第67話 第三の欺瞞『虚飾の傑作』【4】

文字数 1,358文字

【4】

 太田静子は、一般に思われているような「夢見る夢子ちゃん」だけの女性ではなく、直感的に本質を見抜く資質のある女性だったようだ。
 それを如実に表わしている一節を『斜陽日記』から引用する。
 それは無条件降伏を知らせる玉音放送の後の家族の会話である。

【「空襲がなくなるのね。」
二度も三度も繰り返した。
お母さまは、最後まで、だまって、いっらしゃった。
食後兄上と庭へおりて、池の傍の、低い石に腰をおろして、議論した。
「国体は変るぞ。」
と仰っしゃる兄上に、
「変わらない」
と、私は主張した。
「負けるに、決まっていたんじゃないか。そんな戦争に、死んでいった奴は馬鹿なんだ。」
「私は、死んでいったかたたちを、神さまだと思っています。これからだって、何時までも神さまだと思います。死んだかたたちを馬鹿だなんて仰っしゃるお兄さまを憎みます。」
「お前みたいな人間には、これから、おそろしいブランクがやって来るよ。だいいち何も分かっていないんじゃないか? 楠木正成は、あれは馬鹿なんだぜ。負けるに決まっている戦さをするなんて、馬鹿じゃないか。足利尊氏の方が偉いんだ。」
「お兄さま、ブランクって何のこと? 私のこころは、そんなブランクにとらえられる訳はありません。お兄さまのイデオロギーこそ戦争ブランクだったのです。どうしてもっと、戦えなかったの?…… 私、これからいろんな本を読むつもりです。古い日本が滅びて、新らしい日本が生まれるように、私も又、新らしく生きていくつもりです。正直に生きていくつもりです。お兄さま達は、戦争中不正直だったのでしょう?」】(同)

 この静子の生の声は、戦前・戦中の「古い道徳」的なものの核心を捉えており、それらと決別しようと決意する静子の言葉に、胸を衝かれる思いがする。
 しかし太宰は、静子の人となりをよく表わしているこの一節も『斜陽』には採用してはいない。

 この会話の最後の、
【お兄さま達は、戦争中不正直だったのでしょう?】
 という静子の言葉は圧巻である。

 太宰は、『斜陽』のラストに、【古い道徳とどこまでも争ひ】云々、という生煮えの理屈をくだくだしく書くよりも、この静子の本当の生の声をそのまま掲出した方が良かったのではないか。
 「国体は変わる」と言う兄に対して、「国体は変わらない」と言いながら「古い日本が滅びて、新しい日本が生まれる」とも続ける静子の言葉には、それが戦後日本の姿になったことを考えると、静子の直感力といったものを感じざるを得ない。

 そして、その、
【古い日本が滅びて、新らしい日本が生まれるように、私も又、新らしく生きていくつもりです。正直に生きていくつもりです。】 
 という言葉は、その前年昭和十九年一月に下曽我を訪ねて一泊した太宰への恋情を心に置き、太宰への想いに対して正直に、太宰との恋を新しい人生として生きていく、という思いが重なっていた言葉のようにもとれる。

 昭和二十年十二月に静子の母が亡くなり、途方に暮れた静子は、津軽に疎開していた太宰に手紙を出す。
 そして太宰は、昭和二十一年一月十一日付けで、
【拝復、いつも思っています。ナンテ、へんだけど、でも、いつも思っていました。】
 で始まる有名な返事を送り、それ以降太宰は、彼女の日記目当てに急速に静子に接近していく――。
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