第4話 訪問

文字数 6,320文字

ヘクトルの休日は、事故被害者の会や、報道に心を動かされた人々との交流に費やされる。
彼の生活の軸は、事件を境に確実に変わったのである。
事件の後、首の痛みに苦しんだヘクトルは紅茶を愛飲しているが、皆との交流の中でお茶に関する造詣は格段に深くなった。特にハーブ・ティー。
首を内側から温め、香りで心を癒すのは当然。実際に頭痛も和らぐ様な気がするが、人に煎れれば、その効能の説明で、自分の気持ちを伝えることが出来る。
静かな世界の住人である彼にとって、心の交流は大切なのである。

その日の訪問者は、メディカル・リサーチ社勤務のスカーレット・アーキンという女性。
一週間前にアポイントを入れてきたので、取敢えずは常識人である。
仕事は医療関係。名前が古い映画の主人公と同じなら、育ちは良さそう。
ヘクトルは、少しだけ緊張した自分を楽しんだ。
時間通りにベルが鳴ったのも、彼女らしいかもしれない。
ヘクトルは、インターカムの中に、涼しげなグレーのスーツに身を包んだ、スカーレットを見つけた。
ブロンドで、一目で知的である。
「ミズ・スカーレット・アーキン?」
ヘクトルが問いかけると、スカーレットはカメラのレンズを探した。視線が合っている様な奇妙な感覚である。
「初めまして。約束したアーキンよ。」
初対面の人間を家に招き慣れたヘクトルは、玄関に急ぐと、スカーレットを迎え入れた。
間近で見るスカーレットの瞳は大きい。
色はターコイズ・ブルー。
「ようこそ。」
ヘクトルが声をかけると二言、三言の返事はあったが、取敢えず卒はない。
ヘクトルは、かしこまって見えるスカーレットを客間に通した。
モス・グリーンの毛足の短いカーペットは安物で、およそ彼女には似合わない。
「今、お茶を出すよ。」
ヘクトルは、スカーレットを一人掛けのソファに座らせると、キッチンに消えた。
客間を観察するスカーレットの前に現れたのはマテウス。すべてが、ピウス家のルーティンである。
マテウスは、挨拶もせずにスカーレットの前に「ブレイン」を置き、向かいに座った。
「こんにちは。私はスカーレット。お父さんとお話に来たの。」
スカーレットが笑顔で名乗ると、カードを並べていたマテウスは顔を上げた。
「僕はマテウス。遊ぼう。」
子供は遊ぶものである。
マテウスは、いつもの様に、二人用の一番簡単なルールの説明を始めた。慣れてはいるが、たどたどしい。
少しだけ耳を傾けたスカーレットは、マテウスの手から優しく説明書をとり、瞳を斜めに動かした。
「OK。マテウス。勝負よ。」
スカーレットの目の前の可愛い小動物は、満面の笑みを浮かべた。

ヘクトルが、レモン・バーベナとカモミール、マロー・ブルーをブレンドしたハーブ・ティーを運んできたのは数分後。
スカーレットはマテウスに完璧に負けていたが、彼女が負けた理由は手加減のせいで間違いない。
見慣れた光景に微笑んだヘクトルは、次のルーティンに入った。
ソフト・キャンディの出番である。
袋を見た途端に、マテウスはソファから飛び上がったが、その場を動きはしない。
キャンディを持ったヘクトルは、隣りの部屋に消えると、数十秒後に顔を出した。
「いいぞ。今日は三つだ。」
宝探しの要領。見つかるまで、マテウスは客間に戻って来ないのである。
奇声を上げたマテウスが走り去ると、スカーレットは、笑顔でその背中を見送り、やがて真剣な表情を浮かべた。

「今日は何の用かな。」
香る蒸気で鼻腔を癒したヘクトルは、いつもの様に笑顔で話を切り出した。心の準備は出来ている。
何度か頷きながらヘクトルを見たスカーレットは、静かに口を開いた。
「ゾーイ・ヤングを知ってるわね。」
報道に協力してくれた彼女である。今までとは違うアプローチに、ヘクトルは改めて微笑んだ。何かしら、反響を呼んでいるのである。
「ああ。知ってる。彼女が何か。」
