第92話 終章『最期の逆説』【7】

文字数 721文字

【7】

 トルストイの評伝の中に、非常に興味深い一文がある。
 それはトルストイの妻ソフィヤの手記の中の一節だ。

【眠っているあの人に、「かわいい人」と呼びかける。年取ったあの人は子供のようだ。わたしの手で甘やかし、世話をし、毎日やってくる弟子と称するばかな連中から守ってあげなければならない子供。(中略)彼らはあの人のことをキリストだと思っている。リョーベチカも自分はキリストだと思っている】
(リョーベチカとはトルストイの愛称)

 一方の富栄は、太宰の寝顔のスケッチを描き、そのときの日記にこのようなことを書き記している。

【十月十七日
 月初めにキリスト(太宰さん)の復活があったから……。
 修ちゃんは、もう長いこと、よく眠っていらっしゃる。なんだかうれしい。編集者や訪問者などから解放されて、疲れたお体を少しでも永く休ませて差し上げたいの。ねむって、よくねむって、よい作品を書いて下さい。】

【十一月二十九日
 じーっとお顔を眺めていると、私が修ちゃんのお母様かなんかのような気持ちがしてきて、「この子のために、この子のためには、どんな苦しみでも……」と胸の中があつくなってくる。】

 トルストイの妻ソフィヤの手記、太宰の愛人富栄の日記、そのふたつの手記のあまりの酷似には、慄然とさせられる。
 エデンの園で、イヴがアダムに禁断の実を奨め、遂には食らわせたのも「アダムを独占したい」という、制することのできぬ(さが)によるものであったろう。
 イヴが禁断の実を食らったことにより、その身に刻印された「嫉妬」という(さが)は、営々と受け継がれ、女にとって男は、自分だけがその手で世話をし守ってやらねばならぬ幼子でなければならぬのだろう。 
 おそらく、未来永劫、永遠に――。
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