第14話 退廃

文字数 4,965文字

今度は、アーサーが、ビクトリアとの出会いについて話し始めた。

経営コンサルタントであるアーサーは、その日、顧客であるホテル経営者との打合せで、そのホテルへと出向いた。街一番の高級ホテルである。
吹抜けのロビーに聳え立つクリスタル・シャンデリアに迎えられた後、フロントで秘書に連絡。社長室で、ヘネシー・エリプスを飲みながら、小一時間の打合せ。仕上げはホテルで一泊。いつものコースである。
当時のアーサーは、グレー・ゾーンにも手を染めるぐらい。馬鹿が確実に社会の一員と納得した頃である。頭と心は一つではないらしく、当たり前に心の病を抱えたアーサーは、友人の病院でもらった痛み止めに救いを求めていた。アセトアミノフェンやセロトニンは遥か昔。お気に入りは即効のオキノーム。
部屋に入ってする事は決まっている。
ジャケットを脱いで、ネクタイを解き、ベッドにダイブ。
重いカーテンを開けたことは一度もなく、あとはミニ・バーを使うか、薬を飲むか。
敢えて、ここに泊まる理由は、高級ホテルを無駄に使う自己満足と完璧な静けさである。
しばらく天井を見つめたアーサーは、起き上がると、ジャケットからオキノームを取出した。
選んだのは薬である。
錠剤を吞み込んだアーサーは、目の前の鏡を見つめた。それもいつものこと。
彼の中には、薬を嫌悪する自分が確かにいる。誘惑に負けると、彼は鏡に向合い、薬物を飲んだ弱い自分を他人として見つめるのである。
やがて、自分を見飽きたアーサーは、遅めの夕食のためにレストランに向かった。
この店のブラック・ワインは嫌いではない。サプライズのイベントは煩わしいが、間違いなく洒落た店である。

その日は、アーサーのメインのプレートが下げられた時点で、ライトの色が変わった。
生演奏も始まったので、誰かのためのショーが始まった可能性が高い。
スモークが床を這い始めると、ゴンドラの登場。
フレームに寄りかかっていたのは、プルシャン・ブルーのロング・ドレスの女性。
歌っていたのは、アーサーの好きな曲。人にも好きと公言していた歌である。
最初から、自分を見ている様な気がしてはいたが、無事地上に降りた彼女は、アーサーのテーブルに向かってまっすぐ歩いてきた。嫌な予感が現実になっていく。
まもなく、アーサーのテーブルに辿り着いた彼女は、テーブルに腰を当て、声高らかに歌い続けた。
ショーは壊せない。
両手で自分を指したアーサーは、立ち上がって、笑顔に包まれる店内を見回した。
軽く手を振ってみる。他にやるべきことが分からない。
永遠に続く歌はない。最後に、女性に顔を近付けられ、仰け反ったアーサーは、伴奏も終わると、両手を高く挙げ、次いで女性に向けて、大きな拍手をした。
店中に拍手が連鎖していく。心が一つになる夜。アーサーは生贄だが、悪くない。
微笑む女性がテーブルから姿を消すと、アーサーはウェイターを呼んだ。
「さっきのは?」
ブラックのウェイターは、周囲を注意深く見た。
「ビクトリアです。呼びますか。」
ウェイターは、アーサーが社長のパートナーと知っている。
「いや、いい。それより、今日のは誰に頼まれた?」
ウェイターが首を傾げると、アーサーは質問を重ねた。
「社長?」
「それは違います。匿名の方です。間違いないVIPです。きっと、御一人のミスター・アンダーソンに素敵な夜を届けたかったんだと思いますが。お気に召しませんでしたか。」
妙な気を回されたアーサーは、小さく笑った。我ながら、偉くなったものである。
「いや。」
「それでは何か。」
ウェイターはそれなりに忙しいのである。
「特にない様でしたら、私はこれで。楽しんでください。」
無言の時間に終わりをつげ、ウェイターが視線を逸らすと、アーサーは言葉で追いかけた。
「いや、待ってくれ。」
「何か。」
きっと、衝動的に声を出してしまったアーサーは、しかし、自分の気の迷いを尊重することにした。多分、そんなところである。
「呼んでくれ。ビクトリアをここに。お礼がしたい。」

