第88話 神算

文字数 4,431文字

クローン技術を国に渡したサミュエルは、別に抜け殻になったわけではない。
ラファエルのクローンとして、生まれながらに生きる道を決められていた彼にとって、それは新たな人生の門出になったのである。
ヒュドールにいる限り、あらゆる研究シーンと関わることは出来るので、退屈はない。
しかし、彼が選んだのは、そんなありきたりの遊びではなかった。
ブラック・ドットである。
ヒュドール・リサーチ&エンジニアリングは彼の庭。
サミュエルは、ブタのラファエルとクイーンだけを傍におき、日々、ブラック・ドットと向き合った。
誰も近付けずに三人だけ。
それが、サミュエルにとって、最もリラックスして考え事が出来る環境だったのである。

新しいライフワークに没頭するサミュエルが、久しぶりに面会を許した相手は、ヘクトルとスカーレット。
指示通りに中庭のベンチに座る二人の前に、サミュエルは笑顔で現れた。
彼が二人の前に普通に現れるのは、おそらく初めての事である。
サミュエルは、腰を上げようとしたスカーレットに手を挙げると、そのままベンチに座った。
握手はなしである。
「君が会いに来るとは思わなかった。」
サミュエルが話しかけたのはヘクトル。そして、口を開いたのは、顔をしかめたヘクトルではなく、スカーレットである。
「私が無理に誘ったんです。ぜひ、ドクターとお話ししたくて。」
サミュエルは、スカーレットに微笑んだ。
「正しい選択だ。君が一人で来ると言ったら、私の予定は二年間は一杯になったろう。」
スカーレットは微笑みを返した。
「会えて、光栄です。ドクターは、また、素晴らしい研究に取組んでいらっしゃると聞いて。」
サミュエルは、真顔で何度か頷いた。喋るのはスカーレット。
「ブラック・ドットの謎の解明は進んでいるんですか?」
サミュエルは笑顔を浮かべた。
「まず、確かなことは何も分かっていない。ただ、あのブラック・ドットはとにかく不安定だ。試しに、何かを接触させると、衝撃波が返ってくる。」
サミュエルは、何かを思い出した様な表情を浮かべた。
「そうか。君達はニコーラ・バルドゥッチのせいで知ってるな。」
スカーレットがやはり微笑みを返すと、サミュエルは言葉を続けた。
「接触するものと帰ってくる衝撃波の大きさには確かに相関がある。大きいものを接触させれば、大きい衝撃波。小さい場合は小さい衝撃波だ。ただ、エネルギーとして考えると、イコールではない。これはこの話のコアだ。興味深いことに、何も接触しなくても、急に一部が突出し、その後、バランスをとる様に全体が大きくなることもある。ものでなくても、光や振動でも反応するんだ。この拡張する時の動きは計測に成功したが、最初の突出量と最終的な容積の増分がほぼ同じだった。おそらく、揺れながらバランスをとっている。」
サミュエルは、大事な忘れ物を思い出した様に説明を加えた。
「気になるだろう。どうやって測ったか。レーザーではエネルギーを与えるから危険だ。三六〇度の高解像度・高速度カメラの画像解析を使った。計測する限り、大きさが変わっているのは確かだが、計測できない速さで振動している可能性の方が高い。観察するべきスケールも、何なら地球規模かもしれない。時間軸も然りだ。とにかく、まだ、動きの規則性は特定できていない。」
サミュエルは、不意に体の力を抜いた。理由は分からない。
「まあ、エネルギーを与えないのが一番だ。今は、外部からの一切の刺激を断つために、鉛の箱で覆って、真空ポンプで空気を抜いてある。町工場のエンジニアの様だろう。分からない事の前では、私はこんなものだ。」
目を輝かせるスカーレットを横目に、ヘクトルが口を開いた。ここへ来てからの第一声である。
「結局、ブラック・ドットは何なんだ。」
サミュエルは、ヘクトルの失礼に小さく笑った。
「特定はできない。ただ、触ると、人や物がなくなるのは確かな事実だ。重力があの点に過剰に作用しているのかも知れない。さっき言ったコア。つまり、返ってくる衝撃波のエネルギーは、消えたものから換算したエネルギーより随分小さいから、他にも何かが起きていると考えるべきだろう。たとえば、あの点の空間が歪んで、物をどこかに飛ばしているとか。」
ヘクトルは眉をひそめた。
「じゃあ、ニコーラは生きてるのか。」
サミュエルは顔を横に振った。
「この周辺とバランスのとれている空間が一つとは限らない。つまり、分割されるんだろうから、まあ、そういう状態だ。少なくとも、大きさ的に、個体としては、確実に一度あそこで壊れている筈だ。」
サミュエルが動きを止めたのは五秒ほど。口を開いた彼の瞳には、悲しい色が混ざっていた。
「いなくなったのは、ブラック・ドットが発生してから、ニコーラ以外に二人。私が敬愛するアレクサンダー・ホワイトと、あとは〇〇〇〇のコービンだ。」
一人は、ヘクトルの知らない人物である。
「コービンって?」
「家庭があるのに、イブに手を出した〇〇〇〇だ。本当は、私がこの手で葬りたかったが、殺すのは嫌だから、他の男達と一緒にした。」
サミュエルの思わぬ下品な言葉遣いに、ヘクトルは首を傾けた。
サミュエルが声をかけたのは、自分に熱い視線を投げ続けるスカーレット。幾ら負い目があっても、厳しい口調で話しかけられるのは、嫌なのである。
「随分、大人しいじゃないか。君は私に助けてほしいんじゃないのか。」
スカーレットは目を輝かせた。
「全部、御存じですか?」
サミュエルは、小さく頷いた。
「まず、解決する方法は一つではない。目的を達成する過程で経験する苦労も、全く違うものになる。私は、その過程に対して、責任は持てない。だから、君が望んだ解決方法を実現する手伝いしか出来ない。」
スカーレットは答えを持っている。
「報道ですね。」
サミュエルは、スカーレットを見すえた。
「ただ、最初に君は思った筈だ。私には君を手伝う理由が一切ない。それに、君が止めようとしていることは、クローン技術を国に渡せば、必ず起きたことだ。」
サミュエルは、スカーレットが頷くのを待ってから話を続けた。
「私は、これでも君に尊敬の念を持っている。加齢技術を成功させたからね。死なないために無茶をするのは大抵老人で、老人が相手だと無理な技術だったのは笑える。ただ、言うが、私はクイーンでほぼ成功していた。あとは止め方だけだったんだ。」
それでも微笑むのが、スカーレット。
サミュエルは、ヘクトルに視線の先を移したが、睨み返されると、スカーレットと向き合った。
「実は、君にお願いがある。」
ギブ・アンド・テイク。
交渉が成立する予感に、スカーレットは微笑みを大きくした。喋るのはサミュエル。
「加齢して、成人並みの頭蓋骨を持った、ヘクトルのクローンが欲しい。死んだ事にして、運び出せばいい。」
スカーレットの答えは早い。
「別に、そんな無理をしなくても、御自分でヘクトルから細胞をもらったら…。」
スカーレットにすべてを喋らせるサミュエルではない。
「いや、無理だ。技術提供の時に国に誘われたが断った。その時に、契約を結んだんだ。クローン関係の機器は使えないし、材料は手にも入らない。知ってはいたが、国は強い。」
黙っていられないのは、ヘクトルである。
「そうだとして、僕のクローンで何をする気だ。何を企んでる。」
サミュエルは、ヘクトルに優しく微笑んだ。
「ラファエルに、人間に戻ってもらおうと思っている。」
それは、サミュエルにとっては、いい話なのである。
サミュエルは、スカーレットに語り掛けた。口を開けたままのヘクトルより、眉間に深い皺が入ったスカーレットの優先順位が上がったのである。
「私には解決できない問題が多すぎる。ブラック・ドットの解決と君の願うクローン技術の軍事利用の阻止、あとはマテウスの意識の回復。」
サミュエルは、本当にすべてを知っている。
「ラファエルの脳を受入れる対象として最も相性がよく、加齢技術が有効なのはヘクトルだ。アーサーでもいいが、ヘクトルは今ここにいる。ただ、それだけだ。」
スカーレットが伝えたいのは、サミュエルの言葉の矛盾。絶対である。
「でも、それなら、そのクローンは脳を奪われます。私はそれが嫌なんです。だから、今、ここにいるんです。」
サミュエルは、静かに頷いた。
「言うぞ。二回目だ。私一人では限界がある。ラファエルでもいないことには、その先には進めない。マテウスのことだって、知ってはいた。敢えて何もしなかったわけじゃない。分からないんだ。私は、これだけ一緒にいるクイーンすら治せていない。」
スカーレットが沈黙で応えると、サミュエルは首を傾げた。
「放っておくと、何人かの戦闘用クローンが実戦に投入され、世界を震撼させる。すぐに大量にクローンがつくられ、各国が数を競うことになる。後進国は、開発のために、幾多の悲劇を見るだろう。その上、ブラック・ドットもマテウスもそのままだ。一方、君が私の依頼を受入れれば、一人のクローンが命を落とすが、戦闘用クローンが世に出ないかもしれない。ブラック・ドットもマテウスの問題も、一緒に解決できる可能性が出る。」
スカーレットとヘクトルが選んだのは、やはり沈黙。
確かな本末転倒なのである。
しかし、サミュエルは、本当にいい話を断られたセールスマンの様に眉を潜めた。
「何を悩むことがあるんだ。」
再び訪れた沈黙に、変化を求めたのはスカーレット。視線の先はヘクトルである。
「あなた次第だわ。脳を失ったクローンはあなたの死体と同じよ。あなたの死体はラファエルのものになって、彼にいい様にされる。それでいい?」
完全な正義でないのが、スカーレット。
ヘクトル本人の同意があれば、尊い犠牲もやむをえない。
彼女は、そう言ったのである。
ヘクトルは、花を眺め続けた。
あるべき答えに少しは思いを馳せたが、それは僅かな時間。
今のマテウスが花と重なったせいで、何も考えられなくなったのである。
スカーレットとの話が、マテウスに聞こえたかもしれない。
そう思って、ここに来たのなら、答えは決まっている。
「そのクローンには悪いけど、放っておいたら、これから国が大量にやるんだ。おかげで犠牲が減るんなら、答えは分かり切ってる。何より、マテウスの意識が戻るなら、僕は悩まない。」
予想通りの答えに、サミュエルは表情を変えなかった。自信にあふれる彼が話しかけたのはスカーレット。
「どのくらいかかる。」
「一年は。ただ、それでは施設が完成してしまいます。」
スカーレットの即答に、サミュエルは小さく笑った。
「おそらく、ヘクトルのクローンが死んだ話が広がれば、計画は止まる。あとは、好きなだけ議論を長引かせればいい。それでも無理なら、クローンをつくるだけつくって、脳を触らなければいい。昔、ラファエルがやったことだ。」
決して、知的な答えではないが、他に道はないということ。確かである。
顔を見合わせたヘクトルとスカーレットは、静かに頷いた。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み