第68話 津波

文字数 11,596文字

A国C州S市の三階建ての事務所ビル。
潮風を嫌い、ココア・ブラウンのペンキで分厚く塗られた外壁には、何とも言えない野暮ったさがある。しかし、そんな古びた殻で隔てた室内には、管制塔を思わせる大量のモニターと機材が並んでいた。
モニターに映るのは、幾つもの通りの人の流れ。
それは、ローデヴェイク達十三人が発信機を取付けた、災害時の避難経路の監視映像。
海中への核爆弾の固定を終えて以来、彼らのメインだった仕事である。
彼らが準備した秘密道具は、監視映像と核爆弾以外にもう一つ。
顔認証ソフトである。
キャンピング・カーの男の顔はローデヴェイクと同じ。
ローデヴェイクの顔をスキャニングすれば、モニターの画像から自動で検出出来る。
パープル達が海から陸に上がれば、必ず見つかるのである。

洗面所で鏡に向かっていたローデヴェイクは、静かに自分の顔を見つめていた。
自分と同じ顔の男の存在が、彼の自意識を刺激したのである。
間もなく、電動髭剃りを手に取ったローデヴェイクは、テーブルに集まる皆の輪に加わった。髭剃りは机上。喋るのは彼。
「たった一人で、核爆弾の起爆装置を押せるのは、世界で僕一人だろう。」
皆は、ローデヴェイクが作戦を実行する気になったことを知った。
机の上には、ボタンが一つ。起爆装置である。
弁舌冴えわたるローデヴェイクだが、今日のこの日までに、既に幾度かボタンを押すのを断念している。それが人間である。
ローデヴェイクの演説は終わらない。
「これから僕は爆発を起こす。これは、それだけでは誰の命を奪うものでもない。狙いは、あくまでもその後の人の動きだ。サミュエル達はあぶり出され、僕達の支援の下、人類最高の研究に着手する。場合によっては地震が発生し、大津波になるかもしれない。しかし、地震や津波に巻込まれる可能性がある人への対策は尽くした。皆は一切気にしなくていい。僕達は、今から全人類のための偉大な一歩を踏出すんだ。」
話の内容は、前回とほぼ同じである。
ほぼ、自らを納得させるためだけの演説を終えると、ローデヴェイクはボタンの上に手を置いた。皆が知っているが、ここからが長い。
大統領の核のスイッチが二つある理由は、寧ろ、一人の決断のハードルを下げる事にある。
一人でスイッチを押すのは、計り知れない負担なのである。

しかし、その日はいつもと流れが違った。
皆が、ボタンの上に置かれたローデヴェイクの手の上に、自らの手を重ねたのである。
ローデヴェイクは友情を感じた。
さすがに、皆が手を重ねた時間も長くなる。
爆発音を再現する者、ボタンを押すふりをする者、体を押しあう者。
すべてが若さの現れ。ステファヌスに与えられた、豊かだが過酷な人生を共にする仲間。
ローデヴェイクの口元に笑みが浮かぶ時間も何度かあったが、それでもボタンが押されることはなかった。
十三人の手がボタンの上に乗り、どれだけ経った時だったか。
誰か一人が力を入れたのだろう。それが誰かは分からないが、確かにボタンは反応した。
遠洋で、爆発が始まったのである。

クルーザーにいたヘクトル達が爆発音を耳にしたのはメイン・サロン。
一回目である。
マテウスは、目を大きく見開くと、何も言わずにヘクトルにしがみ付いた。
ソファに横たわっていたエマも、上体を起こした。
「ヘイ、ヘイ、ヘイ、ヘイ。」
エマは、爆発音の聞こえた方角を見た。
ガラス一枚を隔てた真昼の海。
どこまでも続く水平線の彼方に、それはゆっくりと姿を現した。
海底の岩を砕いたアッシュ・グレーの煙を王冠の様に戴く、ホワイト・マッシュルーム。
水柱である。
イヤホンで音楽を聴いていたアーサーは、皆の異変に気付くと、耳を自由にした。
「何が…。」
窓の外を見て固まるビクトリアに尋ねようとしたアーサーは、彼女の視線の先の水柱を見ると、声を発するのを止めた。

爆発の衝撃が起こした波がクルーザーを襲ったのは数秒後。
巨大なクルーザーの揺れはなだらかだが大きい。
五人は、とにかく掴める物にしがみついた。縦揺れは人の心を揺らす。
ヘクトルに抱きしめられたマテウスだけは、揺れを楽しんだかもしれない。

