第56話 第二の欺瞞『韜晦の仮面』【20】

文字数 1,144文字

【20】

 太宰は『如是我聞』で、志賀に対する当てつけとして、

【戦後には、まことに突如として、内村鑑三先生などといふ名前が飛び出し】

 と書いたが、私に言わせれば、

「戦後には、太宰の口からまことに突如として、自称百姓などという言葉が飛び出し」

 なのである。

 太宰は、「津軽土着のもの」を生理的に嫌悪していた人間だ。
 美知子の『回想の太宰治』にはそうしたことも描かれている。
 太宰が生家に疎開中のエピソードだ。

【太宰は帳場(会計係)のN老人に誘われて、賽の河原の地蔵様のお祭りに出かけた。帰ってきたふたりを出迎えて「どんなでした」と聞いたが、太宰はただ、例の独特な口調で、「いやはや、じつになんとも形容すべからざるものであった」と言うばかり、Nさんもあいまいに笑って何も話してくれなかった。太宰の好まざる光景であったことはたしかであるが、(中略)イタコも、稲荷神社も、太宰のロマンチシズムとはとうてい相容れぬ、向こう岸のものであったのだ。】
(津島美知子『回想の太宰治』)

 太宰は、大きな商家に生まれその温室のような環境の中で十八年間育った。
 太宰にとっては、その生家がたまたま津軽にあったということであり、太宰の意識の中では、津軽の土着性は自分にとって無縁の存在だったのだ。
 その生家も、

【兄たちの目は始終、東京に向けられていて、兄は東京から文学や音楽などの新しい趣味を田舎に持ち込んだ。】(同)

 という家であり、その中で生まれ育った太宰にとっては、「生家」は常に意識の中にあっても、「津軽土着のもの」は意識の中にはほとんどなかったのではあるまいか。

 戦中、空襲を体験し死を実感するようになった太宰が、

【自分の身も、いつどのやうな事になるかわからぬ。いまのうちに自分の生まれて育つた津軽を、よく見て置かうと思ひ立つたのである。】

 という気持ちで津軽を訪れ、『津軽』を書くまでは、太宰にとって故郷「津軽」の存在は、むしろ自分にとって邪魔なものあったのかもしれないし、そういった意味で、有名な【汝を愛し汝を憎む】という言葉は太宰の本音であったのだろう。

 『津軽』にしても、太宰独特のロマンチシズムに縁取られた口当たりのよいものに仕上げられており、そこに描かれた津軽は、淡く美しいばかりであり、そこに描かれた津軽人はあくまでも純朴である。
 当然、読者は『津軽』の中で「純朴」に描かれた津軽の人々と太宰を重ねて見るであろう。
 そうなれば、その後太宰は大威張りで、

【いまの私が、自身にたよるところがあるとすれば、ただその「津軽の百姓」の一点である。】

 と臆面もなく書くことができるである。
 太宰は津軽を愛しているのではない。
 太宰は津軽にある生家と、生家を中心に自分とつながる人々を愛しているだけなのだ。
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