第106話 居間

文字数 4,128文字

ジョンとアンジェリーナが結婚して、ジョンの職場の近くに引越してから随分になる。
アンジェリーナは妊娠八か月。胎児の性別は男。すべてが順風満帆である。
その日の二人は、いつもと同じ様にソファに並んで座り、テレビを見ていた。
ケレブルムである。
スカーレットの演説を黙って聞いていたジョンは、不意に法廷での議論を望むボタンを押した。
本当に投票する人間がいると思っていなかったアンジェリーナは、しかし、愛する夫に優しく語り掛けた。
「議論がいるの?」
ジョンはアンジェリーナを二度見した。
「当然さ。自分の国を野蛮国家なんていう奴らが決めたことを信じられるかい?」
アンジェリーナは笑顔で言葉を続けた。
「あなたの意見はどっちなの?」
ジョンの答えは早い。
「子供が戦争に行かないで済むんだ。誰も悩まないさ。」
アンジェリーナの反応を待つことなく、ジョンは身を屈めると、アンジェリーナのお腹に耳をつけた。ここ数週間の彼のルーティンである。
アンジェリーナは、ジョンの後頭部に話しかけた。
「じゃあ、議論なんていらないじゃない。」
喋るのは、アンジェリーナのお腹に耳を付けたままのジョン。
「頭でそう思ってても、議論をしたら、また違うんだ。学校で教えない、大人の世界だよ。今までに何度も国家的陰謀なんてあったけど、そういうのはこの手の奴らがやってるんだ。僕には分かる。そういう暗い部分が潜んでる。何か怪しい感じがするよ。この女は。絶対に、本心で話してない。専門家をもっと集めて、公の場で問詰めるんだ。」
「お腹の傍で、変なこと言わないで。」
アンジェリーナは、笑ってジョンを除けると、雑誌を手に取り、テレビから目を離した。
身を起こしたジョンは、テレビに向かって、一人で呟いた。
「そもそも変な投票だよ。どう考えたって、投票しろと言われたら、議論する方に投票する。やっぱり、おかしい。」

別のテレビの前には、アンダーソン夫婦がいた。
勿論、見ているのはケレブルム。
予めスカーレットから連絡を受けていたアーサーにとって、それはただの団欒の時間ではない。
番組を録画しながら、リアル・タイムでも見る。重要顧客であるスカーレットに、気の利いたコメントをするためである。
スカーレットの人柄を知る二人には、冷たい解説を求められる彼女の姿は苛めにしか見えない。口を開いたのは、我慢できなくなったビクトリアである。
「最後まで見るの?」
「仕事だからな。」
アーサーは、ソファに体を深く埋めながら答えた。ビクトリアの視線の先は、テレビからアーサーに移った。
「スカーレットが可哀そう。」
アーサーは、テレビの音量を少しだけ上げた。
「彼女も仕事だからな。」
ビクトリアは、アーサーに顔を近付けた。
「そんな仕事いらないわ。」
プレッシャーを感じて、小さく笑ったアーサーは、自由なビクトリアの目を見た。
「簡単な言葉だから言っただけさ。お金は大事だから、二度と言わないで。それはつまり、自分のテリトリーがどこまでと思うかさ。誰にも確認せずに、君の感情だけで判断していいのは君一人の事だけだろ。二人、三人、十人、百人、千人を代表した時には、自分の感情はあってない様なものさ。スカーレットは千人を代表していたいんだ。あれは、彼女が望んだ姿さ。」
アーサーの言い様は、まるで子供を諭す様である。
それはそれで嫌いではないビクトリアは、笑顔で言葉を続けた。
「体だけ大人の三才の子供が、人殺しをさせられるのよ。賛成する人なんていないわ。スカーレットがリードしたい千人は、どうしてそんなことを考えるの?」
テレビに一瞬だけ目を向けたアーサーは、やはり小さく笑った。
「そりゃあ、仕事だからさ。」
ビクトリアも笑った。笑いが治まる頃には、二人はもうテレビを見ていなかった。
「海に行きたい。C国のC島。」
「孤島だ。」
「世界遺産よ。」
「ダイビングか。」
「ハンマー・ヘッド・シャークに会えるわよ。」
「潮にもよるだろう。」
「ずっといればいい。」
「ずっとか。」
二人の矢継ぎ早のやり取りは、あっという間に、人生を左右する一大局面に至った。
理由は、金に困っていないからだけではない。
ステファヌスから逃げるために一度仕事を捨て、津波に追われた後、アーサーには、自分の人生がおまけの様に思えてならないのである。
生きている実感が得られれば、壊してはならないもの等ない。
それは、アーサーに辿り着くまで、長らく流離ったビクトリアの人生観と、ほぼ同じものである。
仕事は生き方を示す手段にすぎない。
愛するビクトリアが嫌がるなら、今の仕事に価値はないのである。
アーサーは、ビクトリアに少しだけ現実を見せた。本気かどうか確かめるのである。
「仲間には?スカーレットにはどう言う?」
「呼べばいいわ。」
ビクトリアに譲る気配は見えない。驚くほどに本気である。
暫くビクトリアを見つめたアーサーは、リモコンを手にすると、法廷での議論を望むボタンを押した。
職場のスカーレットは知らないが、二人が知る普段の彼女なら、それを望む筈。
そう思ったのである。
アーサーは、テレビを消すとビクトリアに優しく微笑み、スマートフォンを探した。