想定した通りの答えを待つと、スカーレットは言葉を続けた。
「彼女に連絡先を聞いたの。彼女は私の大学の頃からの友人よ。」
人の縁はどうつながるか分からない。
ヘクトルが取敢えず頷くと、スカーレットはスマートフォンを取り出し、ヘクトルに見せながら、スクロールした。
ヘクトルが見せられたのは写真。
しかも、全てがヘクトルとスカーレットのものである。どう見ても、二人の仲は深い。
笑顔を消したヘクトルは、スカーレットを見つめた。
「僕じゃない。」
やはり予想通りだったのか、スカーレットは小さく頷いた。
「この写真の彼は孤児なの。」
話の流れに照らして、説明が明らかに足りない。スカーレットが準備してきた話が始まるのは確実である。
「どういうことかな。」
取敢えず、先を促したヘクトルだが、ある程度の想像はつく。
ヘクトルも孤児である。写真の男が生き別れた自分の双子で、彼女がその恋人。そのぐらい。
スカーレットは、ヘクトルの聞く姿勢を知ると、しかし、質問で返した。
「あなたの奥さんの事件のことを、話してくれない?」
オブラートに包むのが暗黙の了解の筈だが、彼女は違う。
強い目的意識を感じたヘクトルは、幾度となく繰返してきた話を静かに始めた。
「僕とエミリーとマテウスがこの街に引っ越してきたのは…。」
それは、もうお決まりの話。
突然の不幸と終わらない悲しみ。集う仲間と話す中で磨き上げられ、事実とは多少違ってきたかもしれないが、共感が得られるので気にはしない。
ヘクトルは、全てを語り終えると、スカーレットの顔を見つめて反応を待った。
身を乗り出していたスカーレットは、少しの沈黙のあと、ソファに身を任せた。横柄さが少し見え始めたが、それが彼女かもしれない。
「どこの誰かも分からない男が、何人かの女性の名前を言いながらあなた達に近寄って、勝手に逃げたエミリーが事故死したのね。」
勝手に逃げたというセリフは明らかに非常識だが、警官から何度も言われたフレーズである。スカーレットは、下調べをしている。ヘクトルが目を細めても、スカーレットは遠慮しない。
「そして、今日よ。あなたと同じ顔の男の写真を、知らない女が持ってきた。あと、あなたとエミリーは養子じゃない?」
やはり、答えることはない。
「最もありそうなのは、生き別れた双子か何かのせいで怖い思いをしたエミリーが、事故死したのではないかと。そう思うでしょう?」
エミリーが双子と言う推論は、ヘクトルの今し方の想像とは似て非なるものである。スカーレットの謎の話は終わらない。
「ただ、これも考えれば分かるけど、あなたも、つまり夫婦二人とも双子?それに、男が名前を呼んだ女性の数からすると、奥さんは五つ子で、どうかすれば、それ以上。多くない?」
確かに異常である。
ヘクトルはゆっくりと姿勢を変え、しかし、彼女から目を離さず、話に聞き入った。
「分かったと思うけど、この男と私は、昔、付き合ってたの。」
やっと、最初の話である。
ヘクトルはこの時違和感を覚えたが、後で考えると、自分の全てを知られている様な恥ずかしさだったのかもしれない。
スカーレットは、ヘクトルの表情を探ると、口を開いた。
「昔、彼のアイデンティティを探す旅をしたことがあるわ。必要に駆られたから。ただ、彼に関する情報は何も残ってなかった。分かる?人が一人生まれたのに、何もよ。」
話しながら、スカーレットはスマートフォンをタップした。新しい写真である。
「あと、この人は知ってる?」
それは、ヘクトルとどこか似通った眼鏡の中年男性。彼の記憶にはない顔である。
スカーレットは顔の部分を拡大したが、同じことである。
「私は、会社でクローン技術の研究をしているの。専門は臓器の培養なんだけど、このラファエル・クレメンスが三十年前に開発した手法が、ほとんどの技術の基本なの。」
スカーレットの話は、とにかく発散している。
