第100話 エピローグ2023【6】

文字数 833文字

【6】

 私事になるが、私の両親はふたりとも若いころに結核を患い、結核療養所で知り合い結婚した。
 昭和30年代、ふたりが生き延びることがことができたのは、当時の結核の特効薬「ストレプトマイシン」に間に合った世代だからだ。
 1943年以降、アメリカで開発された抗生物質ストレプトマイシンは、その劇的な効果によって「魔法の弾丸」と呼ばれた結核の特効薬であった。それにより、結核は不治の病では無くなった。
 終戦直後の日本にとって、そのアメリカ製の「魔法の弾丸」は非常に高価なものであり、入手が極めて困難な薬剤であった。
 しかし、その極めて入手困難なストレプトマイシンが、或る密輸事件によって日本国内に流通した経緯が、Wikipediaにはこう書かれている。

【1949年には、海烈号事件と呼ばれる密輸事件で、中国国営の海烈号から大量のアメリカ製のストレプトマイシンを含む20万ドル相当といわれた密輸品が摘発され、この物資は摘発後に競売にかけられ日本国内で使用された。その結果、密輸事件が多くの結核患者を救った。】

 1949年は、昭和24年である。太宰が心中したのが昭和23年。もし、太宰があと一年自殺を思いとどまっていたら、太宰の結核にストレプトマイシンが間に合っていたかもしれないのだ。
 戦後文壇の寵児となっていた当時の太宰である、そのとき太宰が存命であったなら、このストレプトマイシンは支援者らの手によって、太宰の元へ必ず届いていたはずだ。

 そして、その翌年から日本もようやく国産化に着手する。

【1950年より科学研究所(理化学研究所の前身)が生産に着手。1951年10月には30トンタンク3基を稼働させ、国内需要の1/3を生産する規模にまで拡大させた。】

 昭和26年からは、国産のストレプトマイシンが流通するようになっており、私の両親の命を救ったのも、この国産のものだった。
 太宰があと一年生き延びていたなら、継続的にストレプトマイシンの治療を受けられたはずなのだ――。
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