また、別のテレビの前。リビングのロー・シェンナのソファに座り、一人でテレビを見ていたのは中学生のエレノア。
見ているのは、何かの偶然でケレブルム。
玄関の扉に鍵を挿す音を聞くと、エレノアは、慌てて、法廷での議論を望むボタンを押した。
扉を開けて部屋に入ってきたのは、大学生の姉アリアである。
アリアは、毎日、この時間までウェイトレスのアルバイトをしている。家計を助けるためである。口を開いたのは、ニット帽をかぶったままの疲れたアリア。
「何してた?」
エレノアの答えは短い。
「テレビ。」
「勉強は?」
「済んだ。」
「嘘でしょ。」
「やることはやったわ。」
「何をやったの?」
「やることがないの。」
「そうでしょうね。」
軽く説教を始めようとしたアリアは、しかし、テレビに視線を奪われた。
今日一日、ブルーの集団に囲まれた彼女には、無視できなかったのである。
アリアは、エレノアの座るソファの背に手を置くと、しばらくテレビに見入った。
喋るのは、エイデン。
当たり障りのない彼の言葉が終わると、アリアはエレノアの頭に空手チョップをした。
「ヘイ!」
振返ったエレノアと一緒に笑うと、アリアは食卓に足を向けた。
郵便物の行先はいつもそこ。アルバイトから帰ると、郵便物をチェックするのは、彼女の日課なのである。
ようやく帽子を脱いだアリアは、髪に指を通しながら、メディアを斬った。
「分かった様なこと言ってるわね。」
アリアは、郵便物を一つ一つ眺めながら、エレノアに話しかけた。
「ママは?」
アリアとエレノアは、母親のデリラと三人暮らし。
父親が失踪した後は、ずっとそうである。
母親とアリアの収入を合わせると、貯金は出来ないが、何とか暮らせる程度の稼ぎになる。幾つかの仕事をかけもつデリラのスケジュールは変則的。
彼女の行方を確認するのは、やはりアリアの日課なのである。
何も知らないエレノアが沈黙を選ぶと、アリアは言葉を続けなかった。
その程度のことである。
間もなく、テレビがコマーシャルに入り、エレノアが食卓に目をやった時、アリアは一通の封筒を前に手を止めていた。
封がされていない時点で嫌な予感しかしない。
アリアは、眉間に皺を寄せながら、便箋を取り出し、開いた。デリラの汚い字である。
「親愛なるアリアとエレノア、
ママは、あなた達に謝らなければなりません。ママは、今まで自分の人生にきちんと向き合っていませんでした。毎日、何も考えずに、かけがえのない毎日を無駄に過ごしていました。
でも、とうとうママは気付いたのです。
人間は、小さなきっかけがあれば、誰でも輝くことが出来ます。ママは、とうとうそのきっかけを見つけました。
愛の種です。
ママは一度思い切って、輝いてみようと思います。そして、太陽の様に輝いてから、あなた達を迎えに来ます。
その日まで。
愛をこめて、
デリラ」
目を大きく開けて、アリアは呟いた。
「逃げた。あの女、逃げた。」
「誰が?」
「ママよ。」
「どこから?」
「ここから。私達からよ。」
エレノアが驚かなかったのは、彼女の中のアルファがアリアだから。口を開いたのはエレノア。
「どうするの?」
アリアは首を傾げた。
「心当たりはあるわ。」
「聞くわ。」
エレノアの言葉に、アリアの目がきつくなった。
「それ、あのブタみたいで嫌よ。いっつも言うけど、二度と言わないで。」
エレノアが口を閉じると、アリアは、脱いだばかりのニット帽を被った。
「連れ戻すわ。エズラよ。最近、ママはあの男の話ばっかりしてたでしょ。近所だからって、変に家にいると思ったのよ。」
顔を上げたエレノアは、アリアを不安げに見つめた。
「連れ戻したら、また、家族に戻れるの?」
アリアが動き回っているのは、通帳があるか捜すため。忙しいアリアは適当に答えた。
「一緒に住めば家族よ。もともと家族なんだから。」
アリアを見つめていたエレノアは、静かに護身用のゴルフ・クラブを手に取った。
姉が武器を探していると思ったのである。視界の端のサプライズに、アリアは小さく笑った。
「確かに、エズラ相手に手ぶらはないわね。」
アリアは家の中を見回した。
「でも駄目よ。そんなのじゃ。あいつの家に着くまでに私達が捕まっちゃうわ。ママが、昔、買ったスタン・ガンがあるでしょ。あれを出して。」
エレノアは、よく躾けられた犬の様に走り出した。
エレノアを待つ間、アリアはテレビを見た。
画面の中では、スカーレットが大袈裟な持論を滔々と語り続けている。
自分にはまったく関係ない世界の大問題。
アリアとエレノアは、デリラだけではなく、この世から置いていかれたのかもしれない。
不意に冷めたアリアは、リモコンを手にすると、テレビを消した。
間もなく戻ってきたエレノアの手には、頼んだ通りにスタン・ガンが握られていた。エレノアは何でも知っているのである。
アリアは、エレノアに優しく語り掛けた。
「ありがとう。じゃあ、行くわよ。」
アリアとエレノアは、母親を取戻す戦いのために、エズラの家を目指して街に出た。
二人は、ブラック・ドットに消えたコービンが残した娘である。
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