知りたいことが多すぎて、少しずつ当たりをつけているのだろうが、訊かれる方には苦痛である。弁護士であるヘクトルは、自分の理解の範囲で、スカーレットの話を総括した。
「想像すると、クローン人間の製造技術が大昔に出来ていて、僕とエミリーが誰にも公表されずにつくられたクローン人間というところかな。何なら、エミリーの事故死も巨大な陰謀に巻込まれたのかもしれない。」
ヘクトルは微笑みすら浮かべたが、スカーレットの反応は全くない。
人の家に来ておいて、これはないだろう。
ヘクトルは、ただ異常なことを口走る女が家の中にいることを、強く意識した。
何なら、例の男と同じかもしれない。
ヘクトルは言葉を選んだ。
「君を傷つけるつもりはないけど。あまり力になれそうにないな。」
遠回しに追い出したつもりである。
しかし、スカーレットは、今までと同じ瞳のまま、言い聞かせる様に言葉を返した。
「待って、大丈夫。私は正気よ。クローン人間なんて、失敗を恐れなければ、すぐにつくれるわ。いい?除核した未受精卵に、体細胞の核を注入するだけ。それだけなの。私達が人間のクローンの話を耳にしないのは、失敗する確率の問題で、それこそ倫理の問題なの。あなたも弁護士なら、分かるでしょう。その意味でラファエルは特別。普通の人間は、何人か流産させれば、耐えられないわ。ただ、彼は成功させたの。ひょっとしたら、出来るまで続けただけかもしれない。でも、彼はやった。この差は大きすぎるの。」
スカーレットは、ヘクトルの反応を伺うと、静かに言葉を付け加えた。
「やっと、本題よ。私は、ずっと彼、ラファエルを探してるの。」
スカーレットを見つめる時間だけが流れていく。
ヘクトルは、キャンディーを探すマテウスを思い出すと、結論を急いだ。
「僕に言っても無駄だよ。今、初めて聞いたことばかりで、訳が分からない。」
スカーレットは粘る。
「ラファエルは、倫理観からかけ離れた男とずっといたの。N国のローデヴェイク・デ・グラーフという富豪。あなたが言った巨大な陰謀。それが冗談にならない男よ。」
きな臭い話に、ヘクトルが改めて目を細めると、スカーレットは、ここへ来て、初めて気を使った。
「安心して。ローデヴェイクは三十年前に死んだわ。ただ、ラファエルはその後に姿を消して、今では、誰も彼の行先を知らない。もし、ラファエルが生きていれば、さっきの写真よりは随分年をとっている筈よ。」
スカーレットの姿勢は変わらない。
「考えてみて。エミリーと同じクローン人間が少なくとも後四人、どこかにいる可能性があるのよ。順番に不審者に襲われるかもしれない。あなたは何もしなくていいの?」
素直に考えると、おそらく何もしなくてよいのである。
マテウスのことを思えば、自分から面倒に巻き込まれる必要はない。
それでも、ヘクトルは万が一のために説明を求めた。職業病かもしれない。
「君はラファエルを探してるんだろう。それと、エミリーのクローンの襲撃はどうつながるんだい?」
スカーレットの答えは早い。
「まず、外見が同じ女性と間違えられた時点で、年齢が同じだから、オリジナルはエミリーじゃないわ。頭を整理して。それから、ラファエルには簡単には辿り着けない。だから、クローンを一人ずつ探し出して、それぞれのルーツを探すの。襲われそうなことを相手に教えれば、助かるかもしれない。私と一緒に探せば、ウィン・ウィンよ。」
クローンが事実だとしても、他人を探すために時間を割く様に求めている。
論理の破綻である。
ヘクトルは、頷きながら、ソファにゆっくりもたれた。
スカーレットの目は知的だが、狂っている可能性も否定できない。
ヘクトルが結論に辿り着くのに、大して時間はかからなかった。
「僕のとるべき行動は、弁護士として、エミリーの仇をとることだ。たとえ、見た目が同じとしても、会ったことのない人のことまで手は回らない。申し訳ない。」
ヘクトルから目を逸らしたスカーレットは、小さい溜息をついた。
「クローンを信じてないからだわ。」
