第74話 至福

文字数 5,746文字

アイクの去ったインガーソル家。キリスト像の破片は、至る所に散らばっている。
殺伐とした空気の中、ジョンはアイクという男を語り、アンジェリーナはそれを理解した。
ジョンのアイクに対する分析は、つまりこう。
端的には、アイクは自己中心的で、自分の世界を大切にする男。
一度頭に入れた既成概念を崩されることに我慢できない。
そんな面倒な彼が生まれた理由は、彼の美貌と屈折した態度で一目瞭然である。
やはり類まれな美貌を持つ両親のために不幸な家庭で育った彼は、早い段階で家の外に愛を求めた。大した教育も受けず、見た目だけで甘やかされた彼は、世の中を浅く眺め、自己愛を追究する単調な思考回路を育んだ。
発想は常にシンプルなので、相手を否定し続ければ、議論で勝つこともある。それが、彼の謎の自信の源。
しかし、偽りの自信は、それとは不釣合いなまでに貧相な彼の人間性が露見すると、一瞬で崩れ落ちてしまう。何の準備もない彼は、唐突に常識の砦の最期を感じ、ついには激高する。
それは、あくまでもジョンの分析。
耳を傾けていたアンジェリーナは、静かに口を開いた。
「あの人は繊細過ぎるのね。」
ジョンは、眉を高く上げた。ほぼ、発作。胸が詰まる様な気がする。
言葉を失ったジョンに、アンジェリーナは言葉を続けた。
「何?」
ジョンは、アンジェリーナを見ると顔を横に振った。
「いや。」
長い話の後、自分の相槌で黙られると気になる。アンジェリーナの気持ちはそのぐらい。
「何?」
同じ問いを耳にすると、ジョンは優しい笑顔を浮かべた。彼の謎の反応の理由。
アンジェリーナは、暴言をまき散らし、キリスト像を砕いたアイクを受け入れて見せた。
ジョンは、そんな事は自分にしか出来ない難行だと思っていたのである。
後ろめたさと常に背中合わせのジョンにとって、これ以上の人材はいない。
付き合い始めた頃にも思ったが、ジョンは、改めて、アンジェリーナが好きになったのである。
「何?」
笑顔のアンジェリーナが追いかけると、ジョンはもう一度だけ微笑んだ。
アイクの理解不能な暴力は、ジョンにとって、決して無駄ではなかったのである。

程なくして、ジョンはキリスト像の修復を終えた。
アンジェリーナが十時のお茶を庭に運んだ時、ジョンは、マスクを外しながら、小声でそれを教えたのである。
「終わった。もうどこも気にならない。」
ジョンは、歓喜の声を上げる事はなかった。彼の言葉の通りで、そんな段階は、もうとっくに過ぎていたのである。
アンジェリーナには、数日前から何をしているのか分からなかったぐらい。すべては、ジョンの気持ち次第だったということ。
トリプルJとアンジェリーナは、慈愛の顔を決して崩さないキリスト像を見上げた。
滑らかな曲線が、光の輪さえ見せる。
自分達の将来には、絶対に幸せが待っている。
四人が、本当にそう思えた瞬間である。

ジョンのメイン・バンクであるB銀行の経営が破綻したのは、それから間もなく。
ステファヌスの悪戯であることを、ジョンが知る由もない。
新聞でそれを知ったジョンは、無駄と知りつつB銀行を訪れた。銀行の前には、解雇された行員と客の山。想像していた通りのビジョンである。
間もなく、ジョンは、エントランスの傍らに座り込んでいたジョンの元担当を見つけた。
ジョンが近付くと、視線の合った彼は不意に喋り始めた。
「G国の戦争に金をつぎ込んでたんだ。中央情報局が詰めてたけど、ジョークじゃなかった。世界の平和を愛するブルー・ブラッドが、皆で一度に金を引出したんだ。」
とっくに、言い慣れた言い訳である。
まったく知らない世界のことと言ってるのかもしれない。
ジョンは、男の傍らの段ボールを見つめた。
「それなら、仕方ない。いい夢を見たよ。また、頑張るさ。」
元より、人からもらった金。
幾らか金を残しているジョンは、まだ人を許せたのである。
しかし、世界有数の大銀行であるB銀行の破綻は、世界経済をまたたく間に飲み込み、ジョンは、ほぼ全財産を失った。

