第102話 2023 あとがき【1】

文字数 900文字

【1】

【「富栄さん、よくお世話なすってます。先だっても、太宰さんが喀血されて、喉をつまらせて苦しんでおいででした。となりで聞いている私たちも息がつまるようなご様子で。そのうち富栄さんが廊下へ出ってたもんだから、私も出てみたんです。ぎょっとしましたよ。富栄さんの口のまわり、血で真っ赤。喉につまった血痰を、口をあてて吸いだしたんでしょうね。お嬢さんの看病には頭がさがりますけど、うちには山崎さんのほかにも、部屋を貸してましてね、お子さんのいるご夫婦もおられますから、肺病もちの方がそうそう来られたんじゃねぇ」
 信子はがく然とした。娘は、結核も恐れずに口移しで血を吸いだした……。これは好きだの惚れたのという程度ではない。本気で入れこんでいる。ある境界線をこえたむこうへ、親の手の届かないところへ行ってしまっている。】
(信子は富栄の母)
(松本侑子 『恋の蛍 山崎富栄と太宰治』)

【昭和二十三年六月十三日深夜、太宰治は山崎富栄さんと玉川上水に入水した。山崎さんなればこそ一緒についていって下さったのだ、自分にはとても無理だっただろう。母はその時、しかとそのように思ったという。】
(太田治子 『明るい方へ 父・太宰治と母・太田静子』)

 これほど、相手から惚れられた男もそうそういないだろう。
 そして、太宰に惚れて惚れて惚れ抜いた女たちも、女として生きた人生に悔いは無かっただろう――。
 
 太宰は幼い頃からの望み通り、生前多くの人間から愛された。
 そして、死後七十年経っても、その作品と共に多くの人々から慕われ同情せられ愛し続けられている。

 太宰は、ああやって死んだことで、欲しかったものをすべて手に入れ、山崎富栄は「太宰を殺した女」と云われ続けた。
 もし仮に、富栄に太宰の子供ができてさえいたら、富栄は死なずにすんだろう。
 太宰も二人の愛人に子供ができてしまっては、とても一人で自殺することもできなかっただろう。
 家庭と二人の愛人とその子供を養うために、否が応でも身過ぎ世過ぎで書かざるを得なかっただろう。

 歴史にもしもはないとは言え、太宰の晩年の悲劇が喜劇に変わった後の、彼の作品を読んでみたかった。
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