第87話 終章『最期の逆説』【2】

文字数 1,151文字

【2】

 トルストイといえば、私は学生時代に、『戦争と平和』の一巻の三分の一ほどを読んだだけで投げ出していた。
 それ以来、一度も読んだこともなければ、蔵書も持っていなかった。
 私は早速、主だったトルストイの著作や評伝を集め、にわか仕込みの情報を繋ぎ合わせていくと、いろいろと興味深いことが分かってきた――。

 十九世紀後半から二十世紀初頭にかけての、世界的なトルストイの影響力は、想像以上のものだった。
 後にトルストイ主義と称される、「原始キリスト教の隣人愛」を基盤とした、「平和・平等・博愛主義」は、ガンジーや魯迅に影響を与え、彼らの民族運動の支柱となっていた。
 二十世紀初頭のトルストイは、民衆を圧迫するロシア政府や政府と癒着したロシア正教を公に批判し、教会からは破門され、政府からは危険人物とみなされて秘密警察の監視対象となり、著書の出版は妨害された。
 また、戦争や暴力を否定する立場から、1904年の日露戦争を批判する『悔い改めよ』を発表し、ロシア皇帝との対決も辞さなかった。

 晩年のトルストイは、作家であるよりも自らの思想の伝道者として活動した。
 私有財産を否定し著作権も放棄しようとしたため、ソフィヤ夫人との深刻な不和に陥り、八十二歳の高齢で家出を決行。
旅先の駅舎の駅長室で客死するというドラマチックな最期を遂げる。

 当時の日本文壇におけるトルストイの影響は絶大で、その著作よりも彼の論理や実践行動が日本の知識人に衝撃を与えていた。
 特に白樺派は、トルストイ主義の影響を多分に受けており、武者小路による「新しき村」の建設も、有島武郎が自身の所有する農地を解放したことも、トルストイ主義の実践だったことを私は今まで知らなかった。
 また、宮沢賢治が、羅須地人協会を設立したこともトルストイの農民教育に影響を受けたものではないか、という見方があることも知った。

 太宰は、自身の『如是我聞』を「反キリスト的なものへの戦ひ」と定義したが、太宰がそのように大上段に構えて、志賀を批判にした理由――、私にとって不可解だったその謎が、次第に氷解していくように感じられた。

 結局、太宰が『十五年間』の最後に書いた、

【まつたく新しい思潮の台頭を待望する。それを言ひ出すには、何よりもまず、「勇気」を要する。私の今夢想する境涯は、フランスのモラリストたちの感覚を基調とし、その倫理の儀表を天皇に置き、我等の生活は自給自足のアナキズム風の桃源である。】

 という境涯は、「まったく新しい思潮」ではなく、「勇気」を必要とするものでもなかった。
 太宰がそんなことを戦後突如として言い出す三十年も前から、すでに白樺派の先達が先鞭を付けていたものであり、それはとどのつまり、トルストイに端を発しているものだったのだ――。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み