第99話 家族

文字数 6,390文字

その日のエマは、たった一人の姉であるオリビアの結婚式に出るため、A国N州Lを訪れていた。式を翌日に控え、ホテルに前泊する両家の親族は、これから顔合せのディナー。
スカーレットのテロに協力しようがしまいが、ライフ・イベントは必ず訪れるのである。
オリビアの結婚する相手は、父親のルーバンの親友であるジェレマイア・リードの息子リアムである。大学時代にアメリカン・フットボールで鳴らした彼は、今はジェレマイアと同じA国陸軍。
エマの友人の何人かは彼に夢中だったので、エマも昔から何となく彼を知っていた。
オリビアと彼が付き合い始めてから、三人で会ったこともあるので、何の驚きもない。大歓迎である。
ただ、エマは、ジェレマイアのことが、全人類の中で一番嫌いだった。

初めて戦地に配属される前、エマはジェレマイアのいるK国のキャンプに駐屯した。
エマが、心のどこかで、父親の親友に頼ろうと思っていたのは確かである。
赴任した初日、人の群れの中心にいるジェレマイアを見つけたエマは、仲間から離れて、彼の元に急いだ。
美しいエマは、人の目を引かずにはいない。
「あれがエマ・ハリス少尉です。ルーバンの娘です。」
エマに気付いた一人が教えると、ジェレマイアは近付くエマを見つめた。
間もなく、ジェレマイアの前で足を止めたエマは、満面の笑みで敬礼をした。
「初めまして。エマ・ハリスです。」
「初めてじゃない。このぐらいの頃は、よく会ってたんだ。」
ジェレマイアが小指を見せると、彼の取り巻きは一斉に笑った。
エマの微笑みがひと際大きくなると、ジェレマイアは言葉を続けた。
「レイチェルは元気か。」
母親の名前を口にされると、エマは嬉しくなった。
「はい。元気です。」
「よかった。彼女は素敵な人だった。ルーバンは幸せ者だ。」
「ありがとうございます。」
「何回、あいつの背中に照準を合わせたか、知れない。」
人の輪が大きな声で笑うと、エマは眉を上げて、皆を見渡した。
ジェレマイアは、このキャンプの主。彼を中心に、この世界は回っているのである。
ジェレマイアの隣りのブラウンが口を開いた。
「若いな。初めてか。」
「はい。一年目です。」
「陸軍士官学校?」
「はい。そうです。」
「ルーバンがレッスン・プロなのは知ってるが、軍人しかつくれないらしい。」
皆が小さく笑うと、ジェレマイアが口を開いた。
「お蔭で、このキャンプにも綺麗な花が咲いた。あいつの一番の手柄だな。」
一斉に笑った皆は、口々にエマに話しかけた。
「よろしく、ハリス大尉。」
「歓迎する。」
「心強い仲間だ。」
「一緒に頑張ろう。」
エマは、一人一人に笑顔を向け、父親の生きる世界に進んだ喜びをかみしめた。

その日の晩の歓迎会には、ジェレマイアも顔を出した。
会の中盤に姿を現した彼は、大きな拍手で静けさをつくると、笑顔で口を開いた。
「ヘイ、ガイズ。皆の名前を知りたいんだ。自己紹介でも始めないか。」
とっくに済んでいることは、彼も分かっている。それは、いつものジェレマイアの余興。
ジェレマイアの連れてきた一団は、彼の合図で酒瓶とグラスを配り始めた。
ウォッカである。
ジェレマイア流の自己紹介はR国流。
一人が自己紹介をする度に、全員でウォッカのグラスを空けては注ぐ。
全員の紹介が終わる頃には、皆が泥酔している。何より、殻を破るのが目的である。
自分の番が来るまでに潰れる者は自己紹介も出来ないが、それも一興。
ジェレマイアは、本能のままのショーに満面の笑みを浮かべた。

