第36話 野遊

文字数 3,929文字

某国某所。ステファヌス・デ・グラーフは、自らが所有する私有林の中にいた。
傍らには、成長し、彼のよき相談役となったローデヴェイクのクローン。
今日の二人は、ステファヌスの提案でトレッキングに来たのである。
朝露に濡れた木々が目に美しい。爽やかな空気は潤いを纏い、木々のほのかな香りとともに、ステファヌスの乾いた鼻を撫でる。贅沢な時間である。
ただ、林を買った訳ではない。
ステファヌスは、林の中央に沢を造成し、トレッキング・コースを添えた。
沢には大きな魚こそいないが、小魚の群影はチラつき始めている。
ステファヌスのこだわった、造成前に見られた石の苔もほぼそのまま。
将来は一般に開放するつもりだが、今はまだ完全な私有地。
貸し切りである。
二人しかいない広大な林に聞こえるのは、二人の息と鳥の声。おそらくはミソサザイの鳴き声だけである。

ステファヌスは、ローデヴェイクのクローンをローデヴェイクと呼んでいた。
それが彼である。
「ローデヴェイク。もしもクローン技術を手に入れたらどうする?」
歩きながらステファヌスが問いかけると、後を追うローデヴェイクは即答した。
「内臓のクローン製造技術については、人類が持つべき技術だと思います。ただ、人間一人をコピーするのであれば、話が違います。」
それはローデヴェイクの持論。
過去、ステファヌスが同じ質問をしたのは一度や二度ではない。きっと、何かの条件が揃ったのである。
「一人の人間を特定するのは脳で、その構造は成長過程で習得する情報や栄養に大きく左右されます。その上、記憶はオリジナルとは独立したものです。まず、クローンだからと言って、特に意味はない筈です。自分と同じルーツの人間を強く求める人を否定する気はありませんが、技術を確立する過程の悲劇を考えれば、許すことは出来ません。」
ステファヌスは、若いローデヴェイクの美しい答えに微笑んだ。
「いや、君をつくったラファエル・クレメンスの技術。あれが手に入ったとしたらだ。」
ローデヴェイクの答えは揺るぎない。
「それは、好き好きでよいと思います。子供のいない家庭もあるでしょうし、結婚しなくても子供のほしい人もいますが、赤の他人の子供だと悲劇が起こる可能性を否定できません。選択肢として、否定する必要はないと思います。ただ、あまり増えすぎると、多様性が欠落して、環境への適応能力が落ちます。管理は必要です。」
ステファヌスは、石を見ながら歩みを進め、小さく微笑んだ。
「君と話していると、自分が年をとって、残酷になった様な気がする。」
大きい石を乗り越えると、また、ステファヌスは口を開いた。
「実は、無限の命を手に入れる方法がある。死んだローデヴェイクが、最期に入れあげていた。」
今を生きるローデヴェイクの答えを待たずに、ステファヌスは言葉を続けた。
「まず、自分のクローンを何体かつくる。」
クローンの人間性の全否定である。
ローデヴェイクは声を出さずに笑ったが、ステファヌスは気付かない。
「そのクローンの一体に、まずは自分の脳を移すんだ。次に、他のクローンから若い脳を少しずつ移植し、記憶を共有する。これを繰返して、完全に若い脳に換える。かなりの記憶が失われるが、重要なのは自我が継続することだ。余分な記憶は後付けでも構わない。ラファエルのAIは、おそらくそのためのものだ。あとは、今言ったことの繰返し。それで無限だ。」
唐突な話に、ローデヴェイクは答えを探した。喋るのはステファヌス。
「クローン技術があれば、他にもいろんなことが出来る。たとえば、自分のクローンを大量につくれば、今からでも世界中に子孫を残すことが出来る。子供達の成長を見守るために膨大な金が必要になるが、自分の可能性を最大限に広げることは出来る。」
ローデヴェイクは、幾つか浮かんだ反論を避けた。老人の気持ちは、尊重するものである。
「あなたなら出来ると思います。」
心得た合いの手に、ステファヌスは、頷きながら言葉を続けた。
「優秀な人間のクローンも集めたくなるな。ノーベル賞学者や政治家、スポーツ選手。一堂に会して育つと、何かが起きそうな気がする。」
ローデヴェイクの顔も微笑んだ。確かに素晴らしい予感がする。何より、ステファヌスなら、やりかねない。
二人は、笑顔のまま、静かに足を進めた。
ステファヌスは、しかし、大きな溜息で沈黙を破った。深呼吸ではない。
「あとは軍隊だろう。当然、君の様な完全なクローンではない。肉体だけだ。」
ローデヴェイクは、先を行くステファヌスの背を見た。年老いたステファヌスは、ローデヴェイクに似て背が高い。未だに歩みは早い。
「仲間達が戦争に行くのは嫌だ。」
ステファヌスは、沿道に飛び出た枝に気付くと、道を変えて、言葉を続けた。
「昔、爆撃されても絶対に壊れない街をつくろうと思ったことがある。だが、街が壊れなければ、白兵戦になる。あれは間違えて踏込むと、誰もが死ぬまで悲惨な思いをする。それに顔を覚えると、次の戦争の引き金になる。黙っていれば、ガス兵器を使う。それこそ、無差別殺人だ。」
ローデヴェイクは黙って歩き続けた。
「海上浮遊都市をつくろうと思ったこともある。土地がないのが問題だと思ってね。漁業権を侵害しない場所に都市をつくろうとすると、浮遊は必須だ。ただ、技術者が揺れないと言っても実際は揺れる。地獄を味わった頭痛持ちの難民を、死ぬまで何十年も揺さぶる気にはなれなかった。」
笑顔のローデヴェイクは、幸せな答えを口にした。
「戦争がなくなる様に、お金を使えばいいじゃないですか。」
ステファヌスは、不意に足を止めると、振返った。
「子供が全身を火傷した日に、今日から戦争は終わりと言って、両親を納得させられるのか。親友が死んだ日、妻が辱められた日ならどうだ。誰もが、その相手、一人だけにでもいいから、最後に正義の鉄槌を下したい。万が一、そうした関係が過去に一切ない土地があるとしても、パンをよこせと言う全ての人に、未来永劫、無償でパンを与え続けることは出来ない。」
自分に合わせて足を止めたローデヴェイクの目を暫く覗き込んだステファヌスは、思い出した様に歩き始めた。
ローデヴェイクが後を追うと、ステファヌスは前を向いたまま呟いた。
「戦争は必ず起こる。人に記憶力と愛がある限り。」