二回目。
三回目。
大波は、その後も続いた爆発の回数だけ、クルーザーを襲った。
ステファヌスの計画では、この波で一行が陸地に逃げるところまでは絶対だった。
コックピットのパープルは確かに船を出すタイミングを計ったが、事件はそれだけでは終わらなかった。
大波に耐える間、誰も気付かなかったが、人の世に深い爪痕を残す大きなイベントが、既に始まっていたのである。
陸地を飾る観覧車が見せる曲芸に近い揺れ。
隣りのビルとの距離が気になる程、撓る高層ビル。
停電と警告音。
間違いなく、大地震である。
それは、ステファヌスのある種の強運が引起こした奇跡だった。

エマは、揺れが静まっていくクルーザーから、震える陸地を睨んだ。
決断が必要である。
ビクトリアは、揺れをしのいだ安心感からか、アーサーに身を寄せた。
「地震よ。陸地にいなくて本当によかったわ。」
“地震”
見たことのない光景ではなく、知った言葉が、軍の学校で学んだ彼女の記憶を呼び覚ました。
「津波が来るわ!」
不穏な言葉を耳にして、皆の視線がエマに集まる。続いたのはアーサー。
「あの揺れなら確実だ。」
エマは無線を手にした。話す相手は、コックピットのパープル。
「聞こえる?津波が来るわ。すぐに陸に逃げるの。」
パープルに聞こえたことは、錨の上がる音で分かる。
間もなく、クルーザーは動き出した。
地震から津波に至る時間は不規則。とにかく急ぐ必要がある。
六人を大きく揺らすクルーザーの速度は三十ノット。
マテウスは、ヘクトルの腕の中で歓声を上げた。

間もなく港が見えると、クルーザーの速度が落ち、パープルが階段を駆け下りてきた。
「引き潮だ。船を替える!」
パープルが向かった先はリアのガレージ。五人も後を追う様に走った。
シャッターが開き、六人の前に現れたのは、小型ボート。もしもの時の備えである。
最初に乗り込んだのはパープル。
やはり、皆が続くと、同時にハッチが開き、ボートは海面に滑り出した。
「しっかり捕まれ!」
クルーザーの音に負けない様にパープルが怒鳴ると、皆が手摺りにしがみ付いた。
トップ・スピードがあるのは、この時のため。
体感速度は、クルーザーより遥かに速い。
二分も経たずに海底がチラつくと、パープルはボートを止めた。
ここからは歩きである。
マテウスがようやく非常事態を知ったのはこの時。
皆が足を海水に濡らすと、マテウスの頬に涙が伝った。
振返ったのはアーサー。スマートフォンを出した彼は、音楽を再生すると、マテウスの耳にイヤホンを差した。
「済まない。」
礼を言うヘクトルに微笑むと、アーサーはスマートフォンをマテウスのズボンに差し込んだ。マテウスを抱いてボートから降りようとしたヘクトルに手を伸ばしたのは、先に降りていたエマ。
「体は鍛えてた?」
思わぬ心配である。
「いや。でも、男の僕の方が体力はあるだろう。」
ヘクトルの小さな抵抗に微笑んだエマは、強い目でヘクトルを見つめた。
五秒後。
ヘクトルは、マテウスをエマの腕に預けた。
本当の危機に知る事だが、人間は社会性のある動物なのである。
マテウスを高い位置に抱いたエマは陸を目指して走り出し、皆が彼女に続いた。
ラビットは、マテウスを抱くエマ。
六人が目指すのは高地の避難所。
津波を避けられる場所は、他には存在しないのである。

避難経路を移動する六人は、間もなく、ローデヴェイクの顔認証ソフトに検知された。
設定していた警告音は、思っていたより軽い。
ローデヴェイクは、じっくりとモニターを観察すると、間もなくグループを特定した。
「サミュエルはいない。プランB。ターゲットはこの男だ。確実に誘導してくれ。」
彼が指さしたのはパープル。当たり前だが、ローデヴェイクと同じ顔である。
溜息をついたローデヴェイクは、電動髭剃りをポーチに入れ、立ち上がった。
連絡係の一人を残し、目出し帽を額まで被ったのは十二人。
ローデヴェイクの率いる一団は、武器を手にすると、怒涛の様に事務所ビルを出た。
押し波が来るまでに残された時間は特定できない。急がなければならないのである。