ジョンは、金の力を思い知った。
何故なら、アンジェリーナに会えなくなったから。
彼女の問題ではない。ジョンの不安定な心のせい。
何一つ変わらないアンジェリーナの笑顔に耐えられなくなったジョンは、彼女を遠ざけたのである。

そんなある日、近所のバラ園のベンチに集まったのは、ジョニーにジェーンにアンジェリーナ。
家族になるとばかり思っていた三人である。
口を開いたのは、満開のバラに囲まれるジョニー。
「分かってほしい。あいつは馬鹿なんだ。妄想が過ぎる。多分、今はそういう気分なだけだ。」
アンジェリーナは、優しく微笑んだ。
「そうだといいけど。」
ジェーンは悲観的である。
「でも、あの子は、早くしないと、自分から別れるとか言うわよ。無職のくせに。」
ジョニーも頷いた。
「ああ、無一文のくせに偉そうに。」
アンジェリーナは、笑顔で顔を横に振った。
「私も、お金なんてもってないわ。」
ジョニーは言葉を急いだ。アンジェリーナを傷つけるつもりはないのである。
「俺も金はない。まあ、俺はともかく、人間、金だけじゃない。あんたは働いてる。あいつはアホだ。」
やはり笑顔のアンジェリーナが視線を逸らすと、ジェーンも続いた。
「お願いよ。今、あの子を見捨てないで。やっと、立ち直れそうなの。」
アンジェリーナは、親のエゴを許した。
「分かってる。分かってるわ。」
その瞬間、アンジェリーナの目の前を横切ったのはアゲハチョウ。
驚きに仰け反ったアンジェリーナが、静かにアゲハチョウを見送ると、ジェーンは、アンジェリーナの手を握った。
「私達は家族よね。」
流石に遠慮したのか、苦虫をつぶしたジョニーの顔を見ると、アンジェリーナは小さく微笑んだ。
「お母さんがそう思ってくれるなら、そうよ。」
三人は、バラの香りに包まれながら、ジョンの将来について、語り合った。

鉄は熱いうちに打つもの。
次の日曜日、アンジェリーナが頼ったのはゴッド・ファーザーのロビンス。
彼女を、ジョンと引き合せた男である。
ミサの片付けの後、アンジェリーナは、人の輪から偶然はぐれたロビンスに話しかけた。
「話があります。」
ロビンスは全てを受け入れる男である。
「いいよ。オーダ。」
因みに、オーダはアンジェリーナの洗礼名。アンジェリーナは、周囲を気にすると口を開いた。
「グッド・ニュースとバッド・ニュースです。」
「悪くない。」
ロビンスが優しい笑顔を返すと、アンジェリーナは気持ちを固めた。
彼女が話したのは、ジョンと彼女の交際が続いている事と、そのジョンが無職の上、無一文になった事。
暗に、ジョンを紹介したロビンスを責めてみたのである。
動きを止めたロビンスに、アンジェリーナは優しく微笑んだ。
「彼を支えたいんですが、私には力が足りません。」
優しい気持ちだと分かると、言葉は違って聞こえるものである。
顎を上げたロビンスは、アンジェリーナに笑顔で応えた。

