第7話 序章【もう一つの遺書】【5】

文字数 767文字

【5】

 イエスは、今まさに自分を裏切ろうとしながらも躊躇するユダに言い放つ。
 「友よ。おまえがなすべきことをなせ」と。
 ユダはその言葉に背中を押されて、イエスに死の接吻をした。
 イエスはユダを選び、ユダに最後の仕事を与えた。
 その仕事はユダにしかできなかったこと……。
 イエスが地上での使命を完遂するためには、弟子の誰かがイエスを裏切る役割を果たさなければならなかった。   
 ユダは選ばれたのだ。
 イエスは、「おまえがなすべきことをなせ」とユダに言った時、まさにその時、すでにユダを祝福していたのではないのか。

 富栄は太宰を裏切ったのではない。
 また太宰を死にいざなったのでもない。
 太宰の、「人生」という彼の作品を完結させるために選ばれたのが富栄だった。
 そして、「一緒に死ぬこと」は太宰から富栄への祝福であり、富栄にとっては念願であった永遠の婚姻の儀式ではなかったのか。
 それによって、富栄は、太宰が後世の人々の記憶にある限り、「太宰の最後の女」という地位を手にしたことになる――。

 太宰が、妻美智子に口述筆記させたという『駆け込み訴へ』。
 美智子はその様子をこのように書き残している。

【昭和十五年の十月か十一月だったか、太宰は炬燵に当たって、盃をふみながら全文、蚕が糸を吐くように口述し、淀みもなく、言い直しもなかった。ふだんと打って変わったきびしい彼の表情に威圧されて、私はただ機械的にペンを動かすだけだった。】
(津島美智子『回想の太宰治』)

 太宰は何者かに自分の人生を予め知らされていたのかもしれない。
 そのことに太宰が気付いていたかどうかは分らないけれど、太宰は何らかの力に突き動かされて『蚕が糸を吐くように』淀みなく、自己完結の未来に向かって、富栄の「もう一つの遺書」を記していたように私には思えてならないのだ――。 
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