走るエマ達は、間もなくT字路に差し掛かった。
全ての分岐が運命の分かれ道。何かを考えずにはいられない。
これまでも誰かが幾度となく振り返ってきたが、ここで後ろを振返ったのはヘクトル。
背後に連なるのは、広いアスファルト舗装の道路である。
急な坂が、一行が登ってきた高さを教える。
車道の脇には高い並木。その遥か彼方には、パステル・カラーの店舗が、海を遮る様に広がっている。
おそらく店主は既にその場を離れている。ヘクトル達より遅れて避難している者もいるがごく僅か。
遠くに広がる海は、汀の見分けこそつかないが、まだ、押し波を寄越している様には見えない。
マテウスの泣き声が気になるヘクトルの判断。
“まだ、大丈夫かもしれない”

その時、先を進んでいたエマが叫んだ。
「止まって!」
視線の先を移したヘクトルの眼前に現れたのは、黒づくめの集団。ローデヴェイク達である。
目出し帽で顔を覆った彼らは、一目でアウト。
人数は同じぐらい。女子供を含むヘクトル達に勝利はない。
間もなく、T字路の残る一方からも黒づくめの集団が現れた。やはり人数は同じぐらい。
つまり倍である。
二手に別れて抑えに来たのは計画的。何人かの手元には銃。確かにプロである。
聞こえるのは、マテウスの泣き声だけ。
何も出来ないヘクトルは、ただ、次の成り行きを待った。
「ヘクトル!」
その時、彼の名を呼んだのはエマ。
マテウスを抱きかかえるエマが走り出したのである。
バタバタと響く足音に、銃弾を避けるビジョンは重ならない。
しかし、黒づくめの集団が動かなかったのは、彼女が向かう先に波が押し寄せているから。
エマが向かう先は海。
誰がどう見ても、自殺行為なのである。
ヘクトルはすぐにエマを追った。信じられるのは彼女しかいないから。
数十分後に津波で死ぬとしても、今、銃弾で死ぬ事はない。究極の選択である。

出遅れたパープルは、銃を手にした。
相棒はスミス・アンド・ウェッソンM&P。
彼の経験上、躊躇った方の負けである。
パープルは、黒づくめの集団の足元に銃弾を放った。勿論、威嚇射撃である。
「アーサー!」
パープルが声をかけて走り出すと、アンダーソン夫婦も続いた。
エマとヘクトルの背中はもう小さい。
パープルは、しかしエマ達とは別の道を選んだ。人家の庭に駈込んだのである。
アーサーとビクトリアが向かう先も同じ。
彼らの不幸を挙げるとすれば、パープルの目的はヘクトルを守る事。
ヘクトルの追っ手を減らすことは、彼の使命なのである。

パープルは、人家を伝いながら逃げ続けた。
背後に追手が見えるのは、パープルの狙い通り。
小さく微笑んだパープルは、適当な威嚇射撃を続けた。
やがて、大きな通りに出ると、三人は民家のエントランスに身を隠した。
口を開いたのはパープル。
「奴らは、監視カメラをジャックしてる。そうじゃないと、僕達を見つけられた理由が分からない。」
アーサーは、怯えるビクトリアを見ながら口を開いた。
「誰を認証してる。僕か?」
「分からない。ただ、認証されている人間がいれば、いくら逃げても追いつかれる。」
アーサーは、当たり前の説明に頷いた。喋るのはパープル。
「二手に分かれよう。見つかる確率が半分になる。」
パープルは、ジャケットからグロック39を取出し、アーサーに手渡した。
「使えるか。」
「おそらく撃つぐらいは。いや、待ってくれ。」
即答したアーサーは、パープルがつくった流れを止めた。瞬間の判断力である。
「ビクトリアを連れて行ってもらえないか。銃なんて、僕が撃っても当たるとは思えない。僕は彼女を守れない。」
アーサーを見たパープルは、彼がビクトリアの視線を受けているのを見つけた。
しかし、パープルには答えがある。
「君達は一緒にいた方がいい。相手は五~六人だ。二手に分かれても三人。本当に撃合いになったら終わりだ。分かるか。その銃はお守りだ。使い方はよく考えてくれ。とにかく、誰も自分についてこない事だけを祈るんだ。」
銃の腕など、関係ない。死に方の問題なのである。
パープルに、アーサーの答えを待つ気はない。
間もなく目にした敵に、改めて威嚇射撃をしたパープルは、行先も告げずに走り出した。
暫しのお別れである。
アーサーとビクトリアに考える時間はない。
アーサーは、ビクトリアの手をとると、パープルが走ったのとは逆に向かって走った。
ビクトリアのスピードでは追いつかれる。
全力で走ることもできず、気持ちばかりが焦る。
アーサーは何度も後ろを振り返った。
走る度、道が曲がる度。
何度も何度も。何度も何度も。安全と思えるまで。
そして、ビクトリアは全力で走った。
足がつりそうになる程。休まず、絶え間なく、走り続けた。
やがて、アーサーの頭脳が一つの結論に落着いたのは、避難所に辿り着いた時だった。
走り始めた時と変わらず、後ろに人影はない。
アンダーソン夫婦は、敵のターゲットではなかったのである。
荒い息の二人の顔に、静かに笑みが混ざったが、それは一瞬だった。
ターゲットは自分達以外の誰か。
ついさっきまで行動を共にした仲間は、武装集団に狙われているのである。

