第24話 警醒

文字数 1,648文字

アーサー夫婦と別れて、家に戻ったヘクトルは、冷凍庫から出したピザを解凍した。ピウス家の食卓のヘビー・ローテーションの一つである。
カモミール・ティーの香りでパトリシアを忘れたヘクトルは、隣りのマテウスを見た。
口の周りも手もピザ・ソースだらけ。マンゴー・ジュースのコップも道連れである。
視線に気付いたマテウスが微笑むと、ヘクトルも笑い、ピザを口に運んだ。
そうは言っても、会話のない食事は退屈である。
ヘクトルがマテウスの皿のピザに手を伸ばし、マテウスが絶叫し、声を出して笑う。
数分おきに何回やっても、これだけは飽きが来ない。
大人のいない賑やかな食卓。
それは、今のヘクトルにとって、最高に幸せな時間なのである。

それから二十分後。マテウスが、ピザを手にしたまま、船をこぎだした。
食べながら眠るのは別に珍しいことではないが、ヘクトルは静かな不安に襲われた。
ヘクトルが誰かを連れて過去を振り返った後、マテウスが船をこぐのは二回目。
その一回目。待っていたのは、年老いたエミリーとブタがいるカオス。一瞬だが、マテウスとも引き離されている。
万が一、同じことが起きるなら、次はヘクトルが落ちる。
悪寒が耐えきれなくなったヘクトルは、トイレに走り、口に指を入れた。
吐くのである。
しかし、舌の根を抑えたヘクトルの感想。簡単には吐けない。
焦るヘクトルの目の前は、やがて、真っ暗になった。

ヘクトルは夢を見ていた。
正装のジェフリーとパトリシア。
二人は、ダンス・ホールにいるのか。光沢のある明るいフローリングの上で、スポット・ライトを浴びている。
ライトの周囲は漆黒の世界。客席に人がいるのか、そもそも客席があるのかも分からない。
二人の顔立ちは、今よりも少し幼い気がする。
そのうち、音は聞こえないが、二人が踊りだした。
ツイストだろうか。
とにかく、古いダンスである。
ゆっくりとだが、丁寧にステップを刻み、手の振りもメリハリが効いている。
前に屈んだり、のけ反ったり。音がないダンスは、いつ終わるともなく続く。
ただ、確実に二人の息は合っている。
ヘクトルは二人の名を呼んだ。そのつもりが、声は出なかった。
多分、この前と同じ。きっと、何をやっても無駄である。
ヘクトルが諦めた時、二人が順に微笑み、ヘクトルは目を覚ました。

目の前に現れたのは、例によって細長い部屋だった。
コチニール・レッドの絨毯が敷き詰められ、同じ色のカーテンで壁と天井が覆われている。素材はベルベット。間違いない。
強烈なココナッツの香りも変わらない。
何より、年老いたエミリーとブタがいる。縛られ、声が出ないのも同じ。
背後からは男の声。深くて響くいい声。これも同じである。
「もう追うな。これが最後の忠告だ。誰も幸せにならない。」
袋に備えたヘクトルは、動きを止めて、静かに待ったが、この日はそれだけで終わらなかった。
短い沈黙の後、男が言葉を続けたのである。
「信じないかもしれないが、真相はつまらないものだ。」
不意を突かれて振向こうとしたヘクトルは、やはり頭に袋を被せられた。
溶剤の強烈な匂いに包まれるのも同じ。
この間と同じ事の繰返しである。確かに、次はないかもしれない。
何かを学んだヘクトルは、数分で意識を失った。

目を覚ましたヘクトルは、食卓の椅子にもたれていた。
両手首にはローズ・ピンクの擦痕。
薬を盛られたのはピザだろうが、皿には一切れも残っていない。
そして、そう。マテウスがいない。ヘクトルは叫んだ。
「マテウス!」
「何?」
返事は早かった。客室からである。
「マテウス、出て来なさい。」
急いだヘクトルは、ソファの下から這い出すマテウスを見た。それは、彼の好きな場所。
ヘクトルは、駆け寄ってきたマテウスを強く抱きしめると、家の中を見回した。
絨毯も服もソースだらけだが、そんなことは気にならない。
何よりも。何よりも。
誰かが、家の中に侵入しているのである。
心が安らぐ場所はどこにもないのかもしれない。
十分に傷付き、これ以上壊れることの出来ないヘクトルは、ただ、耐えがたいストレスを感じた。
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