第39話 暴力

文字数 5,021文字

A国N州H郡。エマは、基地で買った新しいミリタリー・リュックを背負い、傷んだスーツ・ケースを手に鉄道を降りた。駅の構内は早足で抜ける。気持ちがはやるのである。
M駅の前は大きく開けている。それは分かっている事。
インターロッキング・ブロックを敷き詰めた広場は、大学生が行き交うので有名。
ただ、その周囲はと言えば、幽霊ビルがちらほら。
郡が推進してきたA事業の十年前のとん挫が、今も尾を引いているのである。
この十年、大学時代をこの街で送った若者は、この街を去るだけ。ある種の化学兵器である。

周囲を見渡したエマは、もうヨシュアを見つけた。
シャツの一番上のボタンのはだけ方が派手で、何なら間抜け。
小さい会社を経営しているから、逆に質が悪い。
庇うとすれば、彼は、久しぶりのエマのために、格好をつけている。そのつもり。
エマは、ヨシュアが愛おしくなり、満面の笑みを浮かべた。
視線を散らしていたヨシュアの顔の動きが止まったのは、それから間もなく。
通り過ぎていく学生達の中で、ヨシュアは、時間が止まった様に一点を見つめ、微笑んだ。
ヨシュアも、エマを見つけたのである。
エマは笑顔で駆け寄り、ヨシュアは笑顔で待った。恋に落ちる二人の再会である。

そして、賽は投げられた。
最初は、人の波が乱れた。
笑顔の止まらない娘達の顔色を変えたのは、目だし帽の二人組。
ぶつかれば、押しのける。
人の流れを完全に無視して、ただ真っ直ぐに歩き続ける二人。
小さな声が上がると、舞い上がっているエマも気を取られた。
戦地にいた彼女は、空気の変化には敏感かもしれない。
エマがそれでもヨシュアから目を逸らさなかったのは、二人がヨシュアの後ろに迫っていたから。
エマの心が小さな不安に襲われた時、笑顔のヨシュアは、不意に前に倒れた。
男の一人が、背中を蹴ったのである。
「ヘイ、ヘイ、ヘイ、ヘイ。」
エマは、スーツ・ケースを置くと走り出した。
ありえない事が起き始めている。
エマが何を見ようが、人の流れは急には変わらない。
エマは、流されながらも、ヨシュアを見つめた。
両手を地に着いた彼の背後に、二人の男の全身が見える。
火器の確認は基本。
エマは、二人の手元を見た。
持っているのは大ナタ。
ナタである。
「〇△×☆!!」
エマが声を振り絞ると、ヨシュアは、垂れていた頭を上げた。痛みに顔が歪んでいる。
周囲には、男の子もいるのに助けてくれない。何故なら、ナタには近寄れないから。
銃は点だが、ナタは線。切り取られるイメージは、スペースをつくる。

その瞬間、エマとヨシュアの視線は合ったかもしれないし、合っていないかもしれない。

男は、背をしならせて、ナタを振り上げると、大きく振り切った。
鈍い音と共に、ヨシュアの頭が地面に叩きつけられる。
首の角度が急なのは、ナタの食い込みが深いから。
男がヨシュアの肩を踏み、ナタを引き抜くと、もう一人の男がナタを振り上げた。
今度の男の溜めは少ない。
煌めく鋼は、ヨシュアの首に振り下ろされ、続けざまに地面を砕いた。

栓を抜かれたヨシュアの動脈は、熱い血潮を周囲に散らした。
それは必然。
叫び声を上げたのは一人だけではない。目にした者はすべて。男も女も。
血を浴びて逃げる者の姿が、さらに絶叫を呼ぶ。
ヨシュアの躯を中心に、パニックが連鎖していくのである。
二人の男は、確かめる様に周囲を見ると、静かに走り出した。

エマは、すべてを見ていた。
恐怖に足が止まったのである。
涙が噴き出したのは想定の範囲内。鼻が熱くなってくる。血の臭いも分かり過ぎる。
男の動きを目だけで追っていたエマは、不意にリュックを捨てた。
多分、本能である。