社長のパートナーの願いが叶うのに、何の不思議もない。
五分もしないうちに、ついさっき間近に見たビクトリアが現れ、アーサーの向かいに座った。大きな花が置かれた様である。
「初めまして、ビクトリアよ。」
「よろしく、ヴィッキー。アーサーだ。」
続けて、ブラックのウェイターが酒をテーブルに置くと、ビクトリアは流れる様にグラスを手に取り、口に運んだ。
彼女は金を飲む生き物である。
「化粧が落ちないうちに帰るわ。」
本人はすぐ帰ると言っているつもりかもしれないが、ショー用の化粧は濃い。
笑ったアーサーが気になるのは今日のイベント。別に下心はない。本当である。
「今日のショーはありがとう。」
ビクトリアは、グラスを空にするとウェイターを呼んだ。異常な急ピッチ。同じものを頼む当たり、彼女は仕事として飲んでいる。
アーサーは、戻ってきたビクトリアの笑顔に話しかけた。
「ショーのことを教えてくれないかな。本当に楽しかったけど、誰のプレゼントか分からなくて、正直、困ってる。ウェイターは、僕が一人のせいだと言うし。」
瞳を大きく動かしたビクトリアは、小さく揺れながら笑うと言葉を続けた。
「ショーの演出は、ZENt76よ。」
「誰だ、それ。」
「有名なのよ。舞台演出家。知らない?」
「嘘だ。知ってる。中学のクラス・メートだ。」
アーサーは、ZENt76を知らない。年齢が明らかに違うのは、その場ではビクトリアしか知らないこと。
鼻で笑ったビクトリアは、酒を頼みながら、回りくどい説明を続けたが、アーサーにとって、意味のある事実は、一つとしてなかった。
すべてが無駄な時間だが、この世は無駄で出来ている。
目的を忘れたアーサーは、サプライズに身を任せて、夜を楽しむことにした。
軽快に酒を飲み進めるビクトリアが、面白くなったのかもしれない。
アーサーは、笑顔のビクトリアに微笑むと、腕を大きく伸ばし、互いのグラスを交換した。
小さな余興である。
ビクトリアは、アーサーの目を覗き込んだが、今までと同じ様に、酒を喉に流し込んだ。
笑顔でグラスに口をつけたアーサーの結論。
ビクトリアの酒には、アルコールが入っていない。用心されたものである。
ビクトリアは、アーサーを見つめて微笑むと、もう一杯酒を頼んだ。おそらくは、それが謝罪である。
今までと同じ様に二杯目のグラスを開けたビクトリアは、アーサーに微笑んだ。
濃い化粧で覆われた顔が何色かは分からないが、首はピンクを帯びている。
ビクトリアは異常に酒に弱い。
笑いが止まらないアーサーがウェイターを探すと、彼はカウンターにいた。視線はアーサーを捉えている。トラブルの予感である。
アーサーが手を挙げると、ウェイターは笑顔で近付いてきた。潮時である。
しかし、ウェイターを迎えたテーブルで口を開いたのはビクトリアだった。
「二人とも同じのを。」
意表を突かれたアーサーは、ビクトリアと少しだけ見つめ合ったが、やがてウェイターに微笑んだ。
「そう。同じの。」

ウェイターの背中を見送ってから、アーサーは静かに口を開いた。
「飲めないんじゃないのか。」
薄暗い灯りに照らされたビクトリアは、小さく微笑んだ。
「飲むだけなら、何でも飲めるわ。」
間違ってはいないので、アーサーは微笑みを返した。
ビクトリアがアーサーをどう思ったかは知らない。
彼女が何かの理由で酒を断っていたと考えるのが普通。きっと、一杯飲んでしまえば、あとは同じ。飲めるなら、飲みたいのである。
二人の時間は、ゆっくりと過ぎていった。

一時間後のビクトリアは、完全に酔っていた。
酔わせる方も悪いが、ビクトリアは、アーサーが自由にできるタイプではない。
ウェイターの視線が気になるアーサーがカウンターを眺めた時、ビクトリアが口を開いた。
「相談に乗ってくれない?」
アーサーの視線が戻ってくると、ビクトリアは言葉を続けた。
「社長のコンサルでしょ。力があるんじゃないの?」
首を傾げたアーサーは、ただ笑顔を返した。
「力って何か分からないけど。話は聞けるよ。耳はあるし。友達もいるから。気になれば、話すし。そのぐらいかな。」
それが全てと知るビクトリアは、目を閉じて微笑んだ。まるで、願い事が叶った様。申し訳ないぐらいである。
十分後。
アーサーは、軽率な自分を後悔した。
耳があっても、聞けない話はある。頭痛と吐き気は、物理的に心を閉じる。
貴重な経験である。
ビクトリアは、子供を見る様な目でアーサーを見つめ、優しく微笑んだ。
「怖い?」
アーサーは胸を張ってみた。
「別に。人それぞれさ。」

