第43話 契約

文字数 3,866文字

エマを警察から連れ出した弁護士はフィリップス。
スマートな彼は、スーツ・ケースを転がすエマを、何も言わずに喫茶店に連れて行った。
二人掛けのソファは皮張り。とにかく強烈なトマト・レッド。
ロッソ・アリカンテのテーブルに、ゴールドのファン・シーリングが緩い風を送る。
ブラウン管風のテレビはゴールド。多分、アクセント。
フィリップスの趣味には決して見えない。エマがそう見えているなら、間違いである。

言われるままにソファに腰かけると、フィリップスは隣りに並び、エマは少しずれた。
「誰か来るの?」
それ以外は考えられない。フィリップスは、小さく手を挙げ、エマの言葉を遮った。
声がしたのは背後から。男の声である。
「もう来てる。」
振返ろうとしたエマに、フィリップスはもう一度手を挙げた。見てはいけない。そういうことである。
見えない男は言葉を続けた。
「僕は、ヨシュアを小さい頃からずっと見ていた。君が会うずっと前からだ。彼が僕を知っているかどうかは別にして、ほぼ一緒に育ったと言ってもいい。」
異常である。エマが眉間に皺を寄せても、見えない相手には通じない。
「僕の仕事のほとんどは、彼に何かあったらボスに報告することだった。だが、今日の彼の死でそれも終わってしまった。」
立上ろうとしたエマは、今度はフィリップスに肩を押さえられた。
「ヨシュアを殺したのは、あれはプロだ。君も分かったと思う。大体、犯人は分かってる。方法から推測する限り、これは宣戦布告だ。」
自由になるのは口だけ。エマは学習した。
「あなたは、ヨシュアの兄弟か何か?だいたい、…。」
ヨシュアが孤児であることだけは聞いていたのである。
「聞くのは、僕だけだ。」
エマには質問する権利もないということ。男は、自らの話に戻った。
「君に頼みたいことがある。」
それを合図に、フィリップスは、机の上にヨシュアの写真を並べた。十枚ほどだが、手際はいい。
ヨシュアを見ていたとは言ったが、全ての写真が盗撮風。
エマは、小さく顔を横に振った。喋れるのは男だけである。
「それがヨシュアと別人だと聞いて、君は信じられるか。」
エマは、しばらく写真を眺めた。彼女は常識人である。
「聞かれるなら、違う人が混ざってるかも。双子か三つ子だった?というか、その質問は…。」
男は口を挟んだ。
「いや、全員別人だ。」
小さく顎を上げたエマは、改めて写真に見入った。普通に分からない。
男は、五秒でエマの世界を変えた。
「僕の予想では、その男達は、みんな殺される。」
限界である。
エマは、勢いよく腰を上げ、振返った。弁護士の手は弾かれただけ。遠慮がなくなれば、こんなものである。
エマの見た男は、こちらを向いていなかった。
ブロンドだが短い丸刈り。
座っていても分かる程の長身に、ラフなジャケット。思ったより、若そうである。
男は、誰もいない席に向かって、喋り続けた。
「君は全く悪くない。全ての原因は、僕達にあるんだ。本当に申し訳ない。ただ、彼らは繰返し殺されるだろう。」
エマは、体から力が抜けていくのを感じた。もう、意味が分からないのである。
喋るのは男だけ。
「繰返す。君に頼みたい。」
泣きそうなエマは、黙って耳を傾けた。
「その中の一人の男を守ってほしい。僕達の知る安全な場所に、その男を連れて行ってほしいんだ。」
男の後頭部からは、何の感情も伝わってこない。目を見て、頼むべきである。
エマは、答えを決めた。
ヨシュアと関係があるとしても、まずは会ったこともない。
無理に探してまで、命がけで守る理由はない。それは警察の仕事。
頼む相手を間違えているのである。
エマは、冷めた答えを口にした。
「大人なんだから、電話で場所を教えてあげたら?」
男の答えは早い。
「電話はおそらく盗聴されているだろう。僕達も君達二人をすっと見守ってたからね。連絡を入れた時点でアウトだ。」
「〇〇〇〇。」
エマの呟きに、男は言葉を重ねた。
「何も言わないでほしい。謝る。ただ、あまり酷いことを言われると、皆が悲しむ。皆、ヨシュアと君の大ファンだったんだ。」
男が警察に頼まない理由は、はっきりしたかもしれない。
エマの心は震えたが、今のバランスを考えた。
殺人が一日で無罪になったのだから、釣り合うかもしれない。
泣き叫んだところで、何も待っていない筈である。
男を試してみる。
それが、エマが五秒で選んだ次の選択肢。
「方法は?」
「カードを渡そう。多分、何を買っても大丈夫だ。好きにしてくれていい。」
「報酬は?」
「だから、カードを渡すと言ってる。残額は、城を買って維持できるぐらいと思ってくれていい。特別なカードだ。」
エマは目を回した。限界のハイ・クラスである。
「何なの?そんなにお金をかけて守りたいその男は誰?」
「協力してくれるなら、教えよう。」
「何故、私に頼むか教えてくれたら、協力するわ。」
男は、会話に間を空けない。
「簡単だ。ヨシュアと同じ顔の男を、君より全力で守ってくれる人間はいない。」
エマは、小さく首を傾げた。正しいかもしれないと思ったのである。
男は言葉を続けた。
「僕達が君を好きだからだと言ったら、分かってもらえるだろうか。」
それは決定打。
エマは、人に好きだと言われるのが好きである。
男は自分をよく知っている。
多分、皆が客観的に分析すると、答えは自分になる。
否定するなら、エマはよく考えなければならないのである。

