海岸

文字数 2,231文字

アイクは深い森の奥にいた。
餌を片手に子犬を連れ歩いた彼は、愛する我が家に辿り着いたのである。
気になるのは、パラシュートはあるが、リュックがないこと。
不安にかられたアイクは、周囲に目をやった。
何かがいる。
動きがあったのは、アイクが石のナイフを手にした二秒後。
獣が飛び出してきたのである。
アイクの知る限り、それは狼。五匹である。
狼は、アイクの足に噛みつくと頭を大きく振った。最初は痛みだけ。
二匹目が噛みつくと、アイクは倒れた。バランスを崩したのである。
狼は容赦なく噛みつく。歯が深く食い込むのを感じる。
アイクの中で、躊躇する気持ちはなくなった。
アイクは、とにかくナイフを突き立てた。動かせる限り、ナイフを振る。
突いて、突いて、突きまくる。
悲鳴をあげた狼が一匹ずつアイクから遠のくと、程なくして、アイクは自由を手に入れた。
アイクが立上ると、狼達は彼との間合いを計った。襲ってもこないが、逃げもしない。
理由は簡単かもしれない。
アイクの傍に、動けない一匹が横たわっているのである。
狼の言葉を知らないアイクは、静かにとどめを刺した。勿論、狼達に見える様にである。
狼が小さなうめき声を上げ、アイクがナイフを持つ手を大きく振回すと、狼達は、何度か振返りながら逃げていった。
何かが通じたのである。

体が痛むアイクは、しかし、周囲を見回した。
彼の相棒の子犬がいないからである。暫く、探したアイクは、やがて一つの結論に辿り着いた。
きっと、あれは狼の子供で、親と一緒に帰って行った。それが一番幸せな答えである。
リュックを見つけたアイクは、散らばった食べ物を集めながら、物思いにふけった。
狼が人を襲う話はあまり聞かない。
今、自分がいる地が無人島だとして、人の味を覚えない限り、彼らが人を襲うことは考えられない。彼らは、自分の子供を探し、人間に会ってしまったのではないか。
子供を取り戻すため、命懸けの戦いに出たのではないか。
すべては、勝手に子供を連れ去ったアイクのせいである。
アイクは、自分の思い付きのせいで死んだかもしれない狼の死体を見つめた。この狼の死を、無駄にしてはいけない。
アイクは、火をおこすと干し肉をつくった。活動範囲が格段に広がった彼に、一番必要なもの。保存食である。

傷が癒えるのを待ったアイクは、懲りることなく、冒険に出かけた。
アイクは、行かなければならないのである。
枝を折りながら進んだせいで、岩壁まで迷うことはない。
アイクは、どこまでもどこまでも、壁沿いに進んだ。

二日後。
アイクは、小さな変化に気付いた。水の音である。
しかし、この間とは違う。波が打寄せる音である。
アイクは、静かに足を進めた。それが海なら、先はない。ある意味、おしまいである。
アイクは、旅の終わりを確認するためにただ歩き、間もなく木々の間から、想像通りの海を見た。
まばらになった木々を抜けると、そこは一面のマリン・ブルー。
海面は、地球の丸さを感じさせるほど。島の一つも見えない。
アイクは、砂浜に沈む足の落ち着く場所を探した。
磯の香りは、これまでの森の香りに完全に勝っている。
アイクは、これまで頼りにしてきた岩壁に目をやった。
切り立つ岩壁が、海に大きくせり出している。越えるのは、実質不可能。
アイクは、南に目をやった。今まで森しか見えなかった方角である。
足元の砂浜はどこまでも続き、はるか彼方で途切れている。森の後ろに回り込んでいる可能性が高い。
海に囲まれた森。何かがあるとすれば、北に聳える岩壁の向こうだけ。
それが全て。本当に、おしまいである。
絶望的であるが、雄大な海は、しかし、アイクの冒険の終わりに、小さな達成感を与えた。

アイクは、服を脱ぐと砂浜を走った。目指すのは海。
波に逆らいながら、浅瀬を走ったアイクは、水の世界に潜った。
耳の感じる音が変わり、肌が液体で包まれる。髪が揺られるのを感じる。
川の水をすくって身を清めることはあったが、水量が圧倒的に違う。
何かが腹を叩くと、アイクは海中にもぐり、目を開いた。
魚である。所狭しと泳ぐ彼らは大きさも十分。確かな穴場である。
新しい食材。肉に豆に魚。アイクはまだまだ、やれる。
“自分なら、この島で生きていける。”
一瞬、心の踊ったアイクは、しかし、目の光を消すと、砂浜に上がった。
乱暴に座ったのは、彼の今の気持ちの通り。
目に入った海水を拭うと、綺麗な顔が砂だらけになる。
好きなだけ俯いたアイクは、海に歩くと、顔を洗った。
同じ過ちを犯す気のないアイクは、日光で体を乾かした。頭を使えば、何と言うことはないのである。
機械の様に砂浜を歩いたアイクは、服を手に取り、すぐに叩きつけた。
海水でリセットされた彼の嗅覚が、受け付けなかったのである。
しかし、裸でいる選択肢もない。仕方なく、デニムに足を通そうしたアイクは、砂だらけの自分の足を見ると、天を仰いだ。
デニムを汚すことよりは、汚しても構わないのが嫌になったのである。
ただ海を眺めたアイクは、やがて、魚が飛び上がるのを見ると微笑んだ。
あの広大な海の中だけで我慢せず、外の世界に飛び出した魚に、自分を重ねたのである。
とにかく服を着たアイクは、振り返ると森に走った。
探すのは、ゴールデン・ロッドの枝。
アイクは思ったのである。
ここにいれば、自分が焼け死ぬことはない。魚はほぼ無尽蔵なので、食べ物の不安もない。
豆なら、リュックにある物をまた植えればいい。
そもそも、最低限の食糧は手に入る。
今度こそ、森を焼き払ってしまうのである。
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