その頃、まったく違う道を彷徨っていたのは、エマとヘクトル、そしてマテウス。
泣き止まないマテウスを抱くエマは、ひたすら海を目指していた。
津波に近付く恐怖心で、追手の気力を削ぐためである。
エマが選ぶ道は、建物の間。銃の的にならないために不可欠である。
間もなく、三人は商店街に辿り着いた。
足元はウッド・デッキ。アスファルトの坂道と違い、平坦で走り易い。
走りながら一帯を見渡したエマは、一棟のビルに目をつけた。四階建てのそれは、この一帯では最も高い。
LC9を取り出したエマは、足を止めずにガラスの扉を撃った。粉々になって砕け落ちるガラスは嘘のようである。
二人は、空になった扉を潜ってビルに入った。
目指すのは最上階。エマとヘクトルは、速度を保ったまま駆け上がった。また、階段である。

エマ達を追ってきたのは六人。
ガラスの砕けた扉は、彼らが逃げ込んだ先を雄弁に物語っている。
一人が指示を出すと、四人だけが建物に駆け込んだ。残したのは表裏の出入口の見張り。
状況はどうであれ、彼らには、何をどうするべきかが分かっているのである。

エマは、四階まで駆け上がると、泣き叫ぶマテウスを静かに降ろし、室内を見渡した。
今、登ってきた階段は周囲に手摺りがあるだけ。
視界は開けているが、奥にビリヤード・グリーンの扉がある。
侵入経路は二つ。扉に駆け寄ったエマは、軽く扉を叩いた。
木製。つくりは華奢である。
「ヘクトル。手伝って。」
エマは、事務机の一つに手をかけた。ヘクトルも手伝い、運んだ先は木の扉の前。
バリケードである。
エマが、すかさずLC9を両手で包むと、ヘクトルはマテウスを呼んだ。
「来い!マテウス!」
泣き濡れるマテウスだが、自分の父親は忘れない。不安しかない彼は、全力でヘクトルの元に駆け寄り、きつくしがみ付いた。

ヘクトルは、マテウスに頬ずりをした。ヘクトルに頼っても、どうにもならない。マテウスの力が、あまりに健気で、あまりに可哀そうだったのである。
その時、ヘクトルはマテウスの耳に挿されたイヤホンに気付いた。
アーサーのスマートフォン。
抜いたイヤホンを自分の耳にあてがったヘクトルは、マテウスのいた世界を知った。
アース・ウインド&ファイアのセプテンバー。
決して、子供が好む曲ではない。
ヘクトルは、スマートフォンを取出したが、まずはパスワードが分からない。
ヘクトルは、とにかく音量だけを上げた。
周りの音を消す。そのぐらいしか、思いつかなかったのである。

エマは、二つの侵入経路を交互に眺めた。
先手必勝。それは確実である。
軍隊にはいたが、人を撃ったことはない。アドバンテージが必要なのである。
エマは、自分を励ました。
自分はやれる。自分ならやれる。自分にしか出来ない。自分は勝つ。自分は生き残る。
神経が研ぎ澄まされていく時間。
しかし、間もなく訪れた敵は窓の外。押し波だった。

