第11話 幻視

文字数 4,133文字

休日の遅めの朝食は、大人の会話のないピウス家の細やかな幸せの時間。正確にはヘクトルだけかもしれない。半分眠った体をマテウスに揺られ、頬を擦りつけられて目覚めると、台所まで腕を引っ張られる。無理に開いた目に映るのは、全力で空腹を訴えるマテウス。
微笑みの耐える暇はないのである。
取敢えず、シリアルを食卓に並べると、今日もヘクトルの電話が鳴った。知らない番号からかかってくるのは慣れている。
シリアルで頬を膨らませるマテウスに微笑むと、ヘクトルはスマートフォンをタップした。
「もしもし、ピウスですが。」
ヘクトルの第一声に応えたのは男の声。
「騙されたと思って、道路側の窓の外を見てくれ。」
普通ではないが、最近のヘクトルには少なくないタイプの電話である。
知らない人間にコンタクトをとってくるのは、大抵は強烈な個性の持ち主なのである。
マテウスを見ながら、やるべきことを考えたヘクトルは、静かに窓際に足を進めた。
何をどうするにしても、観察は必要である。
レースのカーテン越しに、窓の外に目を凝らしてみる。
まずは男の影。両手を挙げている男の片手には携帯電話が握られている。見られることを前提に、今、まさに手を挙げた。そんなところ。銃は見えない。
ヘクトルは、カーテンをほんの少しだけ開けた。指一本分の隙間で十分。
そして、ヘクトルは、ガラス越しの世界に自分を見つけた。
まるで、家族のビデオを見ている様。
両手を挙げる男は、ヘクトルと全く同じ顔立ちをしている。自分の感情とは別の動きを見せる自分の顔。時間のずれさえ感じられてくる。
ヘクトルは、スカーレットの男のことを思い出したが、詳しいことは何も知らない。
情報が必要なヘクトルは、男の後ろに留まるセダンを見つけた。色はブルー・メタリック。
昨日は止まっていなかったので、男のものに違いない。
目を細めて、車の窓を覗いたヘクトルは、その瞬間、強く胸を締め付けられた。
セダンの中に、エミリーの顔を見つけたのである。
年も同じぐらいに見える。確実にエミリー。
ヘクトルは天を仰いだが、おそらく神は関係ない。二重の奇跡は起きない。必然である。
振返って、口を忙しく動かすマテウスを見たヘクトルは、寝ぼけた頭を全力で回した。
テレビに出演したのが悪かったのかもしれない。
金の匂いを嗅ぎつけた異常に頭の悪い誰かが、すり替わるために整形をした。しかし、エミリーの顔にするのは、馬鹿過ぎる。
それなら、狙いはヘクトルの心である。リッチなヘクトルの心の闇に入り込み、すべてを吸い上げようとしている。
分かり易い悪。ピウス家の危機である。
一つの結論を見つけたヘクトルは、チョコレート菓子の袋を手に取ると、マテウスを奥の部屋に押し込んだ。
対決である。顔を似せられ、家を知られて、このまま放っておくことは出来ない。
犯罪者との接触が決して少なくないヘクトルにとって、それ程、奇抜な発想ではない。
ヘクトルが、窓際に戻ると、電話から男の声が響いた。異常な筈の男の声は明るい。
「驚かせたか?こっちはテレビで知ったんだ。お互い様だ。」
カーテンの隙間から、銃がないことを改めて確認したヘクトルは、覚悟を決めた。
「今から、扉を開けるよ。怖い事はなしだ。」
「OK。僕も同じ気持ちだ。」
男が即答すると、気の変わらないうちにヘクトルは勢いよく扉を開けた。
ファースト・コンタクトでのインパクトを狙ったのである。
小技を使ったヘクトルの目の前に現れたのは、笑顔の自分。自分そのもの。身長も同じである。
手を広げた男は、電話をポケットに入れると、笑顔で口を開いた。
「すごいね。いろいろ方法を考えたんだけど。よく扉を開けたね。」
電話とはまた違う肉声は、多分、ヘクトルと同じ。発声の違いのせいかよく通り、どちらかと言うと爽やか。
「僕はアーサー・アンダーソン。向こうにいるのは妻のビクトリア。」
ヘクトルは、遠くのセダンに目をやった。エミリーの存在感は強烈なのである。
取敢えず、アーサーの態度は、敵対的なそれとは、およそ正反対である。
ヘクトルは、人間社会のルールに従った。
「知ってて来たんだろうけど、僕がヘクトル・ピウスだ。」
ぎこちない挨拶に微笑んだアーサーは、右手を差し出し、ヘクトルの手を握った。
力強い、確かめる様な握手。
その手を大きく振ったアーサーは、笑顔で言葉を続けた。
「せっかくだから、家に入れてくれると嬉しいけど。」
釣られたヘクトルが小さな笑顔を浮かべると、アーサーは首を傾げた。
「同じ顔同士で家の前で話し続けると、思わぬ事が起きるかもしれない。」
尤もである。
考えられる選択肢は二つ。男に悪意があるか、悪意がないか。悪意がない場合、男は、自らが口にした通り、ヘクトルと同じ立場。答えがどちらだろうと、決着をつけなければならないことは同じである。
「分かった。中で話そう。」
先に進むことを選んだヘクトルが扉を大きく開けると、アーサーは振り返り、手を挙げた。
ビクトリアを呼んだのである。
二人を眺めていたビクトリアは、車のドアを開け、身を起こした。
アーサーにも感じたが、身長までエミリーと同じ。
エミリーのシルエットと完全に重なるビクトリアは、エミリーが履いたこともない、グレーのカプリ・パンツを履いていた。
髪はエミリーより長く、口紅の色はエミリーより濃い。近付いて分かった腕時計はローズ・ゴールド。ダイヤの光が眩しい。
下世話かもしれないが、目につく全てをエミリーと比べずにいられない。
フルーティなクリードの香りが、ビクトリアとの距離を教えると、ヘクトルは顔を横に振った。
アーサーが微笑んだのは、気持ちが分かるからに違いない。
「初めまして。ビクトリア・アンダーソンよ。」
声まで同じである。
一瞬で幻覚の世界の住人になったヘクトルは、歪んだ笑顔で、二人を家に招き入れた。

