第34話 覚醒

文字数 5,505文字

サミュエルの長い話が終わった。
デ・グラーフ兄弟にアレクサンダー。
金持ちは狂っている。
それが、ヘクトルの飾らない感想。
どんなに崇高な使命のためだろうと、どんなに深い愛のためだろうと、人間にはやってはいけないことがある。
破ってはいけないからモラル。
間違っているのはラファエル。そして、サミュエルなのである。

ヘクトルの気持ちが、やはりその目に現れると、サミュエルは眉を潜めた。
「ヘクトル。分かってほしい。絶対に詮索してほしくないんだ。」
次の瞬間、サミュエルは何かを心に決めた。
厳しい口調に変わったのが、その証。
「それなら、最後の秘密を話そう。今から言うことを聞いて、納得してほしい。これ以上はない。」
ヘクトルには分からないが、それは特別な話。
ラファエルのAIがサミュエルだけに教えた、ラファエルの両親の死についてである。

ラファエルの父親は、ローデヴェイクの支援を受け、クローンの研究を続けていた。
ここに、彼をアダムと呼ぶ。
当時は空想に過ぎなかったクローン研究にローデヴェイクが大金を投じたのは、死期の近い父親と、ある約束をしていたから。
“万が一、彼を延命できた場合は、全財産を長男であるローデヴェイクに譲る”
二人の息子への平等な愛は真理だが、数千億ドルの資産を分割し、未来永劫続く権力を分散することにも、微かな疑問があったのである。
ローデヴェイクにとって、その金は不滅の源。別次元の報酬である。
そうと知らないアダムは、誠実に実験を重ね、敢えて急がず、全ての要因をしらみつぶしに確認し、誤りがあれば前に戻った。
完璧を期したのである。
やがて、医者が宣告した余命より数か月長生きしたローデヴェイクの父親は、自然の摂理に則り、この世を去った。
ローデヴェイクは、人目をはばかることなく号泣したが、それは父親への純粋な追悼の意だけではなかった。

ローデヴェイクは、相続の手続きを済ませた午後、ボディー・ガードを連れ、アダムの研究室を訪れた。
抜き打ちである。
自分の買い与えた備品の並ぶデスクの向こうで、アダムが振向くと、ローデヴェイクは手を伸ばし、すべてを押しのけながら歩いた。
床に落ち、音を立てて砕けるサンプル。踏み砕く靴の波。
非日常の始まりである。
「ヘイ、ヘイ。」
理解できないアダムが駆け寄ると、ボディー・ガードはローデヴェイクとアダムの間に壁をつくった。口を開いたのはローデヴェイク。
「気にするな。また、買えばいい。」
「そんなもんじゃ…。」
小さな抵抗を見せようとしたアダムは、ローデヴェイクの冷たい目に気付いた。
いつもの彼ではない。
「そうだろう。失敗したら、何回でもやり直す。時間が幾らかかってもいい。完璧なものが出来るまで。」
決して褒めてはいない。
「何を…。」
最後まで喋れないアダムに、ローデヴェイクは呟いた。
「十一桁は大金だ。」
とうとう言葉を失くしたアダムを、ローデヴェイクは言葉で追いかけた。
「おそらく、父は最後に私に失望した。」
アダムは、静かに確認した。ローデヴェイクが現れた理由を、何となく理解したのである。
「私はクビですか。」
笑わない目でアダムを見つめたローデヴェイクは、眉間に皺を寄せた。
「甘えるな。これだけ金をかけて、出来なかったと言えば、済むと思ってるのか。」
具体性のない言葉に、アダムは耐えられない。
「それなら、どうなるんですか。」
ローデヴェイクは、無言でアダムを見つめた。
長い沈黙にアダムが口を開こうとすると、ローデヴェイクはそれを遮った。
「ラファエルの精巣を奪った。お前の妻の卵巣もだ。子供や孫がほしければ、お前の仕事をやれ。」
気持ちばかりが勝って、目を見開いたアダムは喋れない。
虚しく喘ぐ口を見ると、ローデヴェイクは静かに言葉を続けた。
「本気でやれと言ってるんだ。お前の研究の真似事のせいで、私の父はこの世から姿を消した。もう帰ってこない。正気なら意味が分かる筈だ。」
「そんな無茶が…。」
アダムが声を震わせても、ローデヴェイクは構わない。
「私には子供がいないが、それなりに幸せはある。私を殺すよりは、開発に全力を注げ。上手くいった時には、お前の人生が華やぐ。ただ、急いだ方がいい。ラファエルには時間があるが、彼に弟か妹をつくりたければ、残りの時間は少ない。」
アダムは、非情に見えるローデヴェイクをすがる目で見つめた。
雇う者と雇われる者の関係として、これは正しくない。
絶対的な理不尽。
誰もがそう思える時間。
やがて、アダムは不意に走り出した。
目指したのは家。自分のために犠牲になった、愛する家族の元である。
走り出す彼の背を、ローデヴェイクは追わなかった。