カオスを縫う様に走ったエマが辿り着いた先は道路。車道は十分に広く、車は少ない。
ピックアップ・トラックに乗込む男達を見つけるまで二秒。
エマは、逃げ惑う群衆に背を押される様に走り出した。目立たないので好都合である。
車が走り出したのは、エマがドアの近くに迫った時。運転席側である。
まだ、エマの足の方が早いぐらい。オート・ロックはかからない筈。
エマは、ドアに手をかけると、大きく開いた。
「〇〇〇〇!」
聞こえた男の声はだみ声。好きになれない声。
ドアにしがみ付くエマと、左手で彼女の顔を押す男。エマは面倒が嫌い。
駆け足のエマが男の脇を蹴ると、車の速度は急に上がった。
痛みでアクセルを踏んだのである。
エマが有利だとすると、男が運転に気をとられるから。
何度目かの蹴りがいい角度で決まると、男のガードが緩んだ。
しかし、相手は二人。すかさず、助手席の男がハンドルを握った。
代って、運転席の男の両手は自由。
流れを知ったエマは、ハンドルに手をかけた。両足がフリーのエマが体重をかける方が、助手席の男よりは有利。それは物理。
運転席の男は、エマの顔面より、ハンドルを選んだ。しかし、正解はブレーキ。
エマは、サイド・ステップに足をかけ、大きく踏ん張った。
ハンドルは左へ。物理なのだから、絶対。
対向車線を大きく横切ったトラックは、路肩を一瞬走ると、カナリヤ・カラーの壁に突っ込んだ。
重なる様な金属音。壊れたものは、一つだけではない。

トラックのフロントを潰したのは、コイン・ランドリーの壁。コンクリートは無敵である。
野次馬が集まり始めたのは、駅前の事件を知らないから。平和である。
最初に動いたのはエマ。
壁にぶつかる前に飛び降りた彼女は、殆ど無傷だったのである。
エマは、迷わず運転席の男を引きずり出した。一人確保である。
男の目だし帽を脱がせると、現れた顔は痛みに歪んでいた。
見たこともないのが悔しい。
大きなため息をついたエマは、その時、目の端で動く影に気付いた。
助手席の男が、逃げ出したのである。
追わなければいけない。
少しだけ考えたエマは、足元の男の足をとると、一本ずつ適当な方向に折った。
誰一人として、逃がす訳にはいかないのである。

エマは走った。
怪我をしている筈の男もよく走っているが、よく見ると小柄。
エマとの距離が開くことはない。
但し、距離が縮むことがないのも事実。
エマは、自分の体力を信じて、ペースを守った。
途中、すれ違ったパトカーが向かう先は、おそらくはヨシュアの元である。
犯人がここにいるのは強烈なジレンマ。
パトカーを呼び止めても、事情を説明している間に男は逃げてしまう。
エマは、顔を横に振り、頭を過る甘い期待を消し去った。

間もなく、男は細い路地に入った。
迷わず追うのがエマ。
倒れていたのは、ホームレスか何か。気の毒な彼の荷物は散乱している。
エマの足は確かに乱れたが、眼だけは男を追い続ける。気持ちである。
やがて、男は雑居ビルに入った。
この辺りは、空きビル。
一度入ると袋小路と同じ。階段を登るだけである。
それは、いつかのヨシュアから聞いた話。

男を追ったエマがエントランスに足を踏み入れると、もう吹抜けに靴の音が響いていた。
階段を登っているのである。
エマは、全力で階段を駆け上がった。
体力の真の限界を知っている人間は、体力を使い切る方法も知っている。
ゴールがこのビルの頂上とすれば、エマの感覚では、彼女にはまだ力が残っている。いけるのである。

階段の折返しは密。
階段を駆け上がる二つの足音が、けたたましく鳴り響くが、エマのリズムが少し早い。
そう感じながら、踊り場に差掛った時だった。
エマは光るものを感じ、とっさに身を避けた。
ボウイ・ナイフである。握るのは男の右腕。
エマが男の手をとると、男はエマの顔面に頭突きを叩き込んだ。秒の争い。
バランスを崩した二人は、もつれあう様に階段を転がり落ちた。

命の危機にいる二人が立ち上がるのは早い。
男の手首の向きは理解不能。
その手に握っていた筈のナイフはエマの手元。
武器がないことを知る男は、間髪入れずに階段を駆け上がった。
何故なら、エマの方が下にいたから。距離をとるのである。
エマは、ナイフを手にしたまま、後を追った。