そして、水曜日のミサ。金のないジョンも参加できる曜日である。
ジョンは、ロビンスに呼び止められた。
「ジョン。ちょっと、いいか。」
断る理由のないジョンは、笑顔で椅子に座った。
「どうぞ。僕には時間だけはある。」
続いたロビンスは、小さく頷いた。
「ああ。他の皆と同じにね。」
ジョンは苦笑いを浮かべた。
「いや、僕は皆とは違うんです。」
「どこが?」
「言った方がいいですか。」
「折角だ。話してほしい。関心がある。」
「関心?僕に?」
「ああ、ある。オーダの恋人の君にだ。」
ジョンは戸惑いに口を閉じるのを忘れたが、すぐに言葉を続けた。
「僕が何か言っても、彼女には…。」
「勿論、言わない。君が望めばね。」
ジョンは何度か頷いた。
「僕が人と違う理由は…。」
「君が人と違う理由は?」
「今、仕事がないんです。」
「だろうね。」
「知ってたんですか。」
「いや、キリスト像を彫ってばかりいると聞いたから。それはね。」
「それだけじゃないんです。」
「聞こうか。」
「金もなくなったんです。」
「金が?幾ら?」
「びっくりする様な額です。聞かないで下さい。」
「それで時間だけはあるって?」
「そうです。何もない。あるのは時間だけですよ。」
ロビンスは首を傾げた。
「何で?」
「何でって、分かるでしょう。」
「分からない。」
「逆に何で?」
「いや、仕事がないんだろう。」
「ええ。」
「働かないと駄目じゃないか。」
ジョンは、口を開けるのを止めた。喋るのはロビンス。
「君は精神病院に入ってた。訴えられたこともある。確かに立ち直れそうにない。じゃあ、残りの人生を、全部諦めるか。」
ジョンが沈黙を守ると、ロビンスは言葉を続けた。
「オーダは?」
ジョンは俯いた。決して、胸は張れない。
「彼女には、幸せになってほしいと思います。」
ロビンスは、ジョンとアンジェリーナを知っている。
「彼女は、多分、君とずっといると思うよ。どうする。彼女の稼ぎに頼るのも一つの道かもしれない。」
「いや、彼女はまだ先があるから。」
「君にもある。」
「ふざけないで下さい。僕はもう終わりだ。仕事も見つからない。」
「その気になれば、何とかなるだろう。」
「何でもいい訳じゃないんです。笑うでしょう。プライドが許さない。」
ロビンスは、すべてに正直なジョンに微笑むと、準備していた話を披露した。
仕事の紹介である。
ロビンスの知る優しい人達の輪が、立ち直るチャンスをくれたのである。
あくまでもチャンスだけ。
ジョンの仕事。それは、監禁される前の彼の職業である教師。まずは任期付きである。

