第24話 第一の欺瞞『如是我聞』【16】

文字数 1,166文字

【16】

 『津軽』における太宰のこれらの指摘や批判が、志賀のどの作品を指しているものかは不明だし、作品批評として必ずしも的を射ていると私には思えないのだが、太宰は、自分が羅列した志賀批判の数々が、実は、「志賀の作品が多くの読者を獲得し、読者から支持される理由」であることに気付いていただろうか。

 太宰が志賀を指して論っている数々の事柄は、そのまま日本人の「小市民性」を指しているものだと私は考えている。
 読者の多くは、【自分の生き方に就いてときどき「良心的」な反省をする】のである。
 人間は誰だって【つまらぬ神経が一本ビクビク生きてゐる】のである。
 私達は【ケチな小市民】で、しばしば【意味も無く気取つた一喜一憂】することがあるのだ。
 だからこそ、多くの読者が志賀の作品に共感するのではないのか。
 そう考えれば、志賀は、当時の日本人の「小市民さ」にジャストフィットした作家だったと言えるのではないだろうか。

 しかし、志賀の作家としての姿勢は、ちっとも読者に迎合していない。
 志賀の作家としてのスタイルは、言うなれば「自分が書きたいものを、書きたいときに、書きたいように書く」であり、その作家人生をそのスタイルで貫き通したと言っても過言ではない。
 そして、それがたまたま大衆に支持されただけなのだ。

 志賀は夏目漱石に指名され、その後を受けて開始するはずだった東京朝日新聞の連載について、やはり自分には大衆受けするものを、しかも連載という形式では書けないからと断る。
 又、その後、『改造』に連載を開始した『暗夜行路』は途中何度も中断、都合十一回も中断し、連載開始してから完結するまで十六年もかかっている。
(これらの経緯については、『暗夜行路』の「あとがき」で志賀自身が語っている)

 志賀の弟子であった阿川弘之はそのことをこう語っている。

【「思うままに書く」志賀流は、見方を変えれば「極めて我儘な書き方」ということで、分り易くとか、読者のためにとか、新聞雑誌の約束事にしたがってとか、その種の配慮を、直哉は生涯を通じてほとんど払っていない。外部から何かの制約が加ると、書けなくなるか、書いて失敗するかのどちらかであった。ある事柄に関し、これは説明を添えておかないともはや一般読者に通じにくいかも知れぬ、しかし説明すれば全体の調子が弱くなる、そういう場合、迷わず、説明しない方を取った。】
(阿川弘之『志賀直哉の生活と芸術』)

 書きたいものを書きたいときに書きたいように書いて、書けないときは一切書かない。
 そして散発的に発表する作品は大衆に受け入れられ、社会的評価も受け、名声は揺るぎないものになっていく。
作家であれば、誰しもこんな作家になってみたいと思うのではないだろうか。
 そんな志賀の姿が太宰の目にはどう映っていたのだろう。
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