第60話 情調

文字数 3,343文字

アンジェリーナは、ジョンが失踪した後もずっと独りでいた。
ジョンの監禁の年月が二年を超えたのは、アンジェリーナがいつまでもジョンへの思いを断ち切れないでいたから。
彼女を見ていたサミュエルが、二人がすぐに元の鞘に納まると思ったからである。

馬鹿ではないアンジェリーナは、噂で大体のことを知っている。
ただ、彼女は耐えた。
優秀だが不器用な男。妄想が過ぎて、何も出来ない男。
例え、自分を探しに来なくても、何か理由がある。そう思えるのがジョンなのである。
そんな二人に訪れた今日の奇跡の理由。
それは、アンジェリーナがキリスト像の話を耳にしたから。
二人を引き合せた地元の有力者は、アンジェリーナのゴッド・ファーザー。
アンジェリーナが、敬虔なキリスト教徒だからである。

ジョンは、幻の様にも見えるアンジェリーナを客間に通した。
「座って。」
アンジェリーナがこの家を訪ねたのは初めてではない。
結婚が前提でないと付き合えないジョンは、好きになった女性を必ず親に会わせるのである。
内装のすべてが変わっても、昔と変わらないソファを見つけると、アンジェリーナは笑顔で腰を下ろした。
しかし、客を迎えた筈のジョンの口は、いつになく重くなった。
二人の空白の時間、地獄の様な生活を送ったジョンにとって、軽い世間話はあまりに白々しいのである。
先に口を開いたのは、沈黙に我慢できなくなったアンジェリーナ。
「大変だったみたいね。」
本当にそうである。ジョンが確かめる様に頷いた時、バーミリオン一色のキッチンからジェーンが現れた。
二人が庭にいる時から、すべてを見ていた彼女は、気を利かせてコーヒーを淹れたのである。
「久しぶり、アンジー。」
ジェーンは、カップを並べると、静かにソファに腰を下ろした。
久しぶりに再会した恋人同士に混ざってみる。確かな間違いの筈だが、ジョンに限ればこの方がいいと、ジェーンには分かっているのである。
「久しぶり、お母さん。」
普通の生活を送っていた二人は、日常生活の普通の出来事を、普通に喋り続けた。
ゆっくりと話は盛り上がり、笑い声も漏れる。
聞いていたジョンも、顔が次第に綻びる。
それは、彼が望んでいた団欒である。
ジョンは、ジェーンの背後に、様子を伺うジョニーを見つけると、顔を横に振った。
家族が揃うのは、流石にヘビーだと思ったのである。