次の日曜日。
アンジェリーナが当たり前にインガーソル家を訪ねると、キリスト像に、ジョンがもたれ掛かっていた。最近は、ほとんど会えなかったジョンの顔は、かなり前から彼女を見ていた。
何なら、待っていたのである。
アンジェリーナが近付くと、ジョンの顔にゆっくりと笑顔が浮かんだ。口を開いたのはアンジェリーナ。
「久しぶり。」
ジョンは静かに頷いた。
二人は、キリスト像の足元に並んだ。
「僕は、駄目な人間なんだ。」
ジョンの唐突な告白に、アンジェリーナは顔を横に振った。覚悟はしていた事である。
「完璧な人間はいないわ。」
ジョンの言葉は終わらない。
「いや、僕は何かを間違えた訳じゃない。卑怯なんだ。」
アンジェリーナが沈黙を守ると、ジョンは言葉を続けた。
「就職できた。教員だ。」
アンジェリーナは、知っている話に驚いて見せた。
「凄いじゃない。あなたは頭がいいから。」
ジョンは顔を横に振った。
「いや、それはロビンス神父のお蔭だ。彼が、自分の信用を僕に賭けてくれただけだ。」
「そんなものよ。賭けてくれる人がいるんだから、あなたは凄いの。」
「じゃあ、いい。そういう話じゃないんだ。僕が卑怯だって話だ。」
アンジェリーナが苦手な響きに戸惑うと、ジョンが口を開いた。
「無一文になったのに、君と一緒に暮らすことを思ってる。かたちだけ働いて、君に食わせてもらおうとしてる。それが本心だ。卑怯なんだ。」
アンジェリーナは、覚悟を決めた。ロビンスの報告で期待していたのは、こんな話ではない。
「卑怯だとしたら、それじゃないわ。最初に言ったでしょう。私は、あなたがお金持ちになったって知ってて、会いに来たって。あなたの心が傷ついてることも知ってる。私は、自分が卑怯だと思ってるって。」
忘れていた自分に嫌気がさしたジョンは、眉間に皺を寄せた。喋るのはアンジェリーナ。
「あなたの話の先に、私が別れるって言ったら、その後、どうなるか分かるわよね。お金がなくなった途端に別れるなんて無理でしょう。あなたは、そんな時に別れる様なことを言って、別にいいと言わそうとしてる。卑怯なのはそこよ。」
ジョンは、静かに頷いた。
「そうだ。それも正解だ。君はどうだ。お金がないと嫌かい。」
アンジェリーナは小さく微笑んだ。五秒後の彼女の声に力はない。
「ええ、やっぱり嫌ね。」
ジョンは、目を瞑るとやはり微笑んだ。アンジェリーナも正直である。言葉で追ったのは、その彼女。
「でも、あなたと別れるのも嫌よ。」
ジョンは、薄く目を開けると、何度か頷いた。
「そんな気がする。僕もだ。考えたんだけど…。」
アンジェリーナの瞳が近付くと、ジョンは笑って顔を背けた。
「この状況は、結婚に似てると思う。恋人同士なら、二人の波長が合う時だけ、一緒にいればいいかもしれない。ただ、僕達の関係は違う。付き合い始めた途端に引き離されてしまったから、頭の中でお互いを理想化してた。多分、その気持ちが本当か確かめたかっただけなのに、金が絡んで離れられなくなってしまった。」
アンジェリーナは笑顔で口を挟んだ。
「そこまではっきりは言わないわ。」
空を見つめていたジョンは、何かを不意に思いついた。
「すべての見え方を変えたらどうだろう。」
アンジェリーナは何度も頷いた。彼女には思い描いたビジョンがある。
「そうね。もしも今二人が結婚したら、お金のことで、人目を気にしなくて良くなるわ。別れたいときに別れられる。何より、あなたが私といていいか悩む、謎の時間はなくなるわ。」
ジョンは、キリスト像を見上げた。
「これは、世界で一番打算に満ちたプロポーズだ。しかも、キリスト像の目の前で。」
アンジェリーナが見たのは、キリスト像ではなく、ジョンの横顔である。
「プロポーズするの?」
キリスト像を見上げていたジョンは、僅かに動きを止め、間もなくアンジェリーナに向き直った。
「うん、する。決めた。」
「指輪は?」
「ないけど、キリスト像がある。それらしいだろう。」
「そうね。状況は、これ以上はないわ。」
「じゃあ、言うよ。」
「その前置きって、いるの?」
笑顔のジョンは、大きく深呼吸をすると、彼がいつか想ったプロポーズの言葉を口にした。アンジェリーナは満面の笑みを返すと、ジョンの体に優しくもたれかかった。

心の安らぎを手に入れたジョンは、静かに言葉を選んだ。
「これからだよ。僕が言うのも何だけど、これから先、君は苦労する。僕は問題だらけだ。」
アンジェリーナは、それでも笑顔を返した。彼女の瞳は、再開して以来、一番大きくなった。
「私の方こそ宜しく。急がないで。家族皆で、のんびりやりましょう。」

きっと、アンジェリーナの気持ちに嘘はない。
ジョンは、大金を失った後、自らのささやかな願いを叶えたのである。
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