昨日まで、当たり前の様に人が行き交った通りを、あらゆるルールを無視し、海水が広がっていく。
低い波の先端は無表情。
通りにある全てを、当たり前の様に、そして滑る様に運んでいく。
ただ、それだけで納まる筈がない。
水位は見る間に増し、運ぶものも大きくなっていく。
看板、木、テント。
響き始めた鈍い衝突音は、振動を連れている。何かが建物にぶつかっているのである。
押し波が襲うのは、エマ達だけではない。
黒づくめの集団も同じ。
間もなく、外で待っていた二人も、ビルに逃げ込んだ。
エマ達を狙う人間は、六人になったのである。

ファンク・ミュージックは、建物の揺れまで誤魔化すことはできない。
一時だが静まっていたマテウスの泣き声から、とうとうリミッターが外れた。
怖いのはヘクトルも同じである。
ヘクトルとマテウスは、唐突な衝突音が響くたびに声を上げた。

状況が変わったのは、間もなく。
津波の騒音が轟轟と鳴り響く中、黒づくめの一人が、階段から顔を出したのである。
エマは、迷わずにLC9の引き金を引き、敵の頭部を砕いた。
人が人を殺す瞬間である。
もう一つ大きな震えを感じたヘクトルは、マテウスの頭を大きく包んだ。

それにしても、顔の出し方があまりに不用意である。
窓の外を見たエマは、水位が上がっている事を知った。
敵は後がない。
確かな危険である。
二秒後。
階段から伸びた手が、向きを問わずに、銃弾を見舞った。
分かり易い牽制であるが、狙いもせずに弾が当たる偶然は期待するべきではない。
エマは、やはり黒づくめの頭を撃ち抜いた。

直後に聞こえたのは、木の扉を叩く音。だからこその牽制。
バリケードは正しかったのである。
エマは、階段に銃口を向けながら、扉に移った。
すぐに、響いた銃声は扉の外から。木製の扉に穴を開けようとしたのである。
待ち構えていたエマは、開いた穴から見えた黒い頭を撃ち抜いた。
階段を振返ると、階段から姿を見せる黒い影が一つ。
エマは、胸に弾丸を二発撃ち込んだ。これは基本である。
頭の動く黒い生き物は、胸元を押さえながら崩れ落ちた。
階段に走ったエマは、階下に向けて、銃弾を放った。
木の扉にバリケードのある事が知られた今、威嚇射撃が必要なのである。

しかし、エマ達にとって、真の敵は人間よりは水だった。
海水が、階段を一段ずつ上がってきたのである。
やがて、四階の床を海水が這い出すと、エマは一つの判断を下した。
黒づくめの集団は、海水に負けた。間違いない。
エマはヘクトルを見た。しがみ付くマテウスは、ずっと泣き続けている。
可哀そうだが、次の勝負は、エマの努力でどうなるものでもない。
声を上げたのはヘクトル。
「水位はまだ上がってる。逃げないと。」
分かっている事だが、エマは窓の外に目をやった。
遠くを船が流れていく。
全てが狂っているのである。

LC9を収めたエマは、窓辺に駆寄り、窓を大きく開けた。
目指すのは少しでも上。それしかないのである。
迷うことなく身を乗り出したエマは、桟に腰掛けた。
窓枠に指をかけて立ち上がり、庇を掴む。
軽く揺れて、庇に足を掛けると、その上へ。
パラペットを越えれば屋上である。
エマは、屋上を見渡した。
設備機器に囲まれるここなら、漂流物を避けることも出来そう。
それはエマだから出来るジャッジ。
エマは、庇に降りると、窓から顔を出すヘクトルに声をかけた。
「マテウスをこっちに。」
ヘクトルは、泣き叫ぶマテウスをエマに預けた。
のたうち、重心を変えるマテウスは重いが、しかし、エマの腕にしがみつくと、屋上に引上げられた。ヘクトルもエマの助けで続く。

水位は容赦なく上がっている。
エマは、改めて屋上を見渡し、細めの配管を見つけた。見る限り、樹脂製。
駆け寄ったエマは、LC9で穴をあけると、オンタリオM11EODに手をかけた。
いつか、ヒュドールの倉庫で手にしたお守りである。
間もなく手に入った配管はシュノーケルの代わり。長さは二メートルぐらい。役に立つかどうかは、津波次第である。
エマは、マテウスを抱きしめるヘクトルを見ると、目頭が熱くなるのを感じた。
勿論、彼女も怖いが、守る者がいるヘクトルの辛さが、悲し過ぎたのである。
「あと、二メートルは耐えられるわ。」
ヘクトルには、その言葉が持つ意味が二通りに聞こえたが、とにかく頷いた。

