第97話 エピローグ2023【3】

文字数 897文字

【3】

 太宰が『斜陽』の最終稿を脱稿したのが、1947年(昭和22年)6月末だと云われており、『おさん』の執筆を開始したのが、その直後ではないかと推測されている。
 それは、『おさん』のなかに、

【「お寺へ? 何しに?」
 「お盆ぼんでしょう? だから、お父さまが、お寺まいりに行ったの。」
 嘘が不思議なくらい、すらすらと出ました。本当にその日は、お盆の十三日でした。】

 という一文があるからだろう。
 と言うのも、地方とは違って東京の「お盆」は、「七月盆」と云って7月13日~16日の四日間をで行われるからだ。

 それを前提にすれば『斜陽』と『おさん』は、「連作」と見ることもできるし、『おさん』は独立した作品と言うよりも『斜陽』のコーダであり、補足であり、重要な「締めくくり」であると言えるのではないか。
(コーダとは、クラシック音楽の展開形式のひとつで、楽曲の主題とは独立して作曲され、主題部の最後に展開される短いパートのこと。楽曲全体に余韻を残す重要なパートである) 

 この、『斜陽』が「新潮」に連載されて間もない時期、太田静子の所謂(いわゆる)「斜陽日記」が『斜陽』の元ネタとなっていたことを知っていた人物は、太田静子とその弟、そして山崎富栄の三人だけであり、他に可能性のある人物としては新潮社の太宰担当編集者 野原一夫が挙げられるだろう。

 そして、この4名のなかで、太宰の執筆内容に口出しできる人物を敢えて挙げるなら、日記の持ち主である太田静子しかいないだろうし、彼女なら「私が日記に書いていることが、まるで逆に書かれています」と太宰に面と向かって言いそうな気もする。
 
 しかし、あのプライドの高い太宰が、他人に指摘されて前作の内容を訂正するかのような振る舞いをするとはとても考え難い。
 やはり太宰は、『斜陽』で自分なりに納得できなかった部分や明らかに書き損じた部分を自覚しており、それらを自らの意思で『おさん』のなかで補足したのではないだろうか。

 私が、『おさん』を『斜陽』の締めくくりであると看做す《みなす》には訳がある。
 それは、『おさん』の最終分部に、太宰の最終的な「革命論」が描かれているからだ。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み