二人は、日当りのいい石を選んで、腰を下ろした。朝食である。
サンドイッチとオレンジを食べ、コーヒーを飲む。
ミソサザイの声に耳を傾ける、静かな時間である。
オレンジの汁でべたついた手は、沢で洗う。冷たい水が心地いい。

トレッキングを再開すると、道の勾配がこれまでより急になった。
休憩したばかりだが、それはまた別。
大きな息をついたステファヌスは、足を止めると口を開いた。
「実は、ラファエルのクローンのサミュエル。彼も大量にクローンをつくってのけたらしい。しかも、クローンが大人になっても、ずっと面倒を見ているんだそうだ。」
言い終わると、ステファヌスはまた歩き始めた。
若いローデヴェイクは後を追うだけ。悪い予感がするのは確かである。
ステファヌスは、先の道のりを見上げながら言葉を続けた。
「彼を手に入れようと思う。」
ローデヴェイクは、自らの足元を見ながら少し考え、太い木の根を超えた。
「昔の件があるので、彼が来るとは思えません。」
ステファヌスは、改めて歩みを止めると、ローデヴェイクを見下ろした。
自分の言葉を否定される理由が見つからないのである。
ローデヴェイクは言葉を改めた。
「ただ、あなたの支援が得られれば、研究は捗るでしょうし、本人のためにはなります。彼に勇気ある一歩を踏出させる努力は、あっていいと思います。」
ステファヌスは、大きく頷いた。
「我が意を得た。」

間もなく、トレッキング・コースは終わりを迎えた。
二人の前に開けたのは、これまでとは違う景色。
湖である。
これだけのトレッキングの目的地としてはやや小さいかもしれない。
しかし、外周を森林に縁取られ、日光を受ける水面は、ゴールドに光り輝く波で彩られていた。風か水質のせいだろうが、理由を問わず、自然の芸術は純粋に美しい。
やがて、二人の見つめる水面に、一羽の白鳥が舞い降りた。
ステファヌスは、呼吸を整えながら口を開いた。
「実は、ラファエルのAIに相談した。」
ローデヴェイクは、ステファヌスと肩を並べると、湖を見渡した。喋るのはステファヌス。
「知っての通り、サミュエルはヒュドールにいるが、最近、社長のホワイトから資産を引継いで姿をくらました。地下に潜った金持ちを引き摺り出すのは難しい。」
ローデヴェイクの顔を一瞥すると、ステファヌスは言葉を続けた。
「大切にしているものを壊すと、あいつは耐えられないらしい。それがAIの答えだ。」
ローデヴェイクは何度か頷いた。
「彼はラファエルのクローンですから、きっと学者ですね。大切なものには、きっと気持ちが籠っていると思います。」
目を細めたステファヌスは、湖を見渡した。
「クローンを一体だけ殺す。どこにいても伝わる、報道になる様な派手な方法でな。」
ローデヴェイクは動きを止めた。
今日のステファヌスは、悪いステファヌスである。逆らっても、決して得をしない日。
ローデヴェイクは、すべての感情を殺した。
「彼のAIが言うなら、その方法が最も被害が少ないのだと思います。」
ステファヌスは、ローデヴェイクの顔を見つめた。
確かな非情を口にした自覚が、全能のステファヌスをさえ、そうさせたのである。
間もなく視線の合った二人は、小さく微笑んだ。
それが出来たのは、二人が兄弟だから。多分、その筈である。
心の安らぎを取り戻した二人は、白鳥の群れが舞い降り始めたゴールドの水面に吸い寄せられた。
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