エマとヘクトルは、設備機器の間に身を置き、足を突張った。
流されないためである。
マテウスの居場所は、ヘクトルの足の間。海水は刻一刻と上がり、マテウスの体を濡らしていく。
やがて、海水はマテウスの首に達した。
自然は無慈悲である。
ヘクトルは、配管を海水で洗うと、マテウスに咥えさせた。
「これから、皆で順番にこのパイプで空気を吸って吐くんだ。いいか。体を叩いたら、息を止めて、次の人に代わる。分かったかい。」
マテウスは、泣くばかりである。
「頼む。マテウス。泣くんじゃない。頑張るんだ。」
祈る様に教えるヘクトルを、エマは静かに見守った。

やがて、海水は三人の頭を飲込んだ。
ヘクトルは、マテウスの口元に配管を当てたが、濁流は強い。エマが手を添えても同じ事。
濁った水が、三人から光と音を奪う。
間もなく配管が流されると、空気のない静かな時間が、三人に訪れた。
ヘクトルはエミリー、エマはヨシュアを思い浮かべたが、そんな気持ちは、彼らから溢れる泡と共に消え去った。

猛る濁流は永遠ではなく、数分もすると、三人の姿が海水から浮き上がった。
目を閉じているのは、意識がないから。酸欠がもたらした自然の摂理である。
誰も流されなかったのは、ヘクトルとエマの気持ちの強さ。
まだ海水に隠れる二人の足が、微塵も動かなかったということ。
そして、その気持ちの強さは、間もなく小さな奇跡を見せた。
エマが目覚めたのである。
おそらくは肺活量の力。
エマは、激しい頭痛にこめかみを一度抑えたが、すぐに周りを見た。
ライフガードの経験が、彼女にすべてを鮮明に見せる。
エマは、ヘクトルとマテウスを揺さぶった。
意識がないのは明らかである。
二人を一度に救助するのは難しい。
エマのジャッジ。
意識を取戻せば、戦力になるヘクトルが先。
エマは、マテウスを傍らに寝かすと、ヘクトルの顔を強めに平手で打った。
一発、二発。唸る海水の音に、綺麗な張り手の音が混ざる。
三発目を止めたのはヘクトルの手だった。
直後にヘクトルが大量の水を吐いたのは、当たり前。ヘクトルは、エマから顔を背けて、少しずつ水を吐き続けた。時間が必要な作業である。
次は、マテウス。
エマは、横たわるマテウスの胸に両手をあてがうと、心臓マッサージを始めた。
小さな胸を押すのは悲しい。
間もなく、マテウスは水を吐き出した。思った以上に大量に水を飲んでいる。
鼻からも水をたらすマテウスの胸が大きく動くと、エマは目を輝かせた。
「マテウス!マテウス!」
しかし、マテウスは目を覚まさない。呼びかけは止められない。
「マテウス!マテウス!」
異変に気付いたヘクトルは、エマを押しのけると場所を変わった。
ヘクトルは、マテウスの耳元に口を寄せた。
「マテウス!聞こえるか!マテウス!」
ヘクトルは、マテウスの名を呼び続けた。
彼のゴールは、マテウスが答える事。
それまでは、決して、呼びかけを止める事は出来ないのである。
しかし、エマは違う。
ただ、名前を呼んでいても意味はない。
愛情の力も大事だが、マテウスに必要なのは医者。確実である。

エマは、酸欠で痛む頭を押さえながら立ち上がり、天を大きく仰いだ。
気持ちをリセットしたのである。
太ももとふくらはぎを軽く叩いて深呼吸。エンジンはかかりつつある。
エマは、悲し過ぎるヘクトルに、静かに話しかけた。
「避難所に行けば、きっと誰かいるわ。」
ステージが変わっている。
ヘクトルは、ここに至って、涙を一筋流し、マテウスを強く抱きしめた。

エマは、水が引いた四階の窓に戻ると手を伸ばし、マテウスを受取った。
一刻を争う事態である。
マテウスを肩に抱上げたエマは、ヘクトルを待たずに階段を駆け下りた。
何とか四階に降りたヘクトルは、とにかくエマを追った。
途中、転がっていた二人の敵の死体は、ヘクトルの目には映らなかった。

