第63話 第三の欺瞞『虚飾の傑作』【序】

文字数 1,195文字

【序】

 私は『斜陽』を好きになれない。
 何度読み返しても良い感じがしない。
 太宰のナルシシズムばかりが鼻に付き、空虚な読後感と悲惨な後味ばかりが残る。
 それは、太宰の信者だった若い頃でもそうだった。

 この小説には、太宰の信条である「心づくし」や「心趣(こころばえ)」が感じられない。
 そしてなにより、太宰自身この小説を楽しんで書いているようには感じられないのだ。
 私にとって『斜陽』は薄っぺらくて嘘くさく、そしてどこかしらチグハグである。
 私が浅薄な読者であり、なおかつ私の感受性が鈍いせいだと思うのだが、私は『斜陽』に、「躍動する生きた太宰」を感じることができないのである。

【私生児とその母。けれども私たちは、古い道徳とどこまでも争ひ、太陽のやうに生きるつもりです。】

 この『斜陽』の白眉とされる一節だが、私には、主人公かず子のこの台詞が極めて類型的に思われ白けてしまう。
 私には、太宰が「私生児とその母」を「古い道徳」と対比させていること自体「古い感覚」に感じられて仕方がない。

 太宰が、「古い道徳に対する革命の犠牲者」を「私生児とその母」だというのなら、随分観念的で類型的な「犠牲者」ではないか。
 太宰は、かず子に、

【私には、古い道徳を平気で無視して、よい子を得たという満足があるのでございます。】とか【こひしい人の子を生み、育てる事が、私の道徳革命の完成なのでございます。】

 と言わせているが、私にはなぜか空虚な言葉にしか聞こえない。

 なぜなら、【こひしい人の子を生み、育てる事】は、古来、恋に生きた数多くの女性が通って来た道であり、それは女性の本能でもあって、初めから「古い道徳」など超越したものだと思うからだ。
 第一、いつの時代も「古い道徳」は存在し、そしてその「古い道徳」はいつの時代も繰り返されて来たではないか。

 太宰に逆に聞いてみたいのだが、「古い道徳」に対する「新しい道徳」などいったいどこにあるというのだろう。
 太宰にとっての「新しい道徳」とはいったい何なのだろう。
 そして、かず子に【こひしい人の子を生み、育てる事が、私の道徳革命の完成なのでございます。】と言わせている太宰自身が、実際に自分と太田静子の間に起きた「そのこと」を、喜んでいるように私にはとても思えないのだ。

 『斜陽』に描かれた、かず子の台詞を何度読んでも、新しい命を授かった女性の本能的な喜びというようなものが迫ってこない。
 新しい命の芽生えに対して『古い道徳を平気で無視して』とか『道徳革命の完成』などともったいぶった理屈の意味づけをしなければいけないところに、太宰の弱さと狡さがあるように思えてならないし、そこに「古い道徳」に縛られている太宰が見え隠れしている。

 結局、太宰は己の「古い道徳」から逃れられず、その「古い価値観」の枠の中で「古い道徳との戦い」を語っていたに過ぎないように私には思えてならないのだ。
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