第40話 相棒

文字数 2,170文字

ニコーラが病院でも倒れたとの一報が連邦捜査局に届くと、管理官は即座に応援を派遣した。
バディのケリー・タワーズ。彼女とニコーラが組んで、もう随分になる。
ニコーラより年長の彼女はH大卒の才女。二年前から染めているブロンドに、ニコーラは決して悪い気はしていない。
ケリーは、ローズ先生の診察室を出たニコーラを、笑顔で待っていた。
先に口を開いたのは彼女。
「マミー。呪わないでよ。」
そこまで見つめ合った気はないが、いつも通りの彼女である。そう思ったニコーラは、しかし、心に小さな蟠りを感じた。
今日の彼女には、どこかぼんやりと霧がかかっている様。
頭をやられたせいかもしれないが、想像もしなかったフレーズが頭を過る。
ケリーは、自分の相棒ではない。
信じられる相手は別の人間。
嘘の様な言葉。
想像と言うより、声が聞こえてくる様な気さえしてくる。
この落ち着かない気持ちは、かなりの確率で不安である。
しかし、ニコーラの漠然とした感情だけで、二人の関係が急に終わることはない。
ニコーラは、憎まれ口だけは忘れずに届けた。
「一目ぼれじゃないのは、確かだ。」
微笑んだケリーは、包帯だらけのニコーラをシルバーのSUVに押し込んだ。
向かう先はニコーラの自宅。大した距離はないので、会話も少しだけ。
大丈夫な筈がないのに、大丈夫か訊かれるあれだけである。
路上に駐車したケリーは、急いで車を降りると、助手席のドアを開けた。
最恵国待遇である。
その時、小さな事件が起きた。
ケリーに気を使って急いだのかもしれないが、地に左足を着いた途端、予想以上の痛みに襲われたのである。
顔が歪んだのを意識したニコーラは、続けざまに柔らかいもので包まれた。
ケリーが、ハグをしてきたのである。ニコーラの記憶では初めて。
「可哀そう。」
スキン・シップは嫌い。それが彼女の筈である。
動けないニコーラに、ケリーは言葉を続けた。
「本当に、どうなるのかと思ったわ。痛かったでしょう。」
猛烈な違和感にニコーラが少しだけ身を引くと、ケリーも気付き、幻は消え去った。
想像できるのは、ニコーラが記憶をなくした間に、彼女との距離が近くなっていたということ。しかし、急である。
ニコーラは、驚くケリーの顔を見つめた。
「いや、痛い。」
ケリーが、静かに笑い始めると、ニコーラも釣られ、二人は一緒に小さく笑った。
それが、ニコーラの中の正しい二人の距離感。
彼女の笑顔が先に消えたのは、やはり気まずかったから。
首を傾げてニコーラを眺めたケリーは、そのまま別れを告げると、車を出した。

排気ガスに包まれながら、車を見送ると、ニコーラはアパートメントに入った。
我が家の控える三階までは、エレベーターが運んでくれる。
部屋に入ると、ニコーラは姿見の前で足を止め、服を脱ぎ捨てた。
痛みのせいで動きは遅いが、笑う相手はいない。
やがて現れた彼の肌はカラフル。
打撲痕に擦傷痕。執拗な暴力である。
ニコーラは、一つ一つの傷から、自分が辿った悲劇を探った。
頭の出血は治療されていなかったが、手荒く解放された時に頭を切ったのなら分かる。
深手は、日常生活では目立たない足の指の切断だけ。拷問か警告である。
拷問を受ける様な捜査は、ニコーラの途切れた記憶の中にはない。
それなら警告。
ニコーラは、小さく絶望した。
記憶をなくせば、執拗な警告も何の意味も持たないからである。
何かの捜査で、何かに辿り着くと、再び暴行を受けるかもしれない。
今度は指を何本切るのか。ニコーラなら二本以上。生理的に受け付けないビジョンである。
左足を庇うニコーラは、下着のまま、椅子に腰を下ろした。
意図せず漏れた溜息は深い。
悩めるニコーラが辿り着いた答えはシンプルである。
すべてを知り、賢く振舞う。
何も知らずに罠に落ちるのは、あまりにつらい。
ニコーラが、最初に手にしたのはスマートフォン。怪しいやりとりは見つからない。記憶のない間の自分も優秀である。
次はテーブル。ニコーラは、溜めた記憶のない郵便物をあさった。但し、あさるだけ。
それならデスク。ノートPCに誘われたのである。
顔認証で起動できたニコーラは、何もないデスク・トップを見つけた。
それは、彼の記憶にない光景。異常である。
二分後。ニコーラは、自分のPCに一切の情報がないと結論した。
初期化されているのである。
それは、この部屋まで何かが迫ったということ。今、この瞬間も誰かに見られているかもしれない。
両手をだらしなく垂らし、目を瞑ったニコーラは、大きく顎を上げた。
何もする気になれない。何かを知ると、止まれない気がしたのである。
猛烈に逃げたい。
元々、優秀な彼だが、壊れた今は血だらけの肉の塊。
ニコーラは、間もなく激しい頭痛に襲われた。
暗闇がチラつく視界のせいで、頭がまったく働かない。
限界である。
ニコーラは、ジャケットから痛み止めを取出すと、揺れながら冷蔵庫に辿り着いた。
錠剤を流し込むなら、ジンジャー・エール。
血の味に負ける水はありえないのである。
まずは、薬を飲むと言う行為が、一番効くのかもしれない。あるいは、安静にしようと言う自己暗示。
ニコーラは、寝室まで左足を引き摺ると、ベッドに倒れ込んだ。
体と相談しながら、痛みの少ない姿勢を探す。
意識はしていない。探さざるを得ないのである。
そのうち、答えらしきかたちが見つかると、ニコーラは溶ける様に眠った。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み