やがて、ジェーンはコーヒーのお代わりを淹れるために、ソファを離れた。
来るべくして訪れた、ジョンの正念場である。
視線を散らしたジョンは、思い切って、アンジェリーナを見つめてみると、流れで口を開いた。
「あの日、君と会った後、すぐだったんだ。」
アンジェリーナは自然に答えた。二人が喋り続けることに、何の抵抗もないのである。
「事件が起きたの?」
「そう。事件はたくさん起きた。でも、僕にとって、一番の事件がそれだ。寝てしまって、目覚めたら、知らない部屋だった。そこから二年間の監禁。」
アンジェリーナは目を伏せた。
「そうね。私も驚いた。突然、連絡がとれなくなって。」
ジョンは、アンジェリーナの顔を覗き込んだ。
「そうだ。済まない。」
「謝らなくても。」
「連絡をとらなかったのは、悪かったと思う。ただ、混乱してたんだ。」
「また、事件があったんでしょう。」
「ああ、あった。」
「交通事故?」
「そう、事故。事故だ。僕は混乱してた。そのせいで、人が死んでしまった。」
「でも、事故なんでしょう。それも仕方がないわ。」
「そう。そうだった。仕方がなかった。」
その時、ジョンの頭に、あの日のエミリーの顔が思い浮かんだ。血の記憶は消せない。
「いや、僕は都合のいい事ばかり言おうとしてる。」
一瞬、黙ったアンジェリーナは、それでも言葉を探し出した。
「あなたは、何かの罪に問われた?」
ジョンが顔を横に振ると、アンジェリーナは言葉を続けた。
「じゃあ、そういうことよ。あなたは悪くない。あなたが言う事は真実だと思っていいのよ。」
「じゃあ、病院に入ったことは?」
「誰でも病気にかかることはあるわ。」
「心の病気は少ない。」
「心は脳でしょう。脳も体。風邪と変わらないわ。」
「でも、治ってないかもしれない。君に迷惑をかけ続けるかもしれない。」
アンジェリーナが黙ると、ジョンは静かに言葉を続けた。
「自分でも思ってるんだ。外の像を見てくれたら分かる。僕は、もうずっとあれを彫ってる。目的は、正直、よく分からない。ただ、彫っていられる。僕は、多分おかしいんだ。」
アンジェリーナは、静かにジョンを見つめた。
「そんな事ないわ。素晴らしい出来よ。あんな才能があったなんて。全然知らなかった。」
「僕もだ。驚いてる。」
思わぬ自画自賛にアンジェリーナが小さく笑うと、ジョンは罪悪感から逃げられなくなった。
もう隠していられない。無理である。
「正直に話すよ。監禁事件のあとの交通事故。あの事故で死んだ娘は、君と同じ顔をしてた。一緒に監禁されてた奴の話で、君だと思って、尋ねたんだ。君だとばかり思って話しかけたら、怖がられて、逃げられた。あの時の顔が、頭から離れない。」
早口かもしれない。とにかく言葉が溢れ出すのである。
アンジェリーナは、可哀そうなジョンのために、沈黙をつくった。
「その後、僕は逃げた。警察に行かずに、逃げたんだ。何故って、僕を監禁した奴らと君が仲間だと思ってたから。連邦捜査局に救われた後、死んだ娘と君が別人で、事件とも関係ないと聞いたけど、信じられなかった。それじゃあ、僕はただの人殺しだ。僕は、事件の真相が分かるのを待った。ただ、いつまで経っても、警察は何も言ってこない。僕は許されたんじゃない。違うかたちの罰を与えられたんだ。」
アンジェリーナは、静かにジョンを見つめた。喋るのは、やはりジョン。
「その後、僕は自分に言い聞かせた。警察は信じられない。君はあの時死んだ。何より、僕もあの時死んだ。もう、誰も相手にしてくれない。僕は、第二の人生をやり直さなきゃいけないって。今までとは全然違う生活さ。普通に働いて、普通に結婚して、普通に子供をつくって。でも、そこに君はいなかった。僕は、あの事件までの僕を自分から切り離すので、必死だった。罪から逃げたいから。卑怯だから。」
ジョンは、静かなアンジェリーナの顔を見ようとして、背後にジョニーとジェーンを見つけた。
心配そうである。
ジョンが静かに顔を横に振ると、どう伝わったのか、アンジェリーナが口を開いた。
「あまり、いい話じゃないわね。」
正直な感想にジョンが俯くと、アンジェリーナは言葉で追いかけた。
「それなら、正直に言うわ。私は、あなたがお金持ちになったって知ってる。この年で独身の女が、連絡ももらえなかったお金持ちに、勝手に会いに来たの。あなたの心が傷ついてることも知ってる。私は、自分が卑怯だと思ってる。いつか、あなたもそう思うわ。」
ジョンの視線が泳ぐと、アンジェリーナは優しい目で言葉を続けた。
「私も私の罪から逃げられない。私達は、きっと二人とも罪深いの。」
言葉のないジョンに、アンジェリーナは静かに微笑んだ。
「ゆっくり解決しましょう。大人が何年もいろいろ考えたんだから。多分、急には無理よ。」

それから間もなく、アンジェリーナはジョンの家を後にした。
ジョンは、彼女が座っていたソファと、空になったカップに、彼女の余韻を感じた。
生きていた。生きていた。生きていた。
ジョンは、頭の中で何度も繰り返した。
そして、次の大きな波。
アンジェリーナは自分を待っていた。
自分の妄想癖も困ったものだが、彼女の優柔不断も普通ではない。
彼女は、ジョンと一緒に何かに流されていたのである。
アンジェリーナが告白した罪は、今日、ジョンの元を訪れた以上、決して消えない。
彼女が救われるには、二人が幸せのまま人生を終えることしかない。
きっと、彼女はそう言った。
ジョンを待ち続けたアンジェリーナは、すべてを彼に託したのである。

ジョンの気持ちははやったが、しかし、何をするにしても、彼が今やるべきことは決まっている。
中途半端はいけない。キリスト像を完成させるのである。
ジョンは、石工用のあらゆる鑢を注文した。最高のカーブをつくらないといけないのである。
もしも、キリスト像が完成したら、次は何をするべきか。それが問題である。
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