スカーレットは思い込みが激しい。頭が良すぎるのかもしれない。
疲れるヘクトルの前で、スカーレットは、バッグからDNAの採取キットを取り出した。
「あなたのDNAを頂戴。彼のDNAと照合したいの。」
ヘクトルの口が開いても、スカーレットの要求は終わらない。
「それから、あなたが何と言っても、私はあなた達夫婦の親を調べるわ。育ての親もね。多分、何も情報がないだろうけど。」
自分達夫婦の親。育ての親。
ヘクトルは驚いた。
親の話、特に育ての親の話は、彼にとってはタブーなのである。
ヘクトルの声は掠れた。
「何を言い出すんだ。何の権利があって。それに、何も情報がないなら、調べて何の意味があるんだ。」
ヘクトルの心に響いたのは明らかである。スカーレットは小さく微笑んだ。
「何も墓を荒らすつもりはないし、本当の意味なんて、私も分からないわ。やってみないと。ただ、私が動けば、誰かへのメッセージになるかもしれない。多分、ラファエルには伝わる。彼はそういう人よ。」
ヘクトルに少し考える時間を与えると、スカーレットは名刺を取出した。
「もしも、あなたが一緒に来たいなら、電話で希望の日時を指定して。信じられないだろうから、メディカル・リサーチ社まで来て。タクシー代は出すから。」
スカーレットの会社の名刺である。所属に嘘はない。
ヘクトルを見つめるスカーレットの瞳は、大きく開かれた。
彼女は、この瞬間に気持ちを込めているのである。
それは面倒な時間。
ヘクトルは、マテウスのいる部屋を一瞥すると、改めてスカーレットを眺めた。
彼女の自信に満ちた表情は変わらない。
途中からは、心のどこかでスカーレットの次の言葉を待っていたのかもしれないが、とにかくヘクトルの沈黙は長かった。
結果、口を開いたのはヘクトル。根負けである。
「全て君の言う通りにする。全部だ。」
ヘクトルは、スカーレットが口を開こうとすると、言葉を急いだ。
「ただこれは、僕が君を恐れているからなんだ。怖くて仕方ないんだ。」
スカーレットが頷くのを見ながら、ヘクトルは静かに喋り続けた。
「君は知っているんだろう。僕のことを全部。それなら言う。願いを聞いたら、二度と僕達に近寄らないと約束してくれ。」
ヘクトルは、スカーレットの答えを待つことなく、説明書を手に取った。
大したことは書いていない。
口内にDNA採取キットを入れ、頬をこすって容器に戻すだけ。
五秒で終えたヘクトルは、検体をスカーレットに渡した。スカーレットの願いを、すべて叶えるのである。
スカーレットは、微笑みながら、ヘクトルを見つめた。優越感に浸っているというやつ。
ヘクトルは、会話が終わったことを告げるために、冷めたハーブ・ティーを飲干した。
察したスカーレットは、しかし、ゆっくりとティー・カップを空にした。
「御馳走様。美味しかったわ。」
適当な社交辞令を口にしたスカーレットは、キャンディーを探すマテウスがいる部屋に顔を出した。マテウスは、棚の移動中である。
「さようなら、マテウス。今日はもう帰るわ。」
スカーレットは、子供向けの笑顔で待ったが、マテウスは返事をしなかった。
キャンディーに夢中なのである。
子供らしさに触れたスカーレットは、ヘクトルに振り返ると、笑顔で口を開いた。
「待ってるわ。」
「勿論。」
ヘクトルは、力ない声を被せた。
満額の回答を勝ち取ったスカーレットは、流れる様に玄関に向かうと、微笑みながらヘクトルの家を後にした。
いなくなってから気付いたが、スカーレットは、ヘクトルと同じ顔の男の名前すら教えなかった。自己中心的。屈辱的かもしれない。
その日、ヘクトルは夜までマテウスと過ごしたが、スカーレットのことが頭から離れることはなかった。それは、ベッドに入ってからも同じ。
ヘクトルは、眠れない夜を過ごした。
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