第37話 謝礼

文字数 1,482文字

ジョン・インガーソルは、金持ちになった。
事の顛末はこう。

一度は精神病院に収監された彼は、まずは連邦捜査局の計らいで退院し、ヘクトル・ピウスからの告訴も、傷害事件と併せて取下げられた。
人生の再スタート。しかし、法律がどうだろうと、日常生活の出だしは、悲しい色の方が強かった。身元引受人になってくれた両親は、職にも就けない彼に笑顔ばかりを見せることはなく、彼を長らく苦しめた監禁事件の捜査は、彼の頭の中と同じで霧の中。
すべてが変わったのは、両親が留守にした穏やかな春の午後だった。
オレンジという名の男が訪ねてきて、五百万ドルの札束を、古びた客間の机の上に積んだのである。小切手ではなく、現金。
オレンジは、口数が少なかった。
「君がこれだけのお金がもらえる理由はただ一つ。君の選択肢もただ一つ。」
大金を前に震えるジョンを前にオレンジは席をたったのだから、その選択肢はジョンが金を受け取ることに他ならない。
そして、金がもらえる理由も一つしかない。
オレンジは監禁事件の関係者に違いないのだから、警察を呼ぶのが筋である。
しかし、先の見えない不安な生活は、彼の心を静かに挫いていた。
ジョンの口から出たのは、自分でも分からない程の感謝の言葉。
ジョンは、振り返らない男に向かって、礼を言い続けた。何度も何度も。何度も何度も。
五百万ドルには、そのぐらいの価値がある。そういう事なのである。

自分の部屋に札束を持ち込むのに、階段を数往復。
しまう場所はベッドの下ぐらいしかない。そして、意外と納まるものである。
ジョンは、五百万ドルの眠るベッドを軋ませると、静かに考えた。
一生、生活できる金を手に入れた人間は、何をするべきだろうか。
五百万ドル。
それは、この国では買えない家がある程度の金。遊ぶにしてもルールが必要である。
泡銭と割切って自由に使いきってもいいが、下品な浪費は周囲の人間を不快にする。
多分、彼を相手にするのは両親ぐらいだが、それでも同じこと。
おそらくは、彼に対する評価は悪い方に固まり、永遠の孤独を強いられるのである。
誰がどう言おうと、人を死なせた人間は、誰からも微笑まれない。
それが、エミリーと名乗っていたアンジェリーナが死んだということ。
ジョンは、決して抜けない楔を打ち込まれたのである。
小さなベッドに横たわり、手足を広げたジョンは、天井を見上げた。

それから小一時間も考えると、悩めるジョンの結論が出た。
この金を、他人のために使うのである。
すべてが終わってしまった自分のために使っても、その先には何も待っていない。
しかし、誰かのために使えば、何かが返ってくるかもしれない。
幸福の連鎖を生むつもりならどうするべきか。分かり切ったことである。
ジョンは、一人で微笑んだ。
しかし、どうせなら有効に使いたい。
自分が誠実で社会に貢献できる人間だと、皆に分かってもらえる様な使い方がいい。
とにかく笑顔の群衆を思い浮かべたジョンは、両手で胸を抑えた。
いつか奇跡が起きて、彼が社会に迎え入れられる日。
その日に、ジョンはそれなりの職に就く。
自分で働いて、安定した収入を得る。
皆の祝福の下に生涯の伴侶を得て、幸せな家庭を築く。
それは当たり前の生活。
事件に巻込まれる前には、自分の人生を儚むために思い浮かべたビジョン。
普通でいることは、難しいのである。
そして、自分は普通になれるかもしれない。
ジョンは、幸福な気持ちに包まれると、瞼を閉じた。
目指すべき道は明快。
しかし、具体的に何をすればいいかが、全く分からない。
優しい陽光に温められたジョンは、妄想の世界で遊びながら、やがて、浅い眠りへと落ちていった。
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