「エマ・ハリス少尉です。N州出身です。好きなナイフは、オンタリオM11EODです。宜しくお願いします。」
必ず笑う酔っ払い達に歓声を受けたエマが自己紹介を終え、椅子に座ったその時、ジェレマイアが揺れながら近寄ってきた。確かに酔っている。
「ミス・オンタリオ。いいか。」
エマが笑顔で応えると、ジェレマイアは優しく微笑んだ。
「君を見てると、ルーバン達といた頃を思い出す。」
エマは微笑んだ。
「いい思い出ですか。」
ジェレマイアは、頷きながら酔っ払い達を見渡した。
「まあ、こんなもんだったかな。」
苦笑するエマを見ると、ジェレマイアは言葉を続けた。
「いつも、こうだった。」
エマの笑い声で、主役に気付いた皆の視線が集まると、ジェレマイアは何度か頷いた。
「私の部屋に行こう。君に渡したいものがある。とっておきだ。」
父親との思い出の何かで間違いない。
「サー・イエス・サー。」
エマは、笑顔で敬礼をした。

ジェレマイアが変わったのは、部屋に入ってすぐ。扉が閉まったのと同時だった。
ジェレマイアは、何も言わずに、大きな体でエマを包んだのである。
エマは後から皆に聞いた。
ジェレマイアのニックネームはフォックス・バット。
世界最速のR国の伝説の戦闘機。
ウォッカの自己紹介と同じR国流で、彼はそのニックネームを愛していた。
ジェレマイアは、目をつけた女性をとにかく酔わせ、速攻で攻める。
ターゲットは、軍の関係者だけ。
ジェレマイアに命を助けられた自覚のある者は多く、誰もが悪い病気と言うだけだった。
確かな犯罪だが、彼の軍歴とルックスが、彼を野放しにしていたのである。

「◎★△×☆◇〇%□!!!」
エマは、とにかく大声で叫んだ。獣の雄叫びである。
扉はすぐに開いた。なぜなら、これもよくあることだから。
ジェレマイアが女を連れ出した時点で、何人かが控えるのである。
入ってきた中には、例のブラウンもいる。
ジェレマイアは、いつもの顔ぶれを見ると、エマを軽く突き放し、ベッドに倒れ込んだ。
何も言わずに、布団を被る。ふて寝である。
ブラウンは、エマを部屋から出すと、部屋の照明を消した。
何も言わずに静かに扉を閉める。
ここまでが、狩りに失敗した日のジェレマイアのためのルーティンなのである。

程なくして、エマは異動になった。
異動先は、ジェレマイアと一切関わらない部隊。
それは、軍人としての出世コースから外れることを意味する。
ジェレマイアは何も言わないが、彼を拒むと言うことは、そういうことなのである。
ルーバンは大いに失望したが、エマは、ジェレマイアとの件については沈黙を守った。
ルーバンの思い出まで壊す気にはなれなかったのである。

そして、明日。たった一人の姉のオリビアは、まさにその男を父親にしようとしている。
エマは、ここに至るすべての判断に躊躇い、チェック・インした頃には、既に約束の時間が過ぎていた。
部屋に荷物を置き、レストランに向かうエレベーター。
やはり、エマは悩んだ。皆の輪に入る瞬間まで、正解が分からない。
下がっていく数字は、カウント・ダウンの様。
やがて、エマは決断した。彼女は、それが出来る人間なのである。
リアムとオリビアを祝福しない訳にはいかない。
ジェレマイアは外野。彼と二人きりにならなければ問題はない。
エマは、自分で自分に指示を出した。
ゴー、ゴー、ゴー、ゴー、ゴー、ゴー。
進軍あるのみである。