家に戻ったアダムは、ソファで遊ぶラファエルと妻を見つけた。
ここに、彼女をイブと呼ぶ。
「イブ!イブ!」
呼びかけずにはいられないアダムは、近寄るとイブの両肩に手をかけた。
「大丈夫か。」
驚くイブは、頷きながら口を開いた。
「何?どうしたの?」
「ラファエルは?」
呼ばれたラファエルがアダムに飛びつくと、アダムはラファエルの頬に口づけをした。
「ラファエル。大丈夫か。怖い目に遭ってないか。」
ラファエルが答えるよりも、イブが早い。
「大丈夫よ。一体、何?」
ラファエルを見つめるアダムは、何度かイブを振返ると、やっと一つの結論に至った。
ローデヴェイクの言葉は、嘘だったのである。
言ってみただけ。
ブラフ。
愛する二人を交互に抱きしめたアダムは、脳を引き摺る様に、自分の人生を振返った。
一瞬だろうと、アダムはローデヴェイクの言葉を信じた。
彼は、永遠を断ってみせると言う男。
一度きりの人生を、そんな男のために使う必要はない。絶対である。
逃げるべきか。
逃げても、あの男は絶対に追ってくる筈。
そうは言っても、研究は進んでいる。今さら振出しに戻る気にはなれない筈である。
アダムは、自分を見つめるラファエルの顔を見ながら、一つの決断をした。
それは、ラファエルのAIも明かさない事。
その夜、研究室に忍び込んだアダムは、その何かをすると、家族を連れ、町を出た。

ローデヴェイクは、ラファエル一家をどこまでもどこまでも追わせた。
感情の問題ではない。
時に汚れた仕事にも手を染めるローデヴェイクが、デ・グラーフ・グループをリードし続けるために必然。
その何かは、そういう事だったのである。
一家はある程度の金を持っていたが、国境を越えようが、名を変えようが、何か月経とうが、ローデヴェイクには関係がない。
ある夜の地球の裏側。
ラファエル一家は、自宅で寝ている間に、粘着テープで巻かれた。
薬剤で深い眠りに落ちたのは数分後。
彼らを運んだダーク・スーツの集団は、二十人以上いた。

目を覚ましたアダムは、自分の足がコチニール・レッドの絨毯の上に投げ出されていることに気付いた。
隣りにはイブ。
顔を上げたアダムは、取敢えず、ゴシックの内装を見つけた。
但し、一面だけ、ガラス張り。
その向こうは伽藍洞。
壁紙もない殺風景な世界には、ローデヴェイク達と幼いラファエル。
分かり易い人質であるが、シチュエーションがイメージと逆。
アダムはイブを揺らした。
「起きるんだ。起きてくれ。」
揺られたイブは薄目を開けたが、薬の効果は思いのほか強い。
アダムは、改めて自分の体にもたれたイブを抱えたまま、ローデヴェイクを見つめた。
ラファエルは、目を開けてはいるものの動かない。
あの年の子供なら薬のせいか何か。卑怯である。
「久しぶりだな。」
口を開いたのはローデヴェイク。
イブの瞳が揺れると、アダムは声を上げた。
「N国語で話してくれないか。家族が怖がると嫌だ。」
ローデヴェイクは、アダムとイブを眺めると、小さく笑った。
アダムは、N国語で嘆願した。ローデヴェイクはインテリ。話せば分かり合える。アダムには、そう思えたのである。
「ラファエルを返してほしい。」
ローデヴェイクは眉を上げ、そしてN国語で言葉を返した。
「そこに?」
アダムが小刻みに頷くと、ローデヴェイクは厳しい顔を選んだ。
「断る。」
ローデヴェイクは言葉を続けた。
「君のしたことを考えたら分かるだろう。私は言葉で罰しただけなのに、君は全てを壊した。金の問題ではない。精神的には、私が人生を捧げてきた全てを君は壊したんだ。」
長いN国語に、恐怖をつのらせたイブは、目を大きく見開いた。
アダムは、ローデヴェイクを凝視し、話の先を見守った。
「世界の被った損害を思えば、ゆっくり君の体を刻むことも出来るが、これは君達が騒ぐ。こちらも見ていて気分が悪くなる。不公平だ。」
アダムは、何となく事態が自分の予想と違っていることを察した。
顔色がどう変わろうと、ローデヴェイクは何物にも囚われない。
「酸につけるのも美しくないし、高温の焼却炉は窓が小さくて何のことか分からない。そこでだ。私は考えた。こちらの決意が一度だけで済むが、長い苦痛が与えられる方法。しかも、美しい方法だ。」
アダムは、言葉の分からないイブが手を握ってくると握り返した。何故なら、アダムにはそのぐらいしか出来ないから。
アダムは、微笑むローデヴェイクがつくったサディスティックな沈黙に耐えた。
その時だった。
壁の外から轟く様な咆哮が聞こえてきた。絶対に獣のそれ。
アダムとイブは、咆哮が聞こえた壁から離れ、その壁をじっと見守った。
空気を揺るがす雄叫びに、何が起きるかを知るローデヴェイクさえも本能で恐怖し、笑顔を歪めた。
やがて、壁の一部が開いた。
部屋の中に入ってきたのは、オスのライオン二頭。
美しい鬣。それが、オスの選ばれた理由である。
「※◎△◇☆!!※◎△◇☆!!※◎△◇☆!!※◎△◇☆!!※◎△◇☆!!」
「□♧◒✠◎!!□♧◒✠◎!!□♧◒✠◎!!□♧◒✠◎!!□♧◒✠◎!!」
アダムとイブの絶叫は、誰にも意味が分からなかった。
二頭は、大きく跳ねるとイブを押さえつけたが、一頭が彼女の首を咥えると、残りの一頭はアダムに狙いを変えた。
跳躍するライオンは、ゴシックの部屋を黄金に彩る。
アダムは一瞬謝った様にも見えたが、すぐに目から意識を消した。
ライオンの食事が始まると、ローデヴェイクは、A国語で高らかに声を上げた。
「彼らは文明社会を捨て、食物連鎖の輪に戻った。百獣の王に倒されたのだ。」
おそらく、百獣の王は彼。
デ・グラーフ・グループの絆は盤石。
ローデヴェイクは、傍らのラファエルの耳元で囁いた。
「あの内装は、F国の古城を改装したホテルのスイート・ルームを再現したものだ。特別な場所だ。私は幼い頃、大切な日に父に連れて行ってもらったが、アダムの研究が成功した時には、君達一家を招待したかった。」
ローデヴェイクの言葉は優しいが、その内装を見るためには、ライオンの食事を見なければならない。
動けないラファエルは、ただ、瞳に映る地獄を眺めた。
続け様にローデヴェイクの口からこぼれたのは詩。F国語である。

