第54話 第二の欺瞞『韜晦の仮面』【18】
文字数 1,348文字
【18】
太宰は、『もの思ふ葦(その一)』(昭和十年)に収められた『書簡集』の中で、作家の書簡集を評して、
【作家の、書簡、手帳の破片、それから、作家御十歳の折の文章、自由画。私には、すべてくだらない。(中略)あかの他人のかれこれ容喙 すべき事がらではない。】
と書いて、書簡集というものの存在を痛烈に批判した。
それを書いたのは昭和十年、太宰が第一回芥川賞の件で一人勝手に大騒ぎした年である。
この時期の太宰の手紙を一つだけあげて置きたい。
昭和十年八月十三日、後輩の画学生小館善四郎に宛てたものである。
(後に、小舘善四郎は初代の過ちの相手となる)
【芥川賞はづれたのは残念であつた。「全然無名」といふ方針らしい。「文藝春秋」から十月号の注文来た。「文藝」からも十月号に採用する由手紙来た。ぼくは有名だから芥川賞などこれからも全然ダメ。へんな二流三流の薄汚い候補者と並べられたのだけが、たまらなく不愉快だ。二十日すぎに佐藤春夫のところへ行く。いささかたのしみ。(後略)】
(『筑摩書房 太宰治全集(昭和四十九年初版第六刷)第十一巻』)
この頃の太宰の人となりが窺える内容である。
『書簡集』を書いた頃、太宰は、郷里の親戚の後輩に、こんな見栄ばかりの傲岸不遜な手紙を書いていたのだ。
【へんな二流三流の薄汚い候補者と並べられたのだけが、たまらなく不愉快だ。】
とは、まさに、選ばれてあることを自認している太宰ならではの言葉ではないか。
誰だってこんな若気の至りのようなみっともない手紙など書簡集には収めて欲しくはない筈だ。
そしてこういう場合、太宰は自らを反省するのではなくて、書簡集の存在の方を否定するのである。
太宰は『一歩前進二歩退却』(昭和十三年)で、
【作品の面白さよりも、その作家の態度が、まず気がかりなる。その作家の人間を、弱さを、嗅ぎつけなければ承知できない。】
と読者を批判したが、私は、作品には作家の態度、もっとわかりやすく言えば「覚悟」というようなものがおのずと表れてくるのものだと思う。
太宰が『如是我聞』で志賀を批判した姿勢こそ、【作品の面白さよりも、その作家の態度が、まず気がかりなる。その作家の人間を、弱さを、嗅ぎつけなければ承知できない。】ではないのか。
しかも、太宰の「弱さ」とされるものは、
【選ばれてあることの恍惚と不安とふたつわれにあり】
という、その「不安」から出ているものであって、自分を高いところに置いたままの「弱さ」であり、彼の「偽悪・露悪」も同質のものである。
そして、太宰が『津軽』の中で志賀に投げつけた言葉は、そのまま葛西から太宰に投げ返えされるものだろう。
それは、例の、
【ユウモアを心掛けてゐるらしい箇所も、意外なほどたくさんあつたが、自分を投げ出し切れないものがあるのか、つまらぬ神経が一本ビクビク生きているので】
という一節であり、葛西や百閒の作品に比べてみたならば、太宰の作品こそまさにこのような性質のものではないか。
太宰の晩年の「偽悪・露悪」は、「郷土の秀才」の、あくまでも技巧的なものであって、太宰が『十五年間』の中で切々と訴えた、例の自己弁護のような一節は、その【つまらぬ神経が一本ビクビク生きている】の最たるものではないだろうか――。
太宰は、『もの思ふ葦(その一)』(昭和十年)に収められた『書簡集』の中で、作家の書簡集を評して、
【作家の、書簡、手帳の破片、それから、作家御十歳の折の文章、自由画。私には、すべてくだらない。(中略)あかの他人のかれこれ
と書いて、書簡集というものの存在を痛烈に批判した。
それを書いたのは昭和十年、太宰が第一回芥川賞の件で一人勝手に大騒ぎした年である。
この時期の太宰の手紙を一つだけあげて置きたい。
昭和十年八月十三日、後輩の画学生小館善四郎に宛てたものである。
(後に、小舘善四郎は初代の過ちの相手となる)
【芥川賞はづれたのは残念であつた。「全然無名」といふ方針らしい。「文藝春秋」から十月号の注文来た。「文藝」からも十月号に採用する由手紙来た。ぼくは有名だから芥川賞などこれからも全然ダメ。へんな二流三流の薄汚い候補者と並べられたのだけが、たまらなく不愉快だ。二十日すぎに佐藤春夫のところへ行く。いささかたのしみ。(後略)】
(『筑摩書房 太宰治全集(昭和四十九年初版第六刷)第十一巻』)
この頃の太宰の人となりが窺える内容である。
『書簡集』を書いた頃、太宰は、郷里の親戚の後輩に、こんな見栄ばかりの傲岸不遜な手紙を書いていたのだ。
【へんな二流三流の薄汚い候補者と並べられたのだけが、たまらなく不愉快だ。】
とは、まさに、選ばれてあることを自認している太宰ならではの言葉ではないか。
誰だってこんな若気の至りのようなみっともない手紙など書簡集には収めて欲しくはない筈だ。
そしてこういう場合、太宰は自らを反省するのではなくて、書簡集の存在の方を否定するのである。
太宰は『一歩前進二歩退却』(昭和十三年)で、
【作品の面白さよりも、その作家の態度が、まず気がかりなる。その作家の人間を、弱さを、嗅ぎつけなければ承知できない。】
と読者を批判したが、私は、作品には作家の態度、もっとわかりやすく言えば「覚悟」というようなものがおのずと表れてくるのものだと思う。
太宰が『如是我聞』で志賀を批判した姿勢こそ、【作品の面白さよりも、その作家の態度が、まず気がかりなる。その作家の人間を、弱さを、嗅ぎつけなければ承知できない。】ではないのか。
しかも、太宰の「弱さ」とされるものは、
【選ばれてあることの恍惚と不安とふたつわれにあり】
という、その「不安」から出ているものであって、自分を高いところに置いたままの「弱さ」であり、彼の「偽悪・露悪」も同質のものである。
そして、太宰が『津軽』の中で志賀に投げつけた言葉は、そのまま葛西から太宰に投げ返えされるものだろう。
それは、例の、
【ユウモアを心掛けてゐるらしい箇所も、意外なほどたくさんあつたが、自分を投げ出し切れないものがあるのか、つまらぬ神経が一本ビクビク生きているので】
という一節であり、葛西や百閒の作品に比べてみたならば、太宰の作品こそまさにこのような性質のものではないか。
太宰の晩年の「偽悪・露悪」は、「郷土の秀才」の、あくまでも技巧的なものであって、太宰が『十五年間』の中で切々と訴えた、例の自己弁護のような一節は、その【つまらぬ神経が一本ビクビク生きている】の最たるものではないだろうか――。