レストランのエントランスを抜け、案内されたテーブルに近付くと、ルーバンが立ち上がった。視線が厳しいのは、遅刻のせいだけではない。
しかし、ルーバンは、テーブルに並ぶ新しい家族には優しい笑顔を見せた。
「エマです。私の天使です。」
彼が紹介したのは、ジェレマイアの子供に対してで間違いない。
エマは、レイチェルと同じぐらいの笑顔を浮かべると、皆の顔を見渡した。喋るのはエマ。
「ハイ、エマです。好きなナイフは、オンタリオM11EODです。」
ドレスアップしている方が反応はいいので、間違えてはいない。リアムはいつも通り。
「今日はお手柔らかに。」
リアムの母親らしき女性の笑顔は美しい。
「久しぶり。大きくなったのね。」
彼女がエマの記憶にないのは、初めて会った日のジェレマイアと同じ。
温かい空気に満足したエマは、自分の席を探した。
ジェレマイア一家は次男のリアムを含めて男だけの六人兄弟。末っ子は長男夫婦の娘とほぼ年が変わらない。皆、ジェレマイア似である。
空いているのは、主役のリアムの正面だけ。
エマは、リアムと並ぶ、主役のオリビアにハグをしてから、席についた。
テーブル・ナプキンを広げながら、口を開いたのはエマ。笑顔を向けた先はリアムである。
「決め手は何?」
リアムは、とろける様な目でオリビアを見つめた。
「何って?一緒にいて、楽しいからさ。それに、こんな素敵な人には会ったことがない。」
エマは目を見開いてみた。質問は終われない。
「具体的には?料理の盛付けは?おいしそうなものを買ってきて、きれいに並べるわ。あれは才能よ。」
エマが写真をとるジェスチャーをすると、オリビアが笑った。
「やめて。皆、聞いてるわ。」
確かに、子供達まで揃って、エマを見ている。笑みを絶やさないリアムの視線の先だけは、オリビアの顔。幸せが溢れそうである。
エマは笑いが止まらなくなってきた。
「チェロはもう聞いた?私が聞いた頃は、まだ前衛的だったけど。」
妹の表情に我に返ったのか、オリビアも小さく笑った。
「それは秘密よ。」
おそらく、すべてが秘密。そして、とにかくリアムはオリビアを見つめている。
エマは、リアムを指さした。
「新しいお義兄さんに何か言っておくとしたら、オリビアの盲腸の手術は小学校の頃よ。姉はそんな人よ。」
エマのくだらない冗談を訂正したのはリアム。
「高校の時だ。」
三人は小さく笑った。
若い空気は愛するべきだが、黙っていられないのはルーバン。
ジェレマイアは、親友であると同時に同僚なのである。
「済まないな。ジェレマイア。」
「いいさ。本人達が楽しいのが一番だ。」
ジェレマイアの顔は赤い。明らかに酒が回って、ご機嫌である。
人の声がすると見てしまうもの。
エマは、自然とジェレマイアの方に視線を向け、その目が自分を見ていることに気付いてしまった。
ジェレマイアは、確かに微笑んでいる。
エマの背筋に悪寒が走った。
ルーバンは、エマを大人しくする方法を知っている。
「あれは見てくれだけで、何をやっても、やりきれなくてね。気持ちのままで、物事を深く考えない。思い付き。軍をやめたのもそうだ。まだ、自分に何か才能があると思ってる。」
庇ったのはジェレマイア。
「そんな事はない。あの自信に溢れた顔を見れば分かる。何をやっても、上手くいくさ。」
エマの人生を曲げたのはジェレマイアである。しかし、ルーバンは黙らない。エマの目が黙るまで、攻撃は終わらないのである。
同席する皆の不安げな視線を受けながら、エマは侮辱に耐えた。
「最初に君のキャンプから放り出された時も…。」
言葉を被せたのは、やはりジェレマイア。
「まあ、その話はいいじゃないか。彼女にもいろいろ思う所があったんだろう。」
ジェレマイアがエマを見て微笑んだ瞬間、エマの我慢は限界に達した。

エマは席を立った。怒鳴らないのはオリビアのため。
ルーバンは、最初にエマを見た時と同じ目を見せた。
「どこへ行く。」
エマは、ポーチを手に取りながら答えた。ルービンの顔を見る気はない。
「レイディーズよ。」
「先に済ませておけといつも言ってるだろ。」
さすがに笑えたエマは動きを止め、一度だけルービンを見た。
彼の決意は固い。決して、考えを変えないのが彼。父親としての覚悟が彼をそうさせることを、エマは知っている。
エマは、取敢えず身を隠すために、トイレに逃げた。
ルービンが始めたエマの批評は気にしない。実家に帰れば、必ず言われる事ばかりである。

