第53話 第二の欺瞞『韜晦の仮面』【17】

文字数 1,193文字

【17】

 葛西のサービス精神は、いうなれば、「開き直りの虚構」であり、「徹底的に自分を落としてみせる」というものであるが、太宰は開き直ることもできなければ、自分を徹底的に落としてみせることもできない。
 太宰の言動や作品には、「郷土の秀才」的なつまらぬ自意識がいつも付きまとっている。
 例えば、太宰は初期の『道化の華』(昭和十年)で、このように書いているが、これなどは、太宰のつまらぬ自意識の典型であろう。

【僕はこの春、「私」といふ主人公の小説を書いたばかりだから二度つづけるのがおもはゆいのである。僕がもし、あすにでもひよつくり死んだとき、あいつは「私」を主人公にしなければ、小説を書けなかつた、としたり顔して述懐する奇妙な男が出て来ないとも限らぬ。】

 常に誰かの目を意識している。
 太宰が、作品のスタイルや技巧に凝るのは、『おしゃれ童子』(昭和十四年)の中で語られている、

【「瀟洒、典雅。」少年の美学の一切は、それに尽きてゐました。いやいや、生きることのすべて、人生の目的全部がそれに尽きてゐました。】

 という精神状態と同じである。
 お洒落が文学に変わっただけなのだ。

 一方、葛西は「私」を主人公にした一人称小説にこだわり続けた。
 葛西は自身の随筆『眠いような』(大正八年)において、

【元来自分のように虫が好くって怠け者人間は、一人称小説が一番かかりいいのか知れない。悲しいから、口惜しいからといって書いても、それでも一人称小説は成り立つ。】

 と言いながら、その自分の一人称小説については、当時の自然主義派の大御所 田山花袋を引合いに出し、

【もっともそこに花袋氏の所詮(しょせん)単なる一人称小説とそうでないものとの差別がなければならぬ。それを混同されたのではおしまいである。】

 という強烈な矜持と自負を持っている。

 葛西が自作の中で徹底的に自分を落としてみせることができるのは、自分の一人称小説に対する、その矜持と自負が根底にあるからなのだ。
 葛西の作品が読者の胸を打つのは、葛西の「覚悟」によるものなのだろう。
 葛西は、『創作談』の「文章に苦心する点」において、

【簡明で直裁であればいいと思っている。自分の創作はまだ実際において描写とか表現とかいう点まで進んでいない。】

 と書いているが、その稚拙とも言える簡素な表現方法こそが、葛西の「覚悟」をより鮮明に浮かび上がらせている。

 私には、己の文才と技量を誇る太宰と、己の愚直さを貫ぬく葛西は、作家として対極に位置しているように思えるのだが、その生い立ちと創作姿勢があまりに違いすぎる太宰に、葛西の本質が本当に理解できたのだろうか。
 自ら作り上げた「虚構の現実」の中で行き詰まり、その度ごとに狂言自殺を図った太宰に、死と隣り合わせの悲惨な現実の真っ只中にいながらも、作家として生き続けようと(もが)いた葛西善蔵の心情と実像を捉えることができる筈もない。
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