「ここは小川がせせらぐヴェルトの窪地

 草は銀の切れ端のようになびき
 太陽は山の頂から光を注ぐ
 ここは光あふれる小さな谷間

 若い兵士が眠っている
 口をあけ帽子も被らず首をクレソンに埋めて
 大空の下 草の上にのびのびと横たわる
 青ざめた唇には光が雨となって降り注ぐ

 足をグラジオラスの茂みに埋め
 子供のような笑みを浮かべて若者は眠る
 自然よ この冷たくなった若者を暖めておくれ

 どんな香りももう若者の鼻にただようことはない
 若者は陽光の中で静かに眠る
 手を胸に 脇腹には二つのルージュの穴を抱えて」

明らかに場違いな詩に、ヘクトルは声を上げた。
サミュエルの語る言葉だとしても、グロテスクの限界。
「それはランボーの詩だ。若い詩を。体が残ってたのか。」
皮肉な笑みを浮かべたサミュエルは、長い話のゴールを口にした。
「ラファエルは、幸せな家族を再現したかっただけだ。駄目だろうか。」

ヘクトルは心の中で叫んだ。
ローデヴェイクの〇〇〇〇!!!
〇〇〇〇!!! 〇〇〇〇!!! 〇〇〇〇!!!
なんて酷いことを。
そして、可哀そうなラファエル。
いつか見た地獄。
幼い日に狂った彼は、それに勝るとも劣らない悲惨な実験をやり抜いた末、ライオンから逃げるために、人としての生涯を捨てたのである。
子供も持てない彼が、人生をやり直したいと願って、誰が責められたろう。
人の子ではないクローンが、自分と同じクローンでその夢を叶えようとして、間違っていると言えるだろうか。
ヘクトルの脳は、つらい話にダメージを受けた。
重く、熱い。
ヘクトルの顔をじっくりと観察したサミュエルは、静かに立ち上がった。
魔法にかかったことを確信したのである。

サミュエルが姿を消したエントランスを見飽きると、ヘクトルは身の回りを見渡した。
皆が目覚めるのは、まだ先のこと。
ヘクトルはサミュエルを責めない。
確かな事はそれだけ。
警察も呼べないし、その場を離れる訳にもいかない。
誰もいないレストランで、静かな時間だけが過ぎていく。
やがて、ヘクトルは、順に目を覚ました皆に、自分が耳にしたままに話を聞かせた。
何故なら、これ以上の詮索をあきらめさせるのに必要な事だから。
デ・グラーフ兄弟の話もそう。
キーマンである彼らの話を省くことは出来ない。
誰もが虚脱感に襲われた。
アーサーもビクトリアも、スカーレットもロレンツォも。
心の闇からは、誰も逃げられない。
議論もなく、連邦捜査官のロレンツォを含めた皆が、これ以上の詮索を諦めた。
絶対に、損しか待っていないからである。

一人、また一人と店を後にし、日常へ戻って行く中、ヘクトルは小さな不安を感じた。
デ・グラーフ兄弟の犯罪。
サミュエルがああも勿体ぶった話を口にした自分が、少しだけ怖くなったのである。
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