第64話 第三の欺瞞『虚飾の傑作』【1】

文字数 1,365文字

【1】

【不良とは優しさの事ではないかしら】

 かず子のこの言葉が物語るように、太宰のナルシシズムの結晶が、『斜陽』という作品なのだろう。

【一歩さきにのぼつて行く上原さんが、階段の中頃で、くるりとこちら向きになり、素早く私にキスをした。私は唇を固く閉ぢたまま、それを受けた。
べつに何も、上原さんをすきでなかつたのに、それでも、その時から私に、あの「ひめごと」が出来てしまつたのだ。】

 物語の登場人物である上原とかず子が、初めて出会った場面に描かれたシーンであるが、そのときただ一度、上原から触れるようなキスを受けたかず子は、それを「ひめごと」として胸に秘め続け、その六年後、上原に三通の手紙を送る。
 その手紙は、現代人が読めば「ストーカーの手紙か?」と思えるくらいのかず子の一方的な恋情を綿々と書いたものだが、上原はその三通の手紙に返事をしない。

 母の死をきっかけとしてかず子は上原の元に押しかけ、上原はそのかず子の行動に()される形で一夜の契りを結び、その結果かず子は懐妊する。
 物語はこの時点で既にリアリティを失い、太宰特有のナルシシズムの匂いが芬々(ふんぷん)と漂い始める。
 そして、私にはそれが太宰の自己弁護のようにも感じられてならない。
 『斜陽』に描かれたそれらのストーリーは、太宰が理想とする恋愛のスタイルなのだろうか。

 上原にキスを受けたかず子が、『私は不思議な透明な気分で』とか『私は世間が急に海のやうにひろくなつたやうな気がした』と思う場面を始めとして、太宰はこれでもかと「惚れられる自分」「惚れられても凛としている自分」「しかし相手を思いやり、弱く押し切られる自分」を書いてみせる。

 かず子の綿々たる三通のラブレターに返事をしない上原の設定などその最たるものだろう。
 そして太宰が、文中に、「今でも僕をすきなのかい。」「僕の赤ちやんが欲しいのかい。」「しくじつた。惚れちやつた。」などという上原の歯の浮くような台詞を散りばめながら、太宰自身と太田静子との現実の出来事を虚実入り乱れて描写するさまは、「小説技法」というよりも「太宰の言い訳」のように私には思えてならない。

 このような、登場人物を作者と重ねてしまう穿った見方は、浅薄で邪道な読み方であることは重々承知している。
 しかしながら私には、「太宰は『斜陽』の中で、自分を直治と上原の二者に分裂させて描いた」ように思えてならないのだ。

 そう考えれば、「直治の遺書」を太宰の遺書とみなすこともできるのかもしれない。
 また結末に書かれた、かず子の次の言葉は、上原と直治は同体の存在であることを物語っているのだろう。

【私の生まれた子を、たつた一度でよろしうございますから、あなたの奥さまに抱かせていただきたいのです。さうして、その時、私にかう言わせていただきます。
「これは、直治が、或る女のひとに内緒で生ませた子ですの。」(中略)直治といふあの小さな犠牲者のために、どうしても、さうさせていただかなければならないのです。】

 そして太宰は、かず子の口から、直治を【小さな犠牲者】と言わせた――。

 イエスの「断食するときには、あなたがたは偽善者のように悲しき面持ちをしてはならない」は、太宰のお気に入りの言葉だが、私には、『斜陽』が「悲しき面持ちで書かれた悲しき物語」に思えてならない。
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