第94話 終章『最期の逆説』【9】

文字数 1,053文字

【9】

 トルストイは、

【生涯の最後の日々を孤独と静寂のなかで過ごすために俗世を去るのだ。】

 と言って家出しながら、その間多くの報道機関や野次馬に付きまとわれ、彼の病床の様子は実況放送までされ、彼は、彼の願いとは全く逆の死を迎えることになった。
 
 生まれながらにして貴族で、何不自由ない青春時代を過ごし、あらゆる放蕩を経験し、大作家として名声も富も家族も、現世において望み得るすべてのものを手に入れたトルストイが、最後に手に入れられなかったものは、孤独と静寂のなかで過ごす晩年と自身が望む死に方だった。
 トルストイは、自ら描いたユリウスのような最期を迎えることができなかったのである。

 それに比べれば、太宰は、己の信奉者である富栄と共に、自分が望んだような晩年と、死に方を手にしたと言えるのかもしれない。

 トルストイは最後まで信念を貫いて伝道者として生き通した。
 志賀は最後まで作家として生き通した。
 しかし、太宰は途中で降りてしまった。
 太宰は、自身の手で自分を現世から追放するため、それによって内なる信仰の道に入るために『如是我聞』を書いたのだろうか? 
しかし、それも未完のままになった。 
 自殺とは太宰にとって、彼が内なる信仰に入るための入り口だったのだろうか? 
 もし、それが太宰の方法論だったとしたら、おそらく「ああ、それは間違っていた」と、太宰は後悔してはいないだろうか――。

 太宰は、自身の「真の神」をとうとう明かさなかった。
 しかし太宰は、聖書を拠りどころとする「信仰」を持っていた。
 そして――、そうした信仰を現世において実践しようと、死の瞬間まで苦闘した偉大な先達の存在を意識していたはずだ。
 なんの確証も無い単なる妄想ではあるが、おそらく晩年の太宰は、トルストイの著作と言動に呪縛されていたのではないのか。
 太宰の自死は、結果としてトルストイの晩年の行動を逆説的になぞったものになった――、私にはそう思えてならないのである。

 そして、『如是我聞』と云う太宰の「作家としての遺書」は、この聖句が己に成就されんがために書かれたものではなかったのか。
 
【義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなた方より前の預言者たちも、同じように迫害されたのである】
(マタイによる福音書五章)


【了】
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