エマがトイレを出たのは、インスタグラムのチェックを終えた頃。ある程度の時間は過ぎた筈である。
しかし、エマを迎えたのは最悪の事態。
ジェレマイアが、エマに向かって歩いてくるのである。
正しくは、ジェレマイアが目指す先はトイレ。
一秒で気付いたエマを襲ったのは次の問題。
“二人は、すれ違わなければならない。”
ある意味、二人だけの時間である。
Uターンは、テーブルに戻ってから会話が広がるかもしれない。
さり気なく通り過ぎるのが正解。エマは、決断の出来る人間なのである。
エマは、いつも通りの微笑みをつくると、ジェレマイアの脇を通り過ぎた。
彼女の足が直後に止まったのは、肘を掴まれたから。肌に食い込む太い指には躊躇いがない。
振返ったエマの目に映ったのは、笑顔のジェレマイア。
「口が堅いのはいいことだ。」
ジェレマイアに都合がいいとしても、今、それを言う意図が分からない。
エマが眉間の皺で不快感を伝えると、ジェレマイアはエマを引寄せた。彼の腕力に叶う女性はいない。
ジェレマイアは、エマの耳元で囁いた。
「後で、ウォッカで姉さんのお祝いをしよう。部屋番号は?」
きっと、ジェレマイアは頭がおかしい生き物なのである。
若い女を見れば、口説く。彼はそう決めている。例え、それが息子の結婚式の前日だろうと、家族がいようと関係がない。食事や排便と変わらないのである。
必要なのは、痛いぐらいに明確な拒絶。
エマは、ジェレマイアの頬を平手で打った。
想像以上に綺麗な音が響くと、周囲の目が二人に集まった。
面倒を大きくする気のないメートル・ディーが足早に動き出した直後、しかし、ジェレマイアはエマの頬を打返した。
ハンムラビ法典のまま。フェミニズムは彼の住む世界には存在しない。
エマは、鼻の下に温かい液体を感じた。
鼻血である。
エマが、体重をかけて、もう一度ジェレマイアの頬を打つと、ようやくメートル・ディーが二人の間に体を入れた。
ひとまず、暴力の時間は終わりである。エマにとっては、他にも何かが終わったかもしれない。
騒動に気付いたリアムとオリビアがジェレマイアの元に駈寄る頃には、エマはエレベーターに飛び乗っていた。

部屋に戻ったエマは、すぐに荷物をまとめた。
走って逃げるのである。
あんな男と一緒にはいられない。真っ平である。
しかし、それはオリビアの結婚式に出ないこと。
きっと、エマはもう親族の集まりには出られない。
トランクを閉めた直後、感情の高まりに背中を震わせたエマは、ベッドに座りこんだ。
涙がおさえられない。
すすりなくエマの部屋を誰かが訪れたのは、数分後。
ドアのベルが鳴ったのである。
エマは、覗き窓の向こうにオリビアを見つけた。一人だけに見える。
小さく扉を開けると、オリビアは優しく囁いた。
「私だけよ。」
エマは、涙を拭くと、扉を大きく開けた。

二人はベッドに腰掛けた。口を開いたのは、涙の残るエマ。笑顔だけは忘れない。
「何を聞いても無駄よ。拷問されても話さない。」
やはり、悲しい目のオリビアは、口元だけ付き合った。僅かな沈黙を破ったのは、オリビア。
「式には出てくれないの?」
「どうしよう。」
正直な気持ちである。エマは、また一筋の涙が落ちると、笑って頬を拭った。喋るのはエマ。
「ドレスはママの?」
「ええ。」
「やっぱり噴水は上げるの?」
「勿論。」
「リアムのダンスは下手?」
「ひどいわよ。」
エマは、軽く唇を噛んでから、口を開いた。
「見たいわ。」
二人は笑った。
エマの頭に浮かんだのは、レストランでリアムにしたのと同じ質問。絶対である。
「なんで、リアムにしたの?」
オリビアの答えは早い。
「△△△△だからよ。」
二人は、声を出して笑った。エマは、笑顔のまま、言葉を続けた。
「とっても素敵に見える。きっと、素敵な家族になるわ。」
オリビアは、一瞬、眉を潜めると、言葉を続けた。
「ええ。△△△△な子供と△△△△な孫に囲まれるわ。」
エマは、オリビアの笑顔を見つめた。
「私から見れば、姉さんも△△△△よ。」
「あなたもよ。」
エマがオリビアの腹を軽く突くと、二人は笑ってベッドに倒れた。
笑顔のエマが見上げたのは、天井画。絶対にどこかで見たことがあるが、詳しくは知らない。
オリビア達が親族のために選んだ部屋は、決して安くない。
ジェレマイアとその六人の息子達が親族になるのは憂鬱すぎるが、絶対に明日の式は最高に素敵になる。
エマは、明日のドレスをキャンセルしていないことを思い出した。
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