水の残る道の上を、エマとヘクトルは走った。避難所までの道は覚えている。
走りながら、エマは思った。
ヘクトルは生きているが、マテウスの意識が戻らないのは失敗だった。
やってしまった。
水中の滞在時間は短かった。
頭に傷もないから、早く医者に診てもらえば、何とかなるかもしれない。
ただ、大体何故あの管を津波の中で持っていられると思ったのか。
三歳児が、言う通りに配管を回せたとも思えない。
他に方法はなかったのか。
救助に手間取りそうなマテウスを後に回したのもまずかった。
ただ、マテウスを先に見ていれば、ヘクトルと揃って同じ状態になったかもしれない。
それだけではない。
ヘクトルの眼の前で四人殺してしまった。
万が一、マテウスがこのままだとして、ヘクトルは自分の正当防衛を証言してくれるだろうか。最初から頭を狙っているのは、分かった筈である。
いや、それにしても可愛そうなのは、今、自分の胸で眠るマテウス。
こんなことは、三歳の頃の自分にはなかった。
今の彼には、せめて祈りが必要だが、それさえも出来ない。いや、していない事に今気付いた。
エマは、マテウスのことを祈りながら、ただただ走った。

やがて、三人は高地の避難所に着いた。避難所と言っても、ただの空き地である。
毛布とテントを配っているのは、役所の人間とおそらくはボランティア。マニュアル通りだとしても、余りに慌ただしい。
整理が進まない広場に溢れているのは、決して、一つではない言葉と肌の色。
知合いを探す者、予期せぬ悲劇に咽び泣く者、無事を喜ぶ者、喧嘩をする者。
九死に一生を得た彼らが求めるものは余りに多く、すべてを満たすのは不可能。
敢えて、すべてが放置されたその場は、感情のカオスである。
ヘクトルは、声を振り絞って叫んだ。それは親の子を思う気持ち。
「医者はいないか!子供の意識がないんだ!」
しかし、ヘクトルだけを特別扱いする理由はない。
大きい声がすれば、自らの声が聞こえる様に、更に声を大きくする。
皆が必死なのである。
ヘクトルの叫び声は、広場を一層騒がしくしただけだった。
エマは、ヘクトルにマテウスを預けると、LC9を取出した。
空に向けて一発。
銃声を超える声を出す術を持たない避難民たちは、特別な存在に向かって、一斉に顔を向けた。
それこそ、エマが待っていたもの。喋るのは、勿論、彼女である。
「お医者さんはいない?溺れて、子供の意識がないの。」
間もなく、近寄ってきたのは三人の男女。口を開いたのは、髭の男。腕にはボランティアの腕章が付いている。
「僕は医者だ。何かが出来るかもしれない。」
男の傍らで、女がマテウスを引取った。彼女の腕にも腕章がある。
「行こう。何か機材が使えるかもしれない。君はお母さん?」
首を傾げるエマの前にヘクトルが一歩踏み出すと、男は小さく頷いた。
「行こう。」
エマは、力のないヘクトルの背中に話しかけた。
「大丈夫よ。信じるの。絶対、大丈夫。」
ヘクトルが反応しなかったのは、聞こえなかったのか、何か。
エマは、その瞬間、ヘクトルとの間に大きな壁を感じた。
何故なら、ヘクトルはエマについて来ただけだから。
すべては、エマの判断なのである。
足が動かなくなったエマは、人混みの中に消えるヘクトルの背を静かに見送った。

一人になったエマの元に、間もなく現れたのはアンダーソン夫婦とパープル。
パープルの頭の出血は痛々しい。
三人とも、服はひどく汚れているが、濡れてはいない。津波からは逃げられたのである。
エマは、三人の顔を眺めると、満面の笑みを浮かべた。
「大丈夫。皆、生きてる。」
皆が、心の底から微笑んだ。
エマが話しかけたのは、最も信頼するパープルである。
「状況は?」
パープルは、眉間に皺を寄せると顔を横に振った。
同じ気持ちのエマが次の言葉を待つと、パープルは、自分の喉を指さし、親指を下に下げた。
口を開いたのはアーサー。
「よく分からないけど、声が出ないらしいんだ。」
エマには知識がある。
頭の出血が問題なら、失語症の可能性がある。脳内出血が怪しい。
あるいは、敵を皆殺しにしたストレスで失声症。
いずれにしろ、必要なのは医者である。
「今、あっちにヘクトルが行ったわ。医者がいるから、見てもらって。」
エマは優しく教えると、パープルの背に手を添えた。
パープルは、静かに頷くと、エマに押される様にヘクトル達の後を追った。
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