第73話 第三の欺瞞『虚飾の傑作』【10】

文字数 957文字

【10】

 太田静子は、自分の日記を利用され自分の思想や内省を換骨奪胎されて引用された挙句、自分をモデルとして、「ただ一度会った際に上原から受けた、触れるだけのようなキスを「ひめごとと」と胸に秘め、その六年後に一方的な恋情を綿々と綴った手紙を返事が来ぬまま三通も出し、その挙句、想う相手の元へ押しかけていくというような女性」を造形されたことについて、どのような感想を持っていたのだろうか――。

 『斜陽』の主人公のかず子は、感覚的で感傷的な感情過多の女性として描かれており、そのモデルである太田静子の知性を付与されなかった。
 そのため『斜陽』においては、前半では感覚的な女性として描かれているかず子が、後半突如として【道徳の過渡期の犠牲者】なる言葉を使い、【私の道徳革命の完成】を宣言するのだが、そこには少なからず違和感が残る。
 加えて、前半部に「古い道徳」に当たるものがしっかりと描写されていないため、後半部にかず子が語る「古い道徳の打破」が生きてこないのだ。

 太田静子は、太宰にとってこれまで付き合ったことのない特異な女性だったのだろう。
 彼女は太宰の予想以上に理屈っぽく、そして、太宰に一方的に庇護を求める女性だった。
 太宰は太田静子との付き合いの度合いを深めていくうちに、次第に彼女の存在が、精神的に負担になり、次第に距離を取り始めていたように見受けられる。

 太宰のそのような精神状態が、『斜陽』の主人公であるかず子のキャラクターを不安定なものにし、ひいては『斜陽』という作品自体が不安定なものになった要因であろうと私は推測している。

 かず子のキャラクターについては、第四章の「かず子の手紙」あたりから次第に変調し、第六章を境にして、それ以前とそれ以後のかず子はまるで別人のようになっている。
 【戦闘、開始。】その号令を境に、かず子の人格は変わってしまったと感じるのは私だけだろうか。
 これには思い当たることがある。
 次にそれを裏付ける資料をあげる。

【前の年の三月末、二女が生まれた。この頃まではぴんとしていた。出生届に元気よく役場に出かけた姿が目に残る。その姿勢が崩れ始めたのは五月頃からである。被害妄想が昂じて、むやみに人を恐れたり、住所をくらましたりする日常になっていた。】
(津島美智子『回想の太宰治』)
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