ヘクトルが客間のアーサー夫婦に煎れたのは、マテとオレンジ・ピールをブレンドしたハーブ・ティー。今週のヘビー・ローテーションである。
香る蒸気がテーブルを撫でると、アーサーが口を開いた。
「まずは、僕を知ってほしい。」
同じ気持ちのヘクトルが微笑むと、ビクトリアが微笑みを返した。夫と同じ顔なので、気持ちは想像に難くない。アーサーの言葉は続く。
「仕事は経営コンサルタントだ。それなりに上手くやってる。確率論的に、君よりは儲けてる。感じが悪いかもしれないけど、大事なことだ。つまり、互いを知り合って、先を怖がってるのは、どちらかと言うと君よりは僕だ。」
ビクトリアがアーサーの腕に手を添えたのは、喋り過ぎを抑えようとしたに違いない。
頷くしかないヘクトルを見ると、アーサーは口を開いた。
「まあ、いいさ。僕達夫婦には、少しだけ人と違うところがある。ほんの少しだ。二人とも孤児。親の愛を知らないとか言う気はない。死ぬまでに何十万人とすれ違うのか知らないけど、僕達はそれが理由で立止まって、お互いのことを話す様になった。きっかけではあった。」
ヘクトルは、改めてスカーレットの男のことを思い出した。アーサーの話は終わらない。
「でも、やっぱり気にはなるんだ。自分達は何なのか。時にはルーツを辿る旅もした。」
スカーレットの話と同じである。ヘクトルの目は少しだけ泳いだが、アーサーの笑顔は変わらない。
「そこで君だ。可愛いマテウスと一緒にテレビに登場。大々的にだ。僕がどう思ったか分かるだろう。」
ヘクトルは、アーサーの顔を見つめた。
「何となくは。」
頷いたアーサーは、自分で答えを口にした。
「答えはここにある。僕達のゴールを見つけた。そう思ったんだ。」
アーサーは、ビクトリアの肩を抱いて、ヘクトルに微笑んだ。
薄っすらとした嫉妬の様な感情は、明らかに間違えている。
ヘクトルが視線を逸らすと、アーサーの顔には小さな疑問の色が浮かんだ。しかし、それも一瞬。ビクトリアから手を離したアーサーは、笑顔で話を進めた。
「君のことを教えてほしい。それが答えなら、なおいい。」
ヘクトルは、つくり笑いを浮かべた。
「僕のことは、どこまで知ってるんだい?どうしよう。変な感じだ。」
アーサーは、声を出して笑った。
「だろうね。」
ヘクトルは、ビクトリアの笑顔を見た。口数が少ない所も、エミリーに近い。
間もなく、アーサーの視線に気付くと、ヘクトルは口を開いた。
答えがあるとすれば、スカーレットの話ぐらいしか思いつかない。
「やっぱり、あれかい?僕達はクローン人間なのかい?」
アーサーは、目を見開いた。さすがに、急に飲み込める話ではない。夫婦で顔を見合わせると、顎を引いたアーサーは、それでも口を開いた。
「かなりのイン・ハイだ。」
アーサーは、どこまでも付き合う気である。
「まず、戸惑うのは分かるけど。クローンはなかなかだ。うん。考えもしなかった。」
夫婦は笑って、また、顔を見合わせた。
「そう。そのぐらい謎だ。そうなんだ。分かるだろう。生まれ方は別にして、離れて住む同じ顔同士の二人が結婚することって。そんなの、本当にあると思うかい?」
アーサーの疑問は的確である。
「双子同士が引寄せられて、結ばれる運命だったなんてことならいいんだ。でもない。そこまでいくと、運命なんてもんじゃない。」
アーサーの身振りは大きくなった。
「当然、クローンもね。ノー。信じない。誰かが、僕達孤児の双子同士をくっつけようとして、何かしたんだ。絶対だ。そう思わないかい。」
言われてみて、ヘクトルもその気になったが、言うべき言葉は思いつかない。
「一つ当てて見せよう。自分の生立ちを辿っても何もなかった。そうじゃないか?」
笑顔のアーサーが手で促すと、ヘクトルは頷いた。つい最近の出来事である。喋るのは。やはりアーサー。饒舌である。
「そう。僕達の人生で遊んでる奴は、そのぐらいの所でボロを出す様な奴じゃあないんだ。ただ、出会いはどうだった?何の証拠も残さずに人の気持ちを操るなんて、出来る筈ないんだ。」
アーサーは、黙ったままのヘクトルを見つめた。
「大体、君達夫婦は、どんな出会い方をしたんだい。」
アーサーの隣りのビクトリアの視線を感じると、ヘクトルは、自分が彼女の顔を見ていたことに気付いた。
エミリーと同じ笑顔。もう会えないと思っていたエミリーの笑顔である。
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