第99話 エピローグ2023【5】

文字数 938文字

【5】

【革命は、ひとが楽に生きるために行うものです。悲壮な顔の革命家を、私は信用いたしません。夫はどうしてその女のひとを、もっと公然とたのしく愛して、妻の私までたのしくなるように愛してやる事が出来なかったのでしょう。地獄の思いの恋などは、ご当人の苦しさも格別でしょうが、だいいち、はためいわくです。
 気の持ち方を、軽くくるりと変えるのが真の革命で、それさえ出来たら、何のむずかしい問題もない筈です。】

 ほんの一年前にそう書いていたはずの太宰が、なぜ愛人と心中しなければならなかったのか?
 考えられることは、当時の太宰が「気の持ち方を、軽くくるりと変える」だけでは解決できない問題をその身に抱えていたと云うことだ。

 それは、太宰の身を蝕んでいた結核という不治の病であり、結核の進行による体力の著しい衰えだったのではないのか。
 そのことが、太宰の創作活動を脆弱なものにしたのではないか、と云うことを私はこの手記のなかで述べたが、それを傍証するものとして、太宰の弟子であった詩人の別所直樹が、自身の著書『郷愁の太宰治』に書いていた文章を挙げたい。

 【ぼくは甘ったれて太宰さんの肩を抱いた。太宰さんは苦笑した、弱々しい声が流れた。
 ――別所、重いよ」
 太宰さんの身体が衰弱していることを、おろかなぼくは見抜けなかったのだ。太宰さんの顔色は、酒の故もあったろうが、明るかった。ぼくはその顔色に安心していたのだ。】

 昭和23年正月のエピソードだと云うが、死の半年前には弟子に肩を抱かれただけで、「重いよ」と弱々しい嘆息が出てしまうほど、太宰は衰弱していたのだ。
 おそらく、当時の太宰にとって酒は一種のカンフル剤であったのだろう。
 深酒の後には、病身にとって地獄の苦しみがあることを知っていながら、太宰は作家としての表の顔を保つために、一時の賦活(ふかつ)のために飲まざるを得なかったのだろう。
 
 なんの確証も無い私の憶測ではあるのだが、晩年の太宰が自宅に帰らなかったのは、自分の子供たちへの結核の感染を恐れてのことではなかったのか。
 小児結核は、成人に比べて病状の進展が早く、患者と接触し感染した後、わずか2~3ヶ月で発症に至ると云うことを、患者である太宰は重々承知していたのではないだろうか――。
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