辿り着いたのは最上階。
屋上に出る扉が開いているからにはそういう事。男は、屋上で待っている筈である。
ナイフを構えたエマは、扉を大きく開いた。
いきなり、外に出る様な無茶はしない。
警戒するエマは、静かに扉をくぐり、間もなく、柵に足をかける男を見つけた。
正しくは、隣りのビルの柵。
飛び移ったのである。
男は、柵を越えると、エマの方を振返った。
エマも駆け寄ったが、飛び移っても、叩き落とされるのは目に見えている。
エマとの間合いを計った男は、すぐに走り出した。必死である。
敗色濃厚の彼女の脳裏に過ったのは、右手に握るボウイ・ナイフ。
ダガー・ナイフより大きいが、軽く振る限り、無理はない。
当たる確証は全くないが、一つの選択肢である。
エマは、遠ざかる男の背に狙いを定めると、肩の力を抜き、肘をしならせた。
耳の横で、風を切る音が聞こえる。
エマが放ったボウイ・ナイフは、空を切り裂くと、冗談の様に男の背中に刺さった。
やれば、出来るものである。

一度足を止めた男は背中に手をやったが、すぐにそのまま走り出した。
距離は開いていく。
そんなものかもしれない。
覚悟を決めたエマは、柵から離れると助走をつけた。
追いかける。それしかないのである。
視界に変化が起きたのは、三秒後。
走っていた男が、足から崩れ落ちたのである。
仕留めたかもしれない。
一度走るのをやめたエマは、息を整えながら、元来た道を数歩引き返した。

注意して、隣りのビルに飛び移ったエマは、静かに男に近付いた。
目だし帽の下から現れたのは、アジア系の男。首を触った限りでは、脈はない。
ボウイ・ナイフのせいかもしれないが、階段から落ちた時にどうにかなっていたのかもしれない。
エマは、大きな深呼吸をした。
死者が出るのは、軍人の彼女でもダメージが大きい。
ただ、それだけではない。仕切り直し。
運転席にいた男が残っているのである。
両足を折ったので、まだ、あの場にいる筈。あの後、死んだとも考えられない。
情報を聞き出せるとすれば、あの男だけ。
エマは、コイン・ランドリーに向かって走り出した。

しばらく走って目に入ったカナリヤ・カラーの壁の前に、警察の姿はまだなかった。
さすがにヨシュアが先。間違っていない。
トラックの運転席に駆寄ったエマは、男がいないことを知った。
周囲もそう。
足が不自由な男の姿は、どこにもない。
エマは、周囲の人の顔を見渡した。話を聞きたいのだが、誰も目を合せない。
男の足を折った光景が目に新しいのである。
その場で一周回り、腰に手を当てたエマは、大きい声を出してみた。どこかに眠る善意に頼ったのである。
「教えて。ここにいた男を知らない?人殺しなの。」
声がしたのは、エマの背後。
「さっき歩いて行ったよ。」
そんな筈がない。
振返ったエマは、自分と同じ様に声の主を探す後頭部の群れを見た。
よくは分からないが、仲間がいたと考えるのが正しい。
エマは、頭の中で優先順位を整理した。
二度と話すことの出来ない、可哀そうなヨシュア。
彼の死と向き合う番である。

走る気にはなれない。
疲れた足をゆっくりと進めるエマの脳裏に、淡い期待が浮かんでは消える。
浮かんだビジョンの主旨は、大体、同じ。
ひょっとしたら、夢かもしれない。戦地ならまだしも、A国の街中でこれはない。
その都度、確かな事実が、必ず、すべてを打ち消す。
幻覚を見て、人を追いかけ、足を折り、挙句、死に至らしめることは、到底ありえない。

間もなく、エマは事件現場に着いた。
目隠しの幕が張られている。
ヨシュアの死体は、その先である。
その場に留まり、泣いている人に慰める人。
救急車がいるので、体調を崩している人もいる。
ショックを受けたのは、エマ一人ではない。
元気な若者達を含めて、余りに多くの人々の心を壊したのである。

ヨシュアの死は事実。永遠の孤独に吸い込まれた彼には、もう近寄ることすら出来ない。
エマは、どうすればいいのか。
彼女の頭に浮かんだのは休暇の予定。
恋人のヨシュアに会い、ヨシュアと話し、ヨシュアと笑い、ヨシュアと遊ぶこと。
すべてはヨシュア一色。
事件の前の自分を取り戻し始めたエマは、荷物のことを思い出した。
少しの服も土産物も、全部、入っている。
周囲を見回したエマは、彼女の記憶通りの場所にあるスーツ・ケースを見つけた。
倒れてもいない。
泥棒もいない平和な街で、首を切られるなんて。
スーツ・ケースに手をかけたエマは、不意にしゃがみ込むと、両手で顔を抑えた。
頬を伝った大粒の涙が、止まらなくなる様な気がしたのである。
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