ヨシュアが何度も殺されるのは確かに耐えられない。
そして、使い切れない程のお金がもらえる。
お金は大切である。
どんなに危険な目にあったとしても、彼女の仕事である爆弾処理のリスクを上回ることはない。
得しか待っていない。

エマは目を閉じた。
この数分だけでも、随分、心をかき乱された。
頭では理解したから、あとは気持ちの問題なのである。
男が口を開かないのは、やはり、エマのことを知っているから。
エマは、三十秒で結論を出した。
「OK。」
城が持てるのに断る理由はない。
絶対である。

高い背を伸ばした男は、エマとフィリップスのスペースに来ると、エマの前に腰を下ろした。
ポケットから出したのは、一枚のカード。
「契約成立だ。」
エマは知らないことだが、男の顔はローデヴェイクと同じ。
エマが感じ取ったのは、そこはかとなく漂う気品だけ。悪い気はしない。
男は、エマの瞳を覗き込んだ。
「忘れないうちに、君の質問に答えておく。」
フィリップスを一瞥したエマは、男の顔を見据えた。喋るのは男。
「ヨシュアはクローン人間の一人だ。僕もそう。今回の事件は、クローン技術が欲しい人間が、創造主を求めている可能性が高い。」
エマは動きを止めた。
彼女が決断に必要とした時間よりも、沈黙は長かったかもしれない。
ゆっくりとフィリップスと視線が合うと、知的な彼は静かに顔を横に振った。
お手上げである。
ヨシュアの死は、金持ちのサイコの仕業である可能性が高い。
得しかないと思ったが、バランスがとれているかもしれない。
男は、自信に満ちた表情で口を開いた。
「丁度いい。あれを見てくれ。」
男は、ゴールドのテレビの一つを指差した。コマーシャルが流れている。
「最近、大量に流れてるコマーシャルだ。俳優のショーン・クレメンスが、デ・グラーフ製薬に電話する。常備薬のオンライン管理のコマーシャルだ。」
コマーシャルでは、一人のクレメンスがくしゃみをすると、隣りの人がくしゃみをする。
それもクレメンス。
くしゃみをするほどクレメンスが増え、テレビはクレメンスだらけになる。
最後に、最初のクレメンスが電話を持って言うのである。
「皆が困ってしまう前に、デ・グラーフに電話して!」
パターンを守る、どこにでもある広告。人に見せる理由は見当たらない。
エマは小さく首を傾げた。
「何が言いたいの?」
男が頷いたのは、すべてが予想通りだから。
「コマーシャルは、ステファヌス・デ・グラーフが流したダミーだ。クローン技術のアルファ、ラファエル・クレメンスの全ての技術を引継いだ彼のクローン、サミュエル・クレメンスに、デ・グラーフに連絡する様に呼びかけている。」
「ステファヌスってあの?」
呟いたエマは、口を閉じることを忘れた。
軍主催の講演会の雑談で話題に上がった人物。
危険地帯。
遠くに見えたら、逃げるべき相手。
猛獣である。
エマは、その名前だけで、男の世界を身近に感じた。
男は、エマの心が戻ってくるのを確かめると、説明を続けた。
「君に金を出すのはサミュエルだ。クローンの件を信じるかどうかは好きにしてくれ。僕を嘘つきと思ってくれてもいいが、ヨシュアと同じ姿の人間は大勢いる。ステファヌスのために危険な目に合うことは確実だ。無駄に悩む必要はない。」
テーブルに両肘をついた男は、優しく微笑んだ。
おそらくは、男が準備してきたストーリーはこれで終わり。そんな表情。
瞳を見つめ続けられるのも妙である。
エマは答えを決めた。シンプルが一番である。
「OK。それで、私が守る男と約束の地はどこ?」
男は、鼻で笑うと一枚の写真を選んだ。何かが意外だった様だが、男は無駄には喋らない。
「男の名はヘクトル・ピウス。一緒に会いに行こう。目的地は、西海岸にあるサミュエルのクルーザーだ。」
エマの気持ちは一つ。
どの写真を渡されても同じ。
但し、目的地は決まった。クルーザーなら悪くない。砂漠の世界に飽きていたところである。
小さく頷いたエマは、初対面で聞くべきことを口にした。
「あなたの名前は?」
男は、忠実なフィリップスと視線を合わせてから口を開いた。
「僕はパープル。苗字は、その日の気分で決める。」
異常である。
エマは、敢えて鼻で笑った。
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