アーサーが酔い始めたのは、その後。
いつ喋ったのか分からないが、二人は、互いが孤児だった話題で盛り上がっていた。
かなり、迂闊な状態である。
「親からも捨てられるぐらいだもの。生きてるのが間違いなの。」
寝ぼけたセリフに、揺れるアーサーはビクトリアを指差し、何かを言おうとしたが止めた。
きっと、大したことではない。
ビクトリアがその場を去らない理由は知らないが、二人は酒を飲み続け、気付いた時には、アーサーは、テーブルの上に薬を並べていた。
お気に入りはオキノームだが、オピオイド系は網羅している。
アーサーが一つ一つ説明していくと、目を輝かせていたビクトリアは、不意にまじめな顔を見せ、テーブルの上を両手でさらった。
薬は、すべてビクトリアの腕の中である。アーサーが笑って、彼女を見つめたのは、酔っているから。
ビクトリアは、数杯前から続けて頼んでいたジンに、一錠ずつ、錠剤を入れていった。
あまりに高額だが、刺激的な光景にアーサーが笑うと、ビクトリアも微笑んだ。
やがて、全ての薬がグラスに沈むと、ビクトリアはグラスの口に手をあて、シェイクを始めた。ジンは周囲に飛び散ったが、一つ言えることとして、もうこの薬は飲めない。
言わんとすることが分かったアーサーは、真剣な瞳を取り戻した。
「ありがとう。これでしばらく止められる。」
心の底から、そう思ったのである。
笑顔で応えたビクトリアは、手の汚れを気にすることもなく、ジンを少し上にかかげ、アーサーを見た。乾杯のジェスチャーである。
微笑んだアーサーは、しかし、その不条理に気付いた。それは飲むためのジェスチャーで、それは飲めたものではない。
ビクトリアは、笑顔でグラスを傾け、勢いよく薬だらけのジンを口に流し込んだ。
当然、口からこぼれるが、すべてではない。
オキシコドンとアルコールは相性が悪い。薬だけでも、こんなに大量に飲んだことはない。多分、致死量。
アーサーは勢いよく立上り、椅子を倒した。
「駄目だ!」
大声に仰け反ったビクトリアは、片手で口を押えた後、胸に手をやり、椅子から崩れ落ちた。
床に横たわった彼女は、魚の様に痙攣している。
戸惑うアーサーの前に現れたのはウェイター。彼は、社長のパートナーの無茶な遊びの一部始終を見ていたのである。

一時間後。アーサーは、病室のビクトリアの元に通された。
二千ドルの救急車は迅速で、胃洗浄は夜の病院のルーティン。あっという間だったのである。ウェイターは、気を利かせたのか、病室の外。忠実である。
ベッドの上で上体だけを起こすビクトリアの化粧は、完全に落ちていた。
まだ酒の残るアーサーは、ビクトリアを見つめた。
「人の生死の場に立会ったのは、久しぶりだ。」
ビクトリアが静かに微笑むと、アーサーは言葉を続けた。
「少なくとも、僕は君に死んでほしくないと思った。」
顔を逸らしたビクトリアは、何かを思い出した様に、アーサーの顔を覗き込んだ。
「薬は止められそう?」
死のうとしたのではなく、薬を止めさせようとした。あるいはその両方。トラウマ級である。
アーサーは、自分が心配されていたことに気付くと、小さく声を出して笑った。
笑い声は伝染るものである。
ビクトリアはクスクスと笑い始め、アーサーの笑い声は、釣られて、徐々に大きくなっていった。
二人は、まるで幸せしか知らない様に、しばらく笑い続けた。
緊張がとけたアーサーは、改めてビクトリアを見つめた。
「化粧をとると、全然違う顔だね。今と比べると、ショーの時はジョーカーみたいだ。」
女性として見られる発言に慣れているビクトリアは、少し考えてから答えた。
「褒めてはいないわね。」

こうして、二人の間の他人の壁は壊れたのである。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み