第8話 第一の欺瞞『如是我聞』 【序】

文字数 1,408文字

  
【序】

【また、あなたがたが祈るときには、異邦人のようにくどくど述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。彼らの真似をしてはならない】                     
(マタイによる福音書六章)

太宰の最期の祈りであったろう『如是我聞』は、私には「くどくどしい祈り」にしか聞こえない。

 *

 志賀直哉の『クローディアスの日記』(大正元年)を読み始めて直ぐに、これは何か以前読んだことがあるような気がした。そして思い出したのが太宰の『駆け込み訴へ』だった。

 そして、しばらくしてから、「そういえば、太宰に『新ハムレット』ってのがあったな」と気付いた私なので、自分の太宰信仰も怪しいものだと思わず苦笑した。

 志賀の『クローディアスの日記』は、先王である兄を毒殺して王位を奪い、その王妃を妻としたクローディアス王の次第に精神に変調を来たしていく様が、モノローグの日記を通して描かれている。

 『クローディアスの日記』の非凡なところは、作品の中に直接登場しないハムレットが、クローディアス王の日記の独白によってのみ描き出されており、その狙いがほぼ成功していること、そしてシェークスピアの『ハムレット』とは毛色の違ったハムレット像が描かれていることだろう。

 私のような浅薄な読者は、志賀直哉といえば教科書に出てくるような、所謂「極めて日本的」な身辺小説のような作品しか知らなかったので、この作品を読んだとき、彼にこのような西洋の古典に材を取った思索的な作品があることを、むしろ意外に思った。

 明治四十五年に成立したと考えてよいこの作品が、さして古めかしくも感じられず違和感なく読めてしまったことに少なからず驚くと同時に、シンプルでスタンダードな作品には普遍性があるのだということをあらためて実感させられた。

 片や太宰の『新ハムレット』は私が信者時代に読んだ時でさえ、私にとってはほとんどピンと来ない作品だった。
 当時私はその作品の良さが全く理解できなかったのである。

 今、その時の読後感を表現するなら「冗漫」ということだろう。
 当時は要するに読んでいて飽きてしまったし、最後にハムレットが、

【信じられない。僕の疑惑は、僕が死ぬまで持ち続ける。】

 という台詞を言って終わるという結末があまりにもあっけなく感じられて、これこそ「竜頭蛇尾」というのではないかと思ったりもした。

 太宰の『新ハムレット』の創作意図の陰には、志賀の『クローディアスの日記』があるのことは容易に想像できるし、太宰は志賀のその作品を意識し奇をてらい過ぎたことによって、自作を破綻させてしまったようにも読める。

 太宰は作家としての地位を固めた頃から、志賀の存在を意識していた節があるが、太宰の、最晩年に至るまでの志賀に対する或る種の執着心には尋常ならざるものが見受けられる。

 その尋常ならざる執着心の理由はどこにあるのだろうか。
 私は、その疑問に対する答えを探す作業の中で、思いもよらない太宰の欺瞞を見つけ出すに到った。

 巷間伝えられる、「太宰は戦争協力しなかった稀有な作家である」という定説は、はたして真実なのだろうか。

 太宰が、戦時中精力的に仕事をした作家であることは、紛れもない事実であるが、戦時中に発表したそれらの作品のなかには、積極的ではないにせよ、結果的に戦争協力したといえる作品が存在するのである。
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