第2話 狼煙

文字数 1,949文字

夏になり、エミリーが庭に植えたセゴ・リリーが花を咲かせた。自分達が子育ての地に選んだU州の州花である上、元々食用というトリビアが、親のいない期間を経験したエミリーの心を掴んだのである。
見た目、セゴ・リリーの花びらの形は他のリリーよりも慎ましやかで、ヘリオトロープやイエローの淡い縁取りが、全面を占めるスノー・ホワイトに深みを持たせる。
額の淡いアップル・グリーンも、開き切らない時は花びらを包み、開くと見る者に愛想を振る様で、雨滴、風の当たり様によって花に違う表情を与える。
ヘクトルは、咲いた花を誉めることはしても、基本的に花を育てるのは、プロであるエミリーに任せていた。
彼女が死んだ今、彼女がこの世に残した貴重な花を枯らすわけにはいかないと思い、育て方を調べてみると、思いの他、一切手間がかからない。エミリーはよく考えている。そんな時間をくれた花がとうとう咲き、彼はある種の達成感に包まれた。

しかし、ここに至ってもう一つ、ヘクトルがあの日以来全力を費やし、実ったことがある。
実は、エミリー襲撃犯が先日逮捕されたのである。
事件の後、警察の捜査に協力するだけでは罪悪感から逃げられなかったヘクトルは、街頭でビラを配ったり、インターネットに関連情報を流したりと、地道な作業を続けた。
事務所や職場、近隣の友人の協力は心強かったが、ボランティアの力が得られると活動範囲は急速に広がり、朗報が得られるまでにそれ程かからなかったのである。
あの男は、州を越え、所持金もない状態で浮浪者達の中に混ざり、食事の配給を受けていた。
直接は会っていないが、写真を見た限りでは、髭は伸び、顔も薄汚れ、あの日の姿と比べると明らかに荒んでいる。何なら、良心の呵責に苛まれている。
しかし、それはヘクトルには逆にあつかましく映った。後悔しても、決して、許す気はないのである。
ただ、何よりも、男は身柄拘束を経て、精神病院に収容された。名前の呼びかけに応じない上、明らかに異常な言動を繰返すことが決め手になったのである。
U州では、インサニティ・ディフェンスが有効である。
エミリーを殺したその男を罰するには、まず、精神疾患の化けの皮を剥さなければならない。
その上、例え、責任負担能力の問題を解決したとしても、エミリーの死がただの事故死として処理されると、ヘクトルへの暴行だけでは大した犯罪にならない。
男の殺意の立証は、不可欠である。
それは、ヘクトルには、エミリーの仇をとるまでに、大きな壁が二つあるということ。奇跡は二度起きないので、正攻法では限界がある。
考えたヘクトルは、テレビ局に努める知人に頼み込み、事件の取材をしてもらう様に約束を取付けた。
ゾーイ・ヤング。事務所のボスの紹介で知り合った、ブラックの女性ディレクターである。
取材の内容はこう。
幸福の絶頂にいたヘクトル一家を襲撃し、自分と三歳の息子マテウスから大切な女性を奪った犯人が、世に放たれる危機がすぐそこに迫っている。ただ、残されたマテウスは、母親がいなくても、健気に愛らしく成長している。その程度である。
精神疾患の疑いのある犯人を一方的に責める映像では、社会の共感は得られない。
敢えて、攻撃的なメッセージを避け、子供への同情によって世論を味方につけた上で、司法に訴えるのである。
ヘクトルは、取材の後、編集したビデオのチェックを要求したが、彼の要望通りの内容だった。ゾーイも彼と同じ気持ちになってくれたのである。
そして、今。
まさに、ヘクトルとマテウスの前で、その番組が放送されている。
ただ逮捕するだけでは足りない。必要なのは厳罰。
エミリーのための法廷での戦いの始まりを告げる狼煙が、全国に広がっている。
それが、彼がもう一つの実りと感じたことである。
ヘクトルは、リビングのテレビの前で、次の展開を知る報道を見ながら、ダージリン・ティーを飲んだ。

テレビを見終わっても、ヘクトルはすぐには眠れない。静かにしていたマテウスの時間。ゲームの時間である。どんなに短くても、それは絶対。
マテウスがはまっているのは、カード・ゲーム「ブレイン」。
遊び方が何通りかあり、一人から大人数まで遊べる最近の流行りである。事務所で紹介されたのだが、子供が大人に勝てることがあり、マテウスは釘付けである。
ヘクトルはヘクトルで、マテウスに負けると、息子が天才かもしれない淡い期待を持つことが出来る。笑顔も堪らない。
話相手が、小さな子供しかいないピウス家。人生設計も悩み事も相談できないピウス家。
ヘクトルが、心の内を晒して、喋ることのできる時間はない。
ブレインは、そんな静かなピウス家に小さな幸せをもたらすゲームなのである。
ヘクトルは、マテウスが揺れながら瞼を閉じ、カーペットにずれ